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彼女は未来に彼を残して

掲載日:2026/06/29

12月24日、小雨の降る夜。


大学時代から住んでいる六畳のアパートで、

成瀬蓮(なるせ れん)はこたつに潜り込みながら、彼女が来るのを待っていた。


ノートPCには『アニメ ソラノフロンティア』第12話が流れている。


ガチャ、と扉が開く。


コートのフードに小さな雨粒を乗せたまま、彼女が入ってくる。

蓮の様子を見て、ほんの少しだけ笑った。


「……あ、また観てるんだ」


「あっ美咲(みさき)、ちょうどいま神回なんだよ。

ここだけ……ここだけ観せて。あと半分で終わるから」


彼女は一瞬だけ視線を上げる。


「……そっか。じゃあ、一回家に戻るね。ちょっと寒くて……服、変えてくる」


「え、そうなの……ってことは、ギリでもう一話いけるな」


「ほんとそれ好きだね……でも、次きて準備まだだったら怒るよ。今日は……ほら、行くんだから」


蓮は笑って手を振る。


「わかってるって」


笑いながらコートを掴み、彼女は部屋を出ていく。


扉が閉まる音。

蓮はまた画面に視線を戻し、こたつに沈み込んだ。





1時間後、着信


スマホが震えた。

画面には「美咲の母」。


蓮はこたつから手を伸ばし、何気なく通話ボタンを押した。


「もしもし、お母さん?」


その瞬間、受話口の向こうの沈黙に気づく。

いつもの柔らかい声じゃない。

小さく震えている。


「蓮くん……今、少し話せる……?」


蓮の胸がざわつく。

背筋がすっと冷える。


「……どうしたんですか?」


「美咲が……帰る途中で車と接触して……」


蓮は言葉を失った。


「……接触……?

美咲が……?」


「うん……外傷はほとんどないの。

でも……倒れた時の打ちどころが悪かったのか意識が戻らなくて

……今、集中治療室にいるの」


呼吸が荒くなる。

胸の奥がざわざわと波立つ。


「……俺、行きます」


「……蓮くん……ごめんね……

集中治療室は……家族でも入れないの。

だから……今日は……待っていてくれる……?」


「……分かりました」


「ありがとう……蓮くん……

また連絡するから……」


通話が切れたあと、

部屋の静けさが急に重くなる。





──夕方。


スマホが震えた。

蓮は胸の奥がざわつくのを感じながら画面を開いた。


「……蓮くん……

さっき……美咲が……」


その声の震えだけで、

もう最後まで聞かなくても分かってしまった。


世界が止まった。


「…………嘘だろ……」


六畳の部屋に、

その言葉だけが落ちていった。







「雲の上の願い」




──柔らかい光が、まぶたの裏を照らしていた。


美咲はゆっくりと目を開ける。

そこは、白い雲をそのまま形にしたような、ふわふわのソファの上だった。

空気は温かく、肌に触れるものすべてが優しい。

痛みも、恐怖も、どこにもない。


「……ここ……どこ……?」


声に出した瞬間、胸の奥にひやりとした記憶がよみがえる。


──車のブレーキ音。

──雨の匂い。

──蓮の部屋を出たあとの、あの道。


「……ああ……私……事故にあって……」


言葉にした途端、すべてが繋がった。

美咲はそっと息を吸い、現実を受け止めるように目を閉じた。



「み、美咲さんっ! 宮本美咲さんですね!」


慌ただしい足音とともに、絵本から抜け出したような天使が駆け寄ってきた。

小さな羽をばたつかせ、手には分厚い書類の束。


「すみません、神様がちょっと……」


美咲は瞬きをする。


「……ちょっと……?」


「ええ、その……席を外してまして。

もう少々お待ちください」


美咲は思わず笑ってしまう。


「ふふ……神様も忙しいんだね」


怒る気持ちは不思議と湧かなかった。

むしろ、慌てる天使を気遣うように微笑む。


天使はほっとしたように胸を撫で下ろした。





……それから数時間後


ふわりと光が揺れ、柔らかな風が吹いた。

その中心から、優しそうな老人が現れる。


「おお、美咲よ!

すまんすまん、待たせてしまったのう」


「いえ……大丈夫です」


「いやいや、わしの落ち度じゃ。

詫びとして……願いを一つ聞こう」


美咲は迷わなかった。


「じゃあ……生き返りたいです」


神様の目が、ほんの少しだけ曇る。


「……すまんのお。それは叶えてやれんのじゃ」


声は優しいが、揺るぎない。


「魂には“輪廻の予定”というものがあってな。

お主の魂も、三年後に次へ行く場所が決まっておる」


美咲は(うつむ)き、指先をぎゅっと握った。


「……そう、なんですか……」


沈黙が落ちる。

その静けさの中で、美咲は小さく息を吸った。


「だったら……せめて……

もう一度だけ……蓮くんに会いたいです」


震える声。

胸の奥からこぼれ落ちる願い。


神様はゆっくりとうなずいた。


「うむ。それならば叶えてやれんでもないぞ」


美咲の目が大きく開く。


「……本当に……?」


「ただし、今日の24時までじゃ。

いま地上はもうすぐ23時。

あと一時間ほどしかない。

それを過ぎれば、魂はここへ戻る。

それが“奇跡の制限時間”じゃよ」


美咲は胸に手を当て、涙がこぼれそうになる。


「……蓮くんに……会える……」


神様は優しく微笑んだ。


「行っておいで、美咲。

伝えたいことを、ちゃんと伝えるんじゃ。

あっ、それと……三年後のお前さんの輪廻先のことだが……」






「再会」



──天国の光がふっと薄れた。

次の瞬間、冬の夜の冷たい空気が美咲の頬を撫でる。


「……ここ、蓮くんのアパート……」


見慣れた外観。

雨に濡れた階段。

玄関前の小さな植木鉢。

今日見ていた景色なのに、なぜか美咲は懐かしさを感じていた。



隣には天使が立っている。

何も言わず、ただ静かに(うなず)いた。


「電気……ついてないんだ……」


美咲は小さく呟く。


「……いないのかな……

それとも……私のお通夜……?」


天使が淡々と言う。


「美咲さんの体はいま、病院の死体安置所です」


「……そっか。じゃあお通夜じゃないね。

出かけたのかな……」


天使は蓮の部屋のドアを指さした。


「まあとりあえず」


「……そうね。とりあえず、部屋に入ろう」


美咲は壁に手を伸ばし、そっと通り抜けた。



部屋は真っ暗だった。

カーテンも閉められ、外の街灯の光だけが薄く差し込んでいる。


その中心で、蓮が座っていた。

背中を丸め、前を見つめたまま、まったく動かない。


美咲はそっと近づく。

天使は部屋の隅で静かに見守っている。


「……蓮くん」


その声が空気を震わせた瞬間──


蓮の肩がびくっと揺れた。


「……え?」


ゆっくりと振り返る。


「……美咲っ……!」


驚きと、信じられないという感情が一気に溢れた。

目が大きく開き、息が止まる。


美咲は微笑んだ。

涙をこらえながら。


「……ただいま」


その一言で、

蓮の止まっていた世界が、音を立てて動き出した。


「……美咲っ……

本当に……美咲なのか……」


声が震えていた。

信じたいのに、信じられない。

そんな感情がそのまま滲んでいる。


美咲は優しく微笑んだ。


「えっとね……蓮くんに会いに来たの」


「会いに……?

だって……お前……」


蓮の声が途切れる。


美咲は静かに言った。


「うん。私、死んじゃったよ」


その言い方は淡々としているのに、

どこか温かくて、蓮の胸を締めつけた。


「……っ……そんな……」


蓮の喉が詰まる。


美咲は続けた。


「でもね、神様がね……

“遅れてごめんね”って、願いを一つ聞いてくれたの」


「神様……願い……?」


「生き返りたいって言ったんだけど……

それはダメなんだって。

魂には“次の行き先”が決まってるから」


少し寂しそうに笑う。


「だから……せめてもう一度だけ、蓮くんに会いたいって言ったの」


蓮は唇を噛む。


「……美咲……」


美咲はそっと蓮を見つめた。


「そしたらね、

“今日の24時までならいいよ”って」


「……24時……?」


「うん。

それまでに……ちゃんと伝えたいこと、伝えなきゃって思って」


美咲の瞳は、揺れているのにまっすぐだった。


「だから来たの。

蓮くんに……会いに」


蓮が一歩、美咲に近づこうとしたその時──

視界の端で、白い羽が揺れた。


「……え?」


蓮は二度見した。


部屋の隅に、絵本のような天使が立っている。


「……ちょ、ちょっと待て……

あれ……天使……?」


天使は無言で軽く会釈した。


蓮は思わず叫ぶ。


「いやいやいや……

絵本のまんまじゃん……!」


美咲はくすっと笑った。


「うん、私も最初びっくりした。

それにね……神様もそのまんまだったよ」


「……神様も……?」


美咲

「うん。あのまま。

白いお髭で杖を持っててね……」


蓮の視線が再び美咲に戻る。

天使の存在は、もうどうでもよくなっていた。


「……美咲……」


その声は、泣き出しそうなほど弱かった。


本当に……幽霊なの……?

はっきり……そこにいるみたいなのに……」


一歩近づき、手を伸ばしかけて──止まる。

触れたら壊れてしまいそうで、怖かった。


美咲はそっと微笑んだ。


「うん、幽霊だよ。

ほら……」


美咲は蓮の腕に手を伸ばす。

指先が触れようとした瞬間──


スッ……


美咲の手は、蓮の腕をすり抜けた。


「……っ……!」


蓮の肩が震える。

そこに“いる”のに、触れられない。

その事実が、胸に深く突き刺さる。


美咲は少し寂しそうに笑った。


「ね……触れないんだ」


蓮は空気を掴むように手を握る。

けれど、何も触れない。


「……そんな……

だって……

こんなに……いるのに……」


美咲は静かに言った。


「うん。“いる”けど、“いない”んだよ。

今日だけの……特別な姿だから」


蓮は唇を震わせたまま、美咲を見つめる。


「……美咲……

今日……俺が……

すぐに出かける準備をして……

お前が……帰らなかったら……」


美咲の目がわずかに揺れる。


蓮は続けた。


「俺が……“観終わってからでいい?”なんて言わなければ……

美咲は……帰らなかったんだ……

だから……今日の事故は……俺のせいなんだ……」


その言葉は、蓮の胸の奥から絞り出された痛みそのものだった。


美咲はそっと微笑んだ。

悲しみではなく、蓮を包むような優しさで。


「……やっぱり、蓮くん……そう思ってるんだね」


蓮が顔を上げる。


「多分ね……蓮くんのことだから、

“自分のせいだ”って、絶対考えてると思った」


美咲は触れられないのに、

蓮の手にそっと重ねるように手を伸ばした。


「でもね、違うよ。

蓮くんのせいじゃないよ」


蓮の唇が震える。


「これはね……誰のせいでもなかったんだよ。

“あの時もし”なんて、どこにもないの」


「でも俺が……」


蓮が言いかけた瞬間、美咲は首を振った。


「蓮くんってさ……

自分のこと、すぐ悪者にしちゃうでしょ」


蓮ははっとして顔を上げる。


美咲は少し照れたように笑った。


「そんなふうに蓮くんが考えてたら……

私、死んでも死にきれないよ……」


そして、ほんの少しだけ冗談めかして。


「……もう死んじゃったけどね……へへ……」


蓮の目が揺れる。


美咲は優しく続けた。


「そんな顔しないで、蓮くん。

私ね、蓮くんと過ごした時間は……楽しいことばっかりだったんだよ」


蓮がゆっくりと顔を上げる。


「だからね……最後に蓮くんのそんな顔、見たくないよ」


美咲は蓮の頬に触れようとするように手を伸ばした。

触れられないけれど、その仕草だけで十分だった。


「蓮くんが自分を責めてる顔より……

私が好きだったのは、蓮くんが照れながら笑う顔なんだよ」


蓮はゆっくりと顔を上げた。

美咲は、懐かしい笑みを浮かべている。


「ねぇ……蓮くん。

私ね……思い出すと、どうしても笑っちゃうことがあるんだ」


美咲は少し照れたように続けた。


「……アニメサークルで初めて会ったときのこと、覚えてる?」


「……もちろん覚えてるよ」


「ふふ……あの時の蓮くん、

新作アニメ追いすぎて……全然勉強してなかったよね」


「……やめろよ……

あれは……ほんとに……反省してるんだよ……」


「だって……二年も留年して……

結局、私と同じ年に卒業したんだもん」


美咲がくすっと笑うと、

蓮の口元も、ほんの少しだけ緩んだ。


「……まぁ……そうだけど……

でも……そのおかげで……

美咲と同じ会社に入れたんだろ……?」


「うん。

あれは……ちょっと嬉しかったよ」


美咲は蓮の顔を見つめた。

その瞳には、優しさと懐かしさ、そして少しの切なさが混ざっている。


「蓮くん……覚えてる?

あの頃の絵……最初はほんとに……ひどかったよね……」


「……おい……」


「でもね……蓮くん、すっごく頑張ってた。

毎日描いて……私に見せてくれて……

“ここどうしたらいい?”って聞いてくれて……」


美咲は空中に指先で線を描くように動かす。


「気づいたら……蓮くんの絵、すごく上手くなってたんだよ。

線がね……どんどん優しくなっていって……

あぁ……この人、ほんとに絵が好きなんだなって……

そう思ったの」


蓮は小さく息を吸った。


「……美咲が……教えてくれたからだよ……

俺……美咲がいなかったら……

今の仕事……できてない」


「そんなことないよ。

蓮くんは……最初から優しかったから。

ただ……ちょっとだけ……不器用だっただけ」


美咲は笑った。

その笑顔は、懐かしさと愛しさと、少しの痛みが混ざっている。


「……ね、蓮くん。

こうして話してると……いろんなこと思い出すんだ」


美咲はふわっと笑う。


「…あらためて思い返すとさ……

私たちって……いつから付き合ってたんだろうね……?」


蓮は少し照れたように視線をそらす。


「……あぁ……

なんか……“告白”って感じはなかったよな……」


「うん。

なんか……気づいたら……蓮くんが私の隣にいて……

私も蓮くんの隣にいて……

それが当たり前になってて……」


美咲は少しだけ目を伏せた。


「不思議だなぁって……

今思うと……ほんとに……

自然に“そうなってた”んだよね」


蓮は照れ隠しのように言う。


「……まぁ……なんつーか……

こういうの……オタクカップルあるある……なんじゃねぇの……」


美咲は嬉しそうに笑った。


「ふふ……蓮くんが言うと、なんか説得力あるね」


蓮も、少しだけ笑う。


「だって……アニメの話してるうちに……

気づいたら隣にいるのが普通になってただけだし……」


美咲は静かに言った。


「ねぇ蓮くん……

オタクカップルってさ、趣味も方向性も一緒だから……

何も言わなくても、同じ方向に歩いてるんだよね。

気づいたら、隣にいるのが当たり前になってて……」


「私ね……それがすごく好きだった」


美咲は部屋を見回しながら、懐かしそうに微笑んだ。


「……ああ、もっと一緒に歩きたかったなぁ。

来年は結婚して、一緒に暮らす予定だったのに……

まぁ、今までもここで半分くらいは一緒に暮らしてたようなもんだけどね」


棚の上のヘアゴム。

洗面所の歯ブラシ。

クローゼットの端にかかった彼女の服。

“もういないはずの人”の気配が、部屋のあちこちに残っている。


蓮はその視線を追いながら、震える声で言った。


「……ほんとだよ……

どこ見ても……美咲のものばっかだ……」


美咲はくすっと笑いかけ──その瞬間。


部屋の隅で静かに立っていた天使が、一歩前に出た。


「……美咲さん。

残り……十分です」


その声は小さいのに、部屋の空気を一瞬で変えた。


美咲のまつげが震える。

蓮は息を呑む。


「……十分……?」


「うん……あと十分で……戻らなきゃいけないんだって……」


美咲は笑おうとしたが、うまく笑えなかった。


彼女は一度深く息を吸い、蓮の方へ向き直る。


「……蓮くん。

戻る前に……どうしても言っておきたいことがあるの」


蓮は顔を上げる。


美咲は静かに続けた。


「さっきね、神様が次はどこに生まれ変わるか教えてくれたの」


蓮の表情がわずかに強張る。


「……そしたらね……

三年後に……蓮くんの娘として生まれ変わるんだって」


美咲は泣き笑いのような表情で言った。


「びっくりしたよ。

でも……すごく嬉しかった。

だって……また蓮くんのそばにいられるんだもん」


蓮は息を呑む。

美咲はそっと微笑んだ。


「ねぇ蓮くん……

私ね……もう一度、蓮くんに会えるんだよ。

今度は……“娘”としてだけど……

また……蓮くんのこと、大好きになれるんだよ」


声が震える。


「だからね……

蓮くんは……ちゃんと幸せになっていいんだよ。

私のこと……置いていっていいんだよ。

だって……三年後……また会えるんだから」


蓮の目が揺れる。


美咲は少し照れたように笑った。


「……ねぇ、蓮くん。

もうひとつだけ……お願いしてもいい……?」


蓮は黙って頷く。


「三年後……私、蓮くんの娘に生まれ変わるんだよね。

だから……そのときは……」


美咲は蓮をまっすぐ見つめた。


「“美咲”って……名前をつけてほしいな。

また……美咲として、蓮くんのそばにいたいから……」


声が震え、涙がこぼれそうになる。


「同じ名前で……もう一度、蓮くんに会いたいの。

蓮くんに……“美咲”って呼ばれたいの……

……それがね……私の最後のお願い」


蓮は拳を握りしめ、震える声で言った。


「……そんなの……無理だよ……

美咲以外と……結婚なんて……考えられるわけないだろ……

俺は……これからも……美咲と一緒に生きていきたかったんだよ……」


蓮は必死に言葉を絞り出す。


「なんで……美咲がいなくなる前提で……

俺が誰かと結婚する話になってんだよ……

そんな未来……望んでない……」


美咲は静かに蓮を見つめる。


蓮は続けた。


「俺は……美咲と……

美咲と結婚して……

美咲と暮らして……

美咲と歳を取って……

美咲と……ずっと……」


言葉が途切れ、喉が詰まる。


「……美咲じゃなきゃ……嫌なんだよ……」


美咲は胸に手を当て、苦しそうに、でも優しく蓮を見つめた。


「……蓮くん。

本当はね……私もそうしたいよ。

蓮くんと結婚して……一緒に暮らして……

ずっと隣で笑っていたかったよ」


(美咲はそっと目を伏せる)


「でもね……これはもう“決まってる運命”なんだって。

私がどれだけ願っても……変えられないみたい」



そのとき部屋の隅で静かに立っていた天使が、珍しく咳払いをした。


「……あー……その……お二人とも……」


蓮も美咲も振り向く。

天使は気まずそうに、でもどこか申し訳なさそうに手を上げた。


「いま……神様から追加の連絡がありまして……」


美咲が目を瞬く。

蓮は涙の残る目で天使を見る。


「蓮くんが……あまりにも不憫すぎるので……

今日はクリスマスイブということもあり……

“蓮くんにも願い事をひとつ叶えてあげる”

……とのことです」


天使はぺこりと頭を下げた。


「神様、こう見えて……けっこう情に弱いんです……」


美咲は驚きで口を開け、蓮は言葉を失う。


「……蓮くんに……願い事……?」


「はい。

美咲さんの願いを叶えたのと同じように……

蓮くんにも“ひとつだけ”

ただし……“奇跡の範囲内”で、とのことです」


“あと数分で別れが来る”という現実の中で、

突然差し込まれた小さな光。


天使は静かに促した。


「さぁ、蓮くん。

時間がありません。

あなたの願いを……どうぞ」


蓮はうつむいたまま、拳を握りしめて動かない。


美咲は慌てて、明るい声を作った。


「えっ……蓮くん、願い事……?

ほら、前から欲しがってたじゃん」


美咲は必死に笑顔を作る。


「新しい液タブとか……

あの限定モデルのフィギュアとか……

ほら、あれ、ずっと迷ってたでしょ?

“高いからやめとく”って言ってたやつ」


蓮は反応しない。


美咲は少し焦ったように、でも笑顔を崩さず続ける。


「じゃあ……あれは?

蓮くんがずっと行きたがってたアニメの聖地巡礼……

神様なら、どこでも連れてってくれると思うよ?」


蓮は顔を上げない。

肩がわずかに震えている。


美咲はさらに声を明るくした。


「……あ、そうだ。

蓮くん、あのゲームの続編も欲しがってたよね。

“発売日まで待てない”って言ってたやつ……

神様なら……フラゲどころか……完成版くれるかも……」


蓮は沈黙したまま、拳を握りしめている。


美咲は困ったように笑いながら、もう一度だけ明るい声を作る。


「じゃあ……えっと……億万長者とか……どう?

ほら、神様が叶えてくれるなら……これくらい、いけるよね?」


美咲は天使を見る。

天使は一瞬だけ目を瞬かせ、こくりと頷いた。


「ええ、もちろん。

神様はそのくらいなら……軽いものだと」


美咲は蓮に向き直る。


「ね、蓮くん。

お金の心配とか全部なくなるよ。

欲しいものも、行きたいところも……全部叶えられるよ?」


蓮はうつむいたまま、微動だにしない。


美咲の声が少しだけ震える。


「……億万長者だよ……?

蓮くん、前に“宝くじ当たらねぇかな”って言ってたじゃん……

あれ、ほんとに叶うんだよ……?」


蓮は沈黙したまま、拳を握りしめている。


困った表情の美咲。


「……でもそうなると……私、三年後には“億万長者の娘”ってことになるのかぁ……」


冗談めかして笑おうとするが、

その笑いはどこかぎこちない。


「なんか……すごいよね。

生まれ変わったら……お金持ちの家で……

のんびり育つのかなぁ……私……」


言いながら、自分の胸が少しだけ痛むのを感じていた。


そして次の瞬間、蓮の唇が震え、かすれた声が漏れた。


「……生き返らせて……」


美咲も天使も、一瞬だけ動きを止めた。


蓮はうつむいたまま、握りしめた拳を震わせる。


「……物とか……金とか……

そんなの……どうでもいい……」


ゆっくりと顔を上げる。

涙で濡れた瞳は、美咲だけをまっすぐに見ていた。


「美咲を……生き返らせてくれよ……

それ以外……何もいらない……

美咲がいない未来なんて……いらないんだよ……」


声は震えているのに、言葉は真っ直ぐで、迷いがなかった。


「……美咲と……

これからも一緒に生きていきたいんだ……

結婚して……

一緒に暮らして……

歳を取って……

ずっと……ずっと……」


蓮は息を詰まらせ、喉を震わせた。


「……美咲じゃなきゃ……嫌なんだよ……」


美咲は胸に手を当て、苦しそうに、でも優しく蓮を見つめた。


「……蓮くん……」


天使が静かに告げる。


「……もう時間がありません。

蓮くん、願いを決めてください」


蓮は涙をこぼしながら、もう一度言った。


「……生き返らせて……

美咲を……生き返らせてくれ……

それ以外……何もいらない……」


その瞬間、美咲の身体がふっと揺らぎ、輪郭が薄くなった。


「……蓮くん……」


指先から透明になり、光がこぼれ落ちるように消えていく。


天使が静かに言った。


「……時間です」


美咲は泣き笑いの表情で蓮を見つめた。


「名前のことお願いね、蓮くん……

大好きだよ……」


その言葉を最後に、美咲は光の粒となって消えた。





「3年後」


白い廊下には、消毒液の匂いがかすかに漂っていた。

静けさの中に、緊張と温かさが混ざり合っている。


蓮は壁にもたれ、深く息を吐いた。

手のひらは汗ばんでいて、胸の鼓動は落ち着かない。


そのとき──


──オギャァァァァ……!


産婦人科の奥から響いた産声が、

廊下の静けさを震わせ、蓮の胸の奥まで届いた。


蓮は目を閉じ、短く息を吸う。


カチャッ。


ドアが開き、看護師が顔を出した。

優しい笑みを浮かべ、蓮を探すように視線を向ける。


「成瀬さん、おめでとうございます。元気な女の子ですよ」


蓮の喉がかすかに震えた。

言葉が出ないまま、ただ頷く。


「奥さま、すごく頑張られました。どうぞ、中へ」


蓮はゆっくりと歩き出す。

足が少し震えている。

産声はまだ、かすかに響いていた。


看護師が尋ねる。


「もうお名前は決めておられますか?」


蓮は小さく息を吸い、答えた。


「……はい。“優奈”です」


ベッドの上で赤ちゃんを抱く妻が、蓮を見上げる。


「ねぇ蓮くん……名前、“ユナ”って……

それってさ……ソラノフロンティアのユナから取ったでしょ?」


蓮は一瞬だけ目をそらし、照れたように笑った。


「……やっぱ、わかっちゃった?」


妻はくすっと笑う。


「そりゃわかるよ。蓮くん、あのアニメ何回見返したと思ってるの」


蓮は少し照れながらも、まっすぐ妻を見る。


「だって……ユナ、明るくて元気でさ。

どんな時でも前向きで……

……大好きなキャラなんだよ」


そして、少しだけ声を落とす。


「……まるで、お前と同じだよ。美咲」


妻──美咲は驚いたように目を瞬かせ、

そのあとゆっくりと微笑んだ。


「……そっか。

じゃあ……この子も、そんな子になるのかな」


蓮は赤ちゃんを見つめながら、静かに言った。


「なるよ。絶対に」


赤ちゃんが小さく泣き声をあげる。

二人は自然に顔を見合わせ、静かに笑った。






天国。

白い雲でできた巨大な本棚が、果てしなく続いていた。

棚には“人間の歴史書”がぎっしりと並び、

天使たちが脚立に乗って、一冊ずつ訂正作業をしている。


その中のひとりが、肩を落としながらため息をついた。


「……はぁ……終わらない……

神様が三年前に予定変えちゃったせいで……

いまだにこの作業、終わらないんですよ……」


天使は“修正済み”の札を貼りながら、ぐったりと項垂れる。


その後ろから、湯呑みを片手に神様がのんびり歩いてきた。


「そりゃあ仕方ないじゃろ。

あの二人から“生き返らせてください”と同じ願いを言われたら、

聞かないわけにはいかんじゃろうて」


天使は「ですよねぇ……」と小声でため息をつく。


「でもあの時、病院で大騒ぎになってましたよ。

死んだ人が生き返ってるって」


神様は湯呑みを傾けながら、のんびり答える。


「まあそんなこともあるじゃろうて。

それよりほれ、見てみい」


神様が雲を指でつまむように動かすと、

雲の切れ間がふわりと開き、下界が見えた。


そこには──

赤ちゃんを抱く美咲。

その隣で微笑む蓮。

三人を包むような柔らかな光。


天使は目を細めた。


「……ほんとだ……

あんなに幸せそうにしてる……」


神様は満足そうに頷く。


「そうじゃろう。

神はな、人を幸せにするのが仕事じゃからの」


天使はしみじみと頷いた……が、次の瞬間、顔をしかめる。


「……でもそのせいで、

僕は天国にいながら“地獄の日々”なんですよ……」


天使は本棚を指さす。


「これ全部、書き直しなんですから……!」


神様は湯呑みを置き、杖を軽く振った。


「ふむ……そんなに困っておるのか。

なんとかなるよ。ほれっ」


次の瞬間──

本棚のすべての本に“修正済み”の札が一斉に貼られた。


天使は目を見開く。


「……ホントだ……全部終わってる……

だったら最初からそうしてくれれば……!」


神様は肩をすくめる。


「それはお前が今まで強く願わないからじゃよ」


天使は固まった。


「…………えっ」


神様は優しく笑う。


「神の奇跡はな、強い願いで起こせるものなんじゃよ」


天使は遠い目をして、小さく呟いた。


「……そうだったんですか……

ではこれから何かあったら神様に──」


神様は間髪入れずに言った。


「天罰下すよ」


天使は即座に背筋を伸ばす。


「ごめんなさいっ」


雲の切れ間では、

蓮、美咲、そして赤ちゃんが幸せそうに寄り添っている。


──天国の本棚には、

今日も新しい“幸せな歴史”が静かに刻まれていく。

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