ハッピーラッキーセット
私には好きなものがある。給料日、お酒を飲みながら見るネコの動画、広告が途中で邪魔をしてくる安っぽいアプリゲーム、そしてハッピーラッキーセット。
「うわ、あの店員間違ってるじゃん、最悪なんだけど」
私は油のにおいが染みついた紙袋を開いて、中を覗きながら悪態をついた。私が注文したのはハッピーラッキーセットのチーズバーガーだ。それなのに中に入っているのはただのハンバーガーだった。
私は店に戻るか悩んで結局やめてしまった。公園のベンチから立ち上がるのがどうしても億劫だったからだ。貴重な休憩時間を無駄に使うわけにはいかない。私はこの公園で優雅なランチタイムを過ごすのだ。
包み紙を剥がすと狐色のバンズが現れた。中には薄いお肉や刻まれたピクルス、玉ねぎ、ケチャップソースが挟まっている。もっとお肉が分厚いものや、野菜がふんだんに使われたハンバーガーもある。でも私が求めているのは安っぽくておもちゃが付いてくる、このハッピーラッキーセットだった。
今回のおもちゃは犬のぬいぐるみだ。尻尾を引っ張ると口が開く、なんとも間抜けなおもちゃである。
「ハッピーをわたしに、ラッキーをあの子に、ハッピーラッキーセット」
犬の尻尾を引っ張りながらコマーシャルで流れる歌を口ずさむ。いかにも能天気なメロディーが脳裏に焼き付いて離れない。気づけばこの底抜けに明るいコマーシャルソングを歌ってしまう。
私は上機嫌でハンバーガーを頬張っていた。しばらくすると貸し切りだった公園に二人の若者が現れた。一人はスウェット姿で背中を丸めている十八かそこらの青年で、もう一人はこんがりと肌が日焼けした小学生らしい男の子だった。
平日の昼間にグローブを持って現れた二人を見て、学校はどうしたのだろうかと、素朴な疑問が浮かんだ。ただ青空の下でキャッチボールを始める彼らがなんだか眩しくて、細かいことはどうでもよくなってしまった。
私にも青春時代があったなと物思いに耽ってしまった。
「お兄ちゃんとキャッチボールするなんて超久しぶりじゃん」
少年は明るい声色で言った。喜びが声や表情にわかりやすく表れている。キャップを被った少年は爽やかな笑顔を浮かべており、自然と彼に目がいった。なんとなくもう一人の青年に目を向けると、こちらは対照的に覇気がなく、真っ白な肌が不気味だった。会話から察するに二人は兄弟のようだが、全く似ていないどころか、住む世界が違う赤の他人のように見えた。
「ともきは最近どう? 学校楽しいか?」
「楽しいよ。俺生き物係になってさ、ウサギにキャベツの芯ばっかりあげてるんだ」
「いっつもキャベツの芯だったらウサギもそのうち飽きるんじゃないかな」
「たまにはニンジンもやってるよ」
二人の何気ない会話に耳を傾けながら、私は懐かしい記憶を思い出していた。小学生の時、学校でウサギを飼っていた。名前はたしかポチとタマだった気がする。小学生なりの尖ったセンスで変な名前をつけていたのだ。
そういえばあのうさぎは最終的にどうなったんだっけ。私が卒業するまで生きていたのか、それとも死んでしまったのか、記憶が曖昧で覚えていない。楽しい記憶だけを残して大事なことは何一つ覚えていない、脳は意外と残酷だ。
「うちでも昔ウサギ飼ってたよね。まだ小さかったらあんまり覚えてないけど、あのウサギって最後はどうなったんだっけ」
「亡くなったよ。うちの庭に埋めてある」
少年と青年はキャッチボールをしながら絶え間なく会話を続けていた。緩やかな速度で進んでいく話が心地よくて、まるでラジオを聞いているかのような感覚だった。私はハンバーガーを咀嚼しながら、風景の一部となって公園に溶け込み、存在感を消していた。青春の真っ只中にいる二人を邪魔したくなかったからだ。
「兄ちゃんは最近どう?久しぶりに家を出た感想は?」
「太陽が眩しくて最悪」
「なんだよそれ、変なの」
思わぬ話題に私は内心驚いていた。どうやら青年の方は引きこもりらしい。どうりで肌が異常なまでに白いわけだ。スウェット姿なのも納得がいく。部屋に引きこもっていた青年がなぜ外に出て、弟とキャッチボールをしているのか。彼の心情の変化に興味が湧いてきた。
私はわずかな罪悪感と、それを覆い隠すほどの好奇心を持って、二人の話に聞き耳を立てたのだった。
「兄ちゃんさ、たまには家に友達とか呼んだらどう?」
「お前と違って友達とかいないんだよ」
「そうなの? 俺さ家に友達呼びたいんだ。でも今のままじゃ呼べないじゃん。大量のハエをなんとかしないといけないし」
「そうだな。なんか薬とか置けばいいのかな」
「やっぱり臭いのをなんとかしないといけないんじゃない? なんであんなに家の中臭いんだろ。生ごみとか? でもお母さんがちゃんと片付けてるはずだよね」
二人の会話を聞いて、私は不穏な雰囲気を感じ取った。家から異臭がすると聞いたら、物騒なことを考えてしまう。ついこの前ミステリー小説を読んだせいかもしれない。考え過ぎだと頭では理解していたけれど、私は好奇心のしもべとなって、いっそう耳を澄ました。私にとって二人の会話はいい暇つぶしだったのだ。
「お母さん体調悪いのかな」
「なんで?」
「だって朝起きてこなかったじゃん。初めてだよ、自分で朝起きたの。もうちょっとで遅刻するところだったもん」
「遅刻したらやっぱり怒られるの?」
「廊下に立たされる」
「そんな漫画みたいなこと本当にあるんだ」
「クラスの担任が超怖いからさ。お父さんとそっくり。怒鳴り散らかしてさ、チョークとか折っちゃうの。まじで嫌いなんだよね。そういえばお父さんも朝起きてこなかったな」
「先に起きて仕事行ったんじゃないの」
「そうかなー、じゃあ起こしてほしかったなー」
私は思わぬ方向に転がり始めた話に興奮を隠せなかった。どうやら家庭環境があまりよくないらしい。やっぱり事件の香りがする。これはどこかで見たミステリー小説と同じ設定だ。いや小説ではなくてドキュメンタリーだったか。とにかくどこかで聞いたことがある話だ。
彼らの話に夢中になるあまり、私はハンバーガーを食べることすら忘れてしまっていた。休憩時間は残り三十分ほどあるが、全てこの二人に捧げてもいいと思った。最後の五分でハンバーガーを詰め込めばどうにかなるだろう。
「ともき」
「なにー」
「もしもの話なんだけどさ」
「うん」
「遠くで暮らすことになったら、お前どうする」
「えー、嫌だ。転校とか大変そうじゃん」
「そうだな。でもお前ならどこに行っても友達できそうだけどなあ」
「なんでそんなこと聞くの」
「意味なんてないよ。もしもの話だよ」
現実味を帯びていく話に、私の好奇心は徐々に別のものへと変化していった。もしも本当に事件が起きていたらどうしようという漠然とした恐怖心だった。そんなはずない、これは二人の何気ない会話で、そこに事件性なんてない。ただ家から異臭がするだけ、ただ両親の姿が見当たらないだけ、ただ家庭環境が悪くて、ただ兄が引きこもりで、ただ遠くで暮らすことになるかもしれないだけ。
聞いた話を羅列するだけで恐怖心が色濃くなる。考えすぎだと自分に言い聞かせて冷静さを取り戻そうとする。私は意味もなく犬のおもちゃの尻尾を引っ張り、現実逃避を始めた。
しかし、どれだけ意識を逸らしても恐怖心から逃れることはできなかった。
「ずっとさ、父さんがお酒飲んで暴れて、母さんが発狂して家めちゃくちゃだったじゃん。俺はずっと部屋に引きこもってたけどさ、ともきはどうしてたの」
「イヤホンしてゲームやってた。ほら、島作るやつ。あれめっちゃ面白いんだよね」
「そうか。お前は強いな。俺もお前みたいに強かったらよかったんだけどなあ」
どこか悲しそうな声で青年が呟いた。彼の言葉の裏にどんな感情が渦巻いているのか、他人の私にはわからなかった。ただ不穏な足音が遠くから近づいてくるような気がして、嫌な汗が額に滲んだ。
もしも事件が本当に起きていたとして、私には何ができるだろうか。万が一通報したとして、警察は信じてくれるのだろうか。公園のベンチに座っていたら怪しい話を聞いちゃって、とりあえず事件みたいなので確かめてもらえますか。こんな曖昧な通報では信じてもらえないだろう。悪戯だと思われて叱られるかもしれない。社会人にもなって警察に叱られるのはごめんだ。
私にできることはない。これが結論である。
「兄ちゃんさ」
「んー?」
「昨日の夜なんかあった?」
少年はボールを投げながら問いかけた。青年がそれを受け取り、驚いたような表情で固まる。これまで続いていたキャッチボールが中断され、静寂が訪れた。
私は二人の顔を交互に見た。もしかしたらかなり危ない場面なのではと、一人で不安を募らせる。もしもここで少年が何かを口走ってしまったら、青年は何をしでかすかわからない。手に汗を握りながら、私は行く末を見守ることにした。
「俺昨日友達と遊んで帰ってきたらさ、家がすごい静かでびっくりしたんだよね。兄ちゃん珍しく部屋から出てきてたじゃん。お父さんとお母さんはもう寝てるって教えてくれたの兄ちゃんだったから、二人のことなんか知ってるかなって」
「見た?」
「え?」
「お前昨日の夜なんか見た?」
青年は血走った目で問いかけた。
私は気が気でなかった。どうか何も見ていませんようにと祈ることしかできなかった。少年が何かを見ていたとして、あの青年はどうするのだろうか。口封じのために弟を消すのか、それともおとなしく罪を認めるのか。いや、そもそも罪ってなんだ。私は何も知らないのに、勝手な妄想を膨らませている。
そうだ、これは全て妄想だ。事件なんて起きていない。あの青年は両親を殺してなんかいない。全て考えすぎなのだ。もう盗み聞きなんてやめて、早く職場に戻ろう。残ったハンバーガーとコーラを平らげてしまおう。それが心の平穏を保つ唯一の方法だ。
「なんにも見てないよ。ただ兄ちゃんが汗だくだったからさ、お父さんに何かされたんじゃないかと思って」
「俺は大丈夫だよ」
二人の会話を聞いて、私はほっと胸を撫で下ろした。やっぱり考えすぎだったのだと、強張った全身の筋肉を緩める。どっと疲れが押し寄せてきて、私はつい項垂れてしまった。明日からこの公園に来るのはやめようと考えながらハンバーガーに齧り付く。あと三分の一ほど残っており、私の優雅なランチタイムは終盤に差し掛かっていた。
兄弟はキャッチボールを再開し、グローブでボールを受け止める音がまた響き始めた。
「頭かゆい、はやくお風呂入りたいな、今日は入っていい?」
「まだだめだ。風呂直してないから」
「急にお風呂が壊れるなんてびっくりしたよ。昨日の夜からずっと誰もお風呂入ってないってこと?超汚い家族じゃん、俺たち。風呂入んないと学校行けないよ」
「今日みたいにさぼればいいよ」
「でもずっとってわけにはいかないじゃん」
少年が言葉を発した瞬間、青年は石のように固まって投げられたボールを見逃した。野球ボールが地面を弾み、砂まみれになって転がっていく。二人の間になんとも重苦しい沈黙が広がった。あまりに無音だったため、私は食事を中断した。包み紙がカサカサと鳴る雑音すら許されないような気がしたのだ。
私は息を潜めて二人に目をやった。少年は不思議そうに首を傾げていて、青年はグローブを外し、左手を気にするように押さえていた。
「どうしたの? 大丈夫?」
「大丈夫、ちょっと怪我してんだ」
「えー、何やったの?」
「昨日の夜さ、包丁握ってたら手切っちゃったんだ」
「兄ちゃん料理してたの、いいな、俺兄ちゃんの手料理食べてみたい」
「今度作ってやるよ」
「本当? やったー」
私は驚きのあまり固まった。青年の左手には雑に包帯が巻かれており、そこに血が滲んでいたからだ。
考えすぎじゃない。事件は本当に起きたのだ。引きこもりだった青年は、ヒステリックな母親と、酒乱の父親に苦しめられ、そして昨晩包丁で刺し殺してしまった。遺体を風呂場に隠し、家中に異臭が漂っている。私は脳内で物語を組み立てて深い絶望感に囚われた。
どうか嘘であってほしい。でもただの偶然と呼ぶには材料が揃いすぎている。私は子供じみたおもちゃとハンバーガーを持って話を聞くことしかできない。あまりに自分が無力で、情けなくて、なぜか泣きそうになってしまった。
「ともき」
「なにー」
「兄ちゃんさ、この後どうしても行かないといけないところあるから、先に帰っててくれない?」
「えー、一緒に帰ろうよ」
「ともきは連れていけないんだ。だから先に帰ってて。危ないからお風呂には入るなよ」
「わかったー」
「あと何かあったら警察に電話かけるんだぞ。番号わかるか」
「一一九でしょ」
「それは救急車だろ。一一〇だから間違えるなよ」
「言われなくてもわかってるよ。兄ちゃんは心配性だな」
少年は白い歯を見せて困ったように笑った。青年は光のない目をしており、その奥に凄まじい闇が渦巻いているようだった。
青年はこれからどうするのだろうか。警察に自首するのか、それとも一人寂しく人生を終えるのか。どちらにせよ少年は取り残されて厳しい現実に直面することになる。二人の運命はどこに向かっているのかわからない。私はただの傍観者で、彼らにとってはただの風景に過ぎなかった。
もしも私が一歩踏み出せば、彼らに話しかければ、運命は変わるだろうか。私も登場人物の一人になって物語はハッピーエンドを迎えるかもしれない。
「じゃあ俺はこっちだから、寄り道しないで帰れよ」
「兄ちゃん」
「んー?」
「なんで泣いてるの」
青年はポタポタと涙を流していた。宝石のように輝く大粒の涙だった。地面を濡らしていくそれは濁りのない透明で、その美しさに私はつい目を奪われてしまった。
「やっぱり最悪だわ、太陽の光。眩しくて目が痛え」
青年は笑いながら言った。その笑顔は少年と瓜二つだった。兄弟の血筋が彼らの笑顔を作っているらしい。
私は急いでハンバーガーを口に放り込み、余っていたコーラで流し込んだ。おもちゃをポケットにしまって包み紙やカップをゴミ箱に放り投げる。いつまで経っても履き慣れないヒールで駆け出し、私はある場所へ向かった。
店内に入った途端、飛び込んできたのは油の匂いだった。
「いらっしゃいませ、ご注文はお決まりですか」
「ハッピーラッキーセット二つください。ハンバーガーでもチーズバーガーでもいいので、とにかく早くしてください。飲み物はコーラで、おもちゃもください」
幸い他に客はおらず、私は一切待たずに注文することができた。はやる気持ちを胸に秘めながら渡された紙袋を抱える。私は炭酸の存在を忘れて全速力で走った。紙袋の中で品物が上下に弾んでけれど気にも留めなかった。とにかく急ぐ必要があった。
人生の帰路に立たされている二人に、私はハッピーラッキーセットをどうしても届けたかったのだ。
私は息を切らしながら公園に戻ってきた。二人を探してあたりを見渡す。
彼らの姿はなく、公園には物静かな雰囲気が立ち込めていた。
私は呆然とその場に立ち尽くした。キャッチボールをする二人の声が頭の中で響いていた。もっと早く一歩を踏み出していれば間に合ったかもしれない。何もできなかった無力感に襲われ、私はベンチに腰掛けた。
「ハッピーをわたしに、ラッキーをあの子に、ハッピーラッキーセット」
絶望の淵で、私はコマーシャルの歌を口ずさんだ。自然と唇から漏れ出したメロディーは底抜けに明るく、耳障りだった。私は残酷なほど美しい青空を見上げながら、何度も同じ歌を繰り返したのだった。




