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あの夜の電車は、それだけ走った。

作者: はまゆう
掲載日:2026/03/01

 窓の外を流れる夜景を背に、真琴はガラスに映る自分に向かって、とびきりの変顔をしてみせる。鼻の頭にシワを寄せて、頬をぷくっと膨らませて。まるで世界中を笑わせることが自分の使命だとでも言いたげに。

「ねえ、観覧車もう一回乗ろ。次は連続十回とか」

「この前乗っただろ、一回で十分だよ」

「あれは練習! 本番はこれから。ほら、頂上でキスすると一生別れないって都市伝説、ちゃんと検証しなきゃじゃん? 科学的にさ!」

 彼女は得意げに鼻を鳴らして笑う。その笑い声が、がらんとした深夜の車内に弾けて、どこかへ消えていく。

 夏の終わり。湿った風の匂い。花火のあとの、少しだけ寂しい帰り道。

 観覧車のてっぺんで、彼女は本当にぎゅっと目を閉じた。まつ毛が月明かりに震えていた。

「これで一生、君の隣を予約しちゃった」

 あの日の横顔を、僕はまだ疑うことができずにいる。


 二駅目。

「来年も花火、絶対だよ。今度は私、もっと派手な浴衣着るから! 金魚柄とか。いや、ひまわりかな。どっちが似合うと思う?」

 来年、という言葉が、炭酸の泡みたいにキラキラと跳ねる。

 彼女は吊り革にぶら下がるようにして、楽しそうに揺れていた。その細い腕が、電車の揺れのたびにふわりと持ち上がった。僕はなぜかその腕から目が離せなくて、だから、彼女が一瞬だけ遠い目をしたことに、気づかなかった。


 三駅目。

「ねえ、もしも私が宇宙人に連れ去られたらさ」

「なんだよ、急に」

「三日に一回は私のこと思い出してよ? 忙しくても、カップラーメン待ってる三分間くらいはさ」

「……毎日だよ。忘れる暇なんてない」

「うわ、重っ! ストーカーじゃん!」

 真琴はケラケラと笑う。けれど次の瞬間、ふっと笑顔が落ちて——ほんの一秒も満たない時間——彼女は静かに言った。

「……毎日、ね」

 それからまた、いつもの顔に戻った。僕はその一秒を、うまく飲み込めないまま、笑って流した。


 四駅目。

「はい、これ。ラストがずるすぎて、読み終わるのに時間かかっちゃった」

 貸していた本を、彼女は両手で恭しく返してくる。

「残された側が、綺麗に前を向いて生きるなんてさ。そんなの反則じゃない? 私なら許さない。ずっと泣いててほしいもん。一生忘れないでほしい」

 本気なのか冗談なのか、見分けがつかないほど、彼女はいつものように笑っていた。

 でも今思えば——彼女はいつだって、冗談の顔をして、本気を言う人だった。


 五駅目。

「これ、あげる。私の代わりに持ってて」

 手渡されたのは、使い込まれたICカードケース。中には、あの日の観覧車で撮ったプリクラが入っていた。

 カメラじゃなく、隣にいる僕を、愛おしそうに見つめて笑っている彼女。

「私はちゃんと、約束守ったよ?」

 何を、と聞き返す前に、電車のブレーキが鳴った。

 聞き返せばよかった。そのたった一言を、僕はなぜ飲み込んだんだろう。


 六駅目。

 到着のアナウンス。

 立ち上がった彼女の膝が、カクンと折れた。

 慌てて差し出した僕の手を、彼女は「大丈夫、大丈夫! 足がしびれただけ!」と、踊るような仕草でかわした。その笑顔に、一ミリの曇りもなかった。

「まだ死なないって。そんな悲しそうな顔しないでよ」

 まだ、という言葉が、冷たい水のように僕の肺へ流れ込む。

「ちょっと怖いけど……でもさ」

 彼女は、ドアの前に立って、いたずらが成功した子供のような顔をした。

「花火も見たし、観覧車も乗った。本も最後まで読めたし、君にも会えた。だから、まあいっか——私の、勝ち!」

 プシュー、とドアが開く。

 ホームに降り立ち、彼女は一度だけ振り返った。夜の風に髪をなびかせ、この世で一番幸せそうな笑顔で。

 その笑顔を、今でも僕は好きだと思ってしまう。ずっと好きだったと、泣きながら思ってしまう。


彼女が両手を口に当てて叫んだ。

「大好きだったよー!ありがとー!」

 ――だった。

 過去形が、閉まるドアの隙間に滑り込んだ。


 電車が動き出す。

 ホームでちぎれるほど両手を振る姿が、点になり、夜に溶け、消えた。

 笑っていた。最後まで、笑っていた。


 その夜、僕の部屋は、耳が痛くなるほど静かだった。冷蔵庫の低い唸りだけが、部屋をゆっくりと回っている。

 枕元でスマホが短く震えた。

《観覧車リベンジね。》

《本、もう一回読んでみて。意味変わるから。》

《おやすみ。だいすき!》

 メッセージの最後に、ひまわりの絵文字がひとつ。

 僕は、彼女に返せなかった言葉を必死に打ち込んだ。

《今度は頂上で、ちゃんと目を開けてろ。キスするから》

 送信。

 既読は、二度とつかなかった。


 三日後。

 知らない番号からの電話で、すべてが終わった。

「……真琴が、先ほど息を引き取りました」

 受話器を持ったまま、僕はしばらく動けなかった。窓の外で、風が吹いていた。どこかで、子供が笑っていた。世界は何も知らないまま、回り続けていた。


 僕は、彼女から返された本を、もう一度開く。

 栞が挟まっていたのは、最終章。

『残された側は、忘れることで救われる』

 その一節に、細い線が引いてあった。そして余白に、彼女の丸っこい文字で書き込みがあった。

『うそつき。私は、毎日思い出してほしいよ。重くていいから。私を、一生の呪いにしてね。...なあんてね。ちゃんと幸せになってね!』

 彼女は、自分が「反則」だと言ったラストを、僕に押し付けていったのだ。あの無邪気な笑顔のまま、僕の人生を永遠にジャックして。

 最後まで、ずるい人だった。

 最後まで、かわいい人だった。


 七駅。

 たった、七駅だった。

 あの夜、あと一駅ぶんだけ電車が長く走ってくれたら。あるいは僕が強引に、彼女の手を引いて、この車内に連れ戻せていたら。

 でも——もしそうしていたとしても、彼女はきっとまたあの顔で笑って、「大丈夫だって! ストーカーじゃん!」と言っただろう。そして僕はまた、笑って、流した。

 電車は今日も、あの駅を通る。

 あの日と同じ席に座り、窓に映る自分の顔を見る。僕は窓に向かって、彼女がしたような、下手くそな変顔をしてみる。

 鼻の頭にシワを寄せて、頬をぷくっと膨らませて。

 隣で彼女が笑っていた、その笑い声を思い出しながら。

 けれど、ガラスに映るのは、泣き笑いの自分だけだった。

 七駅先に消えたきみに、僕はもう追いつけない。

 それでも、僕を乗せたまま、この残酷な日常という名の電車は——今日も、止まってくれない。


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