誰も止めない
三枝恒一は、その日、ウサギのまま会社を出た。
正確に言えば、「ウサギのまま帰宅することを誰にも止められなかった」。
「じゃ、お先です」
エレベーター前でそう言ったとき、自分が何者なのか一瞬わからなくなった。
白くて丸くて、耳がやたらと高い生き物が、丁寧に会釈をしている。
「お疲れさまでーす」
山本は、いつも通りだった。
黒川も、いつも通りに頷いた。
日向部長に至っては、最初から最後まで一度もこちらを直視しなかった。
誰も止めない。
誰も「それでいいのか」と言わない。
エレベーターの扉が閉まる瞬間、三枝はほんの少しだけ期待していた。
誰かが走ってきて、
「やっぱりダメでしょ!」
と叫んでくれるんじゃないか、と。
扉は、静かに閉まった。
下りのエレベーターは、妙に長く感じた。
鏡に映る自分は、どう見てもウサギだった。
スーツのズボンと革靴だけが、辛うじて人間の名残を主張している。
一階に着き、外に出る。
夕方の風が、ウサギの耳を揺らした。
「……寒くないな」
どうでもいい感想が浮かぶ。
中は思ったより蒸れていて、体温が逃げにくいらしい。
駅までの道を歩く間、視線を感じた。
しかし、想像していたようなざわめきはない。
通行人は、
一瞬見る。
一瞬迷う。
そして、何も言わずに通り過ぎる。
「イベントか何かだろ」
そういう納得が、空気の中に自然に漂っていた。
改札で止められるかと思ったが、駅員はちらりとこちらを見ただけで、何も言わなかった。
ICカードをかざす手が、ウサギの手袋でうまく反応しなかったのは少し困ったが、それだけだ。
電車の中では、座席が一つ空いた。
譲られたのだと気づいたのは、腰を下ろしてからだった。
「……ありがとうございます」
言うと、声はやはり、やけに優しい音になった。
向かいの席の子どもが、じっとこちらを見ている。
視線が合うと、にこっと笑った。
「うさぎさん」
その一言で、胸の奥が少しだけざわついた。
訂正するほどの元気も理由も、なぜか出てこなかった。
「……うん」
そう返事をしてしまった自分に、後から気づく。
家に着いたのは、いつもより三十分遅かった。
鍵を開ける動作が、思った以上に難しい。
玄関の鏡に映るウサギを見て、三枝は深く息を吐いた。
「……明日、外れる」
根拠はなかったが、そう思うことにした。
リビングに入り、スマートフォンを操作する。
母に電話をかけるか、一瞬迷って、やめた。
説明が面倒だと思ったからだ。
代わりに、黒川からメッセージが来ていた。
『構造を調べたけど、やっぱり前例がない』
役に立たない報告だったが、なぜか安心した。
シャワーは諦めた。
食事も、ゼリー飲料で済ませた。
ウサギの口元は、思った以上に融通がきかなかった。
布団に入る。
仰向けになると、耳が邪魔だ。
横向きになると、耳が潰れる。
「……まあいいか」
その言葉が、今日何度目かもわからない。
眠りに落ちる直前、ふと考えた。
今日一日で、一番困っていたのは自分だけだった。
他の誰も、そこまで困っていなかった。
それが、妙に引っかかった。
ウサギのまま迎える朝を、
三枝恒一は、まだ想像していなかった。




