港町ナンツの少年
「お父さん、水色のすじが見えるよ。きっと風の妖精がいっぱい飛んでいるんだ。ねぇ、見て、見て!」
背の高い父親に抱き抱えられている幼い子どもが、ナンツの港を肩越しに見ながら話しかける。
父親は足を止めて、坂の途中から港を振り返った。
「アシュレイ、そんなのは見えないぞ。それより、早く帰らないとお母さんが食事を作って待っているからな」
五歳のアシュレイだが、まだ歩くのは速くない。他の事では優しい妻のレティシアだが、食事に遅れると機嫌が悪くなるので、抱っこしてベンジャミンは、幼な子の戯言だと無視して家路を急ぐ。
シラス王国の小さな港町ナンツを見下ろす小高い丘の上に、ベンジャミンとレティシアの小さな家がある。小さな家の横には立派な桜の木が枝を広げているが、今は葉っぱを落としている。
ベンジャミンは、家の前でアシュレイを下ろし、鼻をくんくんさせる。
「おっ、今夜はシチューだな!」
秋の収穫を終え、港で荷下ろしの仕事をしているベンジャミンは、小さな家から漂ってくる大好物の匂いに喜ぶ。
「お前は先に入っていなさい」
ベンジャミンは、家の前の井戸で汚れた手を洗ってから家に入る。
「お帰りなさい!」
レティシアに出迎えられ、ベンジャミンは美しい妻にキスをする。
「お母さん、お腹すいたよ」
港まで迎えに行ったアシュレイも腹ペコだ。仲の良い両親が玄関でキスしているのを邪魔する。
「まぁ、すぐに夕食にしますよ」
アシュレイは、シチューのスプーンを出したりお手伝いをする。
「今年の冬は寒くなりそうだな」
温かいシチューを食べながら、ベンジャミンは少し愚痴る。港での荷下ろし作業は、吹きさらしなので寒さは大敵なのだ。
「そうね、明日からは綿入りの上着を着ていらっしゃいな」
アシュレイも美味しそうにシチューを食べながら、両親の話を聞いていた。
「やっぱり風の妖精が飛んだ跡がいっぱい見えたから、寒くなるんだよ」
レティシアとベンジャミンは、また変な事を言い出したと笑う。
「アシュレイ、風の妖精なんかいませんよ。来年の春からは学校に行くんだから、そんな事を言っていたら笑われるわ」
「そうだぞ、そんな赤ちゃんみたいな事を言っていたら、友だちもできないぞ」
アシュレイは、本当に見えるのにと唇を尖らせたが、学校で友だちがたくさん欲しかったので、今度からは秘密にしようと心に決めた。
だが、アシュレイはナンツの学校に通う事は無かった。
この年の冬は例年以上に寒く、港町のナンツでは流行病が大流行したのだ。
「お父さん、お母さんが……」
港で荷下ろししていたベンジャミンの元にアシュレイが走ってきた。茶色のくるくるな髪があちこちに跳ねている。
「何があったんだ!」
「お母さんが倒れたんだ。ベッドまで運べなかったから、ソファーに寝かせたけど……真っ黒なんだ!」
朝からレティシアは具合が悪そうだったと、ベンジャミンは仕事を止めて、家へと急ぐ。港町のナンツで流行病が噂になっていたのだ。
アシュレイは、父親の後ろを走りながらついて行き、泣きそうになる。
「お父さんも黒い影が付いているよ!」
ベンジャミンは、家に帰ると、ソファーに横たわっていたレティシアをベッドに運んで寝させる。
「すぐに治療師を呼んでくる!」
ベッドに横たわったレティシアは、細い手でベンジャミンのたくましい腕を掴む。
「アシュレイを……病気を移してはいけないわ」
ベンジャミンは、自分の病気より我が子の健康を気遣うレティシアを愛おしく思う。
「大丈夫だ。隣のミッチェルの家に預けておく。あそこには子どもが大勢いるから、きっとアシュレイも楽しいだろう」
ベンジャミンは、ミッチェルの家に行ったが、そこも病人に溢れていた。
「悪いねぇ、うちの子ども達は学校で流行病を貰ってきたんだよ。港や学校などで流行病が蔓延しているようだね。治療師を呼ぶなら、うちにも来てもらっておくれ。なかなか来てくれないんだよ」
ベンジャミンは、アシュレイを連れて治療師の家に急ぐ。治療師は、レティシアの叔父になるので優先的に診てくれるはずだと望みを持っていた。
「お父さん、ここは駄目だよ! 入っちゃ駄目!」
港町の中心にある治療師の家の前には何人もの人が待っていた。アシュレイには、その家が真っ黒な影に覆われて見えた。父の服を引っ張って、必死に止める。
「お母さんが病気なんだ。治療師に診てもらわないといけないんだ。お前は、ここで待っていなさい」
いつもは優しい父親に厳しい口調で言われ、アシュレイは口を閉じた。
「バーディンさん、レティシアが病気なんだ!」
運び込まれた病人を治療していたバーディンは、姪が病気だと聞いて、黒い鞄を持って立ち上がる。
「ちょっと、待っていて下さい」
文句を言う患者達を宥めて、バーディンは坂の上の家に急ぐ。
アシュレイは、バーディンとベンジャミンの後ろから走って付いていったが、治療師の黒い鞄から真っ黒な影が後ろに流れ出るように見えて、少し避ける。
「叔父さんが来てくれたよ」
アシュレイは、さっきより母親が濃い黒い影に包まれているのを見て、ビクッとする。
「お前は、居間にいなさい」
父親に寝室から追い出されたアシュレイは、心配でずっと閉じられた扉を見つめていた。
「お母さん! 死んだりしないよね!」
泣きたくなるのをグッと我慢するアシュレイだった。




