第1話 カルロスと腰の痛み (1)
この物語は、ルセナという小さな港町ではじまる。
静かな海と、よく通る風がある町だ。
ルカはこの街でマリアという教師に出会った。
彼女は「テクニーク」と呼ばれる、ちょっと変わった技法を教えている。
特別な事件は起こらない。
でも、ほんの小さな「気づき」が、何かを変えていくことがある。
これはそんな物語だ。
『先生、姿勢がその人の「生き方」に関係するって、本当なんですか?』
そう訊いたとき、マリアはちょうど小さな観葉植物に水をやっていた。港からの風がサンタ・デル・ソル通りを吹き抜けて、レースのカーテンをそっと持ち上げている。
マリアのレッスンルームは港町ルセナの大通り、サンタ・デル・ソル通りから一つ入った小さな路地にある。周りの建物とは不釣り合いなほどに小さく、慣れていてもうっかりすると通り過ぎてしまうほどだ。
ルセナの街は不思議な風が吹く。よく耳を傾けると何かを伝えてくれているような。午後の光は薄く、アトリエの壁には影が柔らかく揺れていた。その影をぼんやりと眺めながら、質問がちょっと哲学的すぎたんじゃないかとルカは後悔し始めていた。
「それが本当かどうか、あなた自身で答えを見つけるのよ、ルカ」とマリアは言った。
その声には、どこか遠くの記憶を揺らすような響きがあった。マリアのこれまでの人生で何があったのか、ルカは詳しくは知らない。マリアには遠い昔からずっと生きていて全てを見通しているかのような静けさがあった。
マリアは「テクニーク」と本人が呼ぶ技法を教えている。それはルカが知っている他の何にも似ていない不思議なメソッドだった。初めはすんなりと飲み込みにくいが、少しずつ体に染み込んできて、いつの間にか活力を与えてくれる。その謎を解き明かしたくて、ルカは弟子のようなことをしている。
扉のベルがチリンと鳴った。いつもは風に揺られた風鈴のような軽やかな音がするのだが、今日は何かを引きずっているかのような響きがあった。
「こんにちは……」
入ってきたのは中年の男性で、細身の体をやや強ばらせながら慎重に歩いていた。
どうにかして真っ直ぐ立って歩こうと奮闘しているようだった。
「電話した者です。カルロスといいます」
マリアは軽く頷いた。
「こんにちは。どうぞお入りください」
カルロスは周囲を少し見回してから、おそるおそる部屋の中央にある椅子に近づいた。でもすぐには座らなかった。両手を腰に当てて、痛みを避けるように体を動かしていた。
ルカは傍らで、何も言わずにその様子を見ていた。
メモ帳を手に持ってはいたけれど、特に何かを書くつもりもなかった。
観察すること、それがこの仕事の入り口なのだとマリアはいつも言っていた。
かなり長い時間をかけてカルロスはようやく椅子に座った。何かを探すように部屋を見回す。視線がルカのところで止まった。
「彼は私のアシスタントです。同席しても構いませんか?」
カルロスの表情に気がつき、マリアが一言添えた。
「まぁ」とカルロスは曖昧に返事をし、長く息を吐いた。
「今日はどうされましたか?」
「自動車教習所の指導員をしています」 カルロスは短くそう言った。
声にはまだ少し緊張があるようだった。
「ある朝、目が覚めると腰が痛くてたまらなくなったんです。それまでにも痛みはありました。なんとかやり過ごせていたんです。医者にも行き、痛み止めももらいました。でも、なんというか、光が見えないんです。腰が悪いせいで、歩くのも辛くなってきて。このままだと仕事もできなくなりそうで」
カルロスはそこまでを早口で話した。それを聞いて、僕は少しだけ親近感を持った。僕もまた、暗い森を歩き続けることに疲れて、ここにたどり着いたのかのように感じていたからだ。
「病院以外にもいろいろ試しました。整体、マッサージ、鍼、カイロ・・・。いっときは良くなるものもあったんですが、また痛みが戻ってくるんです」
マリアは頷き、少し間を置いて問いかけた。
「テクニークについては、何かご存知ですか?」
カルロスは少し考えるふうに上を見て、それから窓の外に視線を向けた。
「ご存じでなければ、遠慮なくそうおっしゃってください。」
外では、風に撫でられた街路樹の影が踊っていた。
「ほとんどの方が知らないので大丈夫ですよ!僕もそうでした。」
ルカもついに口を挟んでしまう。沈黙に耐えられなかったのだ。マリアはルカの方に微笑みを送る。
「……実は、音楽仲間から聞いたんです。友人にチェロを弾くやつがいて。ひどい肩の痛みに悩んでいたんですが・・・、テクニークとかいうやつで劇的に良くなった、と言ってたんです」
「そうでしたか」とマリアはうなずいた。
「そいつは言ってました。『治療と言うよりは、自分との付き合い方を習った感じだった』と。正直どう言うことなのか、今もよくわかっていません。でも、何かあるなら試してみようと思ったんです。もうこれ以上失うものもありませんし」
カルロスの言葉は、どこか寂しげだった。何かに向かって手を伸ばしているけれど、それが何なのかはまだ輪郭がはっきりしない、そんな感じだった。
「『誰かに治してもらう』という受け身のやり方に少し疲れてきたのかも知れません。今のところ、あまり上手くいってませんし。自分のことなのに、どこか自分の外側のものみたいに思えてしまって……。そんなふうにずっと切り離したままでいいのかなって、ふと、考えたんです」
「自分のことに自分で責任を持とうとお思いになったんですね」
マリアの言葉は、静かでまっすぐだった。
「ええ、たぶん。そんなところです」カルロスは短くうなずいた。
風がまた部屋に入り込み、観葉植物の葉を揺らした。
街路樹の影が床に映って、まるで何かがそこを静かに歩いていったように見えた。
「ところで、カルロスさん」
マリアはそう言い、真っ直ぐにカルロスを見た。
「あなたはいつもそんな風に座ってらっしゃるんですか?」