39.最後の……
ミクのおばあちゃんは本当に何の問題もなく、急に押しかけた僕の分まで夕飯を用意してくれた。最近はエスニックに凝っていると言いながら出してくれた料理は、どれも初めて口にするようなスパイシーなものだ。
「はあ、お腹いっぱいだ。ごちそうさまです。遅い時間に突然来て夕飯をご馳走になるなんてずうずうしいまねしてすいません。ありがとうございました」
「いえいえ、ミーちゃんと仲良くしてくれたんだもの。お礼を言いたいのはおばあちゃんのほうですよ。ミーちゃんにはいい夏の思い出になったでしょ? 別れは寂しいかもしれませんけどね。でもさすがに男の子だからこの子みたいに帰りたくないなんて泣いたりしてないでしょう?」
「ちょ、ちょっとグランマ! ここでそんなこと言わないでよ! 恥ずかしいからパパにも秘密って言ったじゃないの! なんでこよみに言っちゃうのよ!」ミクは大慌てでおばあちゃんを黙らせようとするが時すでに遅しである。
「あらー、パパに言わなければいいのかと思ったんだけど違ったかしら? でもかわいいことなんだから知ってもらってもいいじゃないの。ねえKnightさん?」ちょっと意地悪そうな笑顔をしたおばあちゃんはミクとそっくりだ。
「もうグランマったらホントにイジワルなんだから! こよみ行こっ、私の部屋で渡すからね」そう言ってミクが席を立ち、僕はその命に従い後ろからついていった。
「まったくグランマはパパと一緒で口が軽くて困るわ。こよみもさっきのは忘れてよね、絶対よ?」そうは言っても僕の脳裏にはもう完全に狼狽したミクのかわいい姿が焼き付いて離れそうにない。
「親とかってやたらと子供の恥ずかしいところを暴露しようとするもんね。うちだって似たようなものさ。でもミクが誰似なのかは完全にわかっちゃった」
「おばあちゃんに似てるって? まあそれは否定できないけど…… それよりもこよみが私にくれようとしたのはこれじゃないんでしょ?」そう言って手を置いたのは例の婚姻届の上だ。
「そりゃそうだよ。僕らはまだそんな年齢になってないじゃないか。だからそれは捨てちゃうってば」僕は手を伸ばして回収しようとしたがミクは手をどけず渡すつもりには見えない。
「いいの、これはこれで記念だから取っておくわ。大人になってどちらの気も変わってなかったら一緒に出しに行けばいいじゃないかしら? そうだ、名前だけ書いておこうっと。こよみも書いておく?」そう言ってボールペンを手にしてスラスラと自分の名前を書いていく。
「『卯中ミク』っと。はい、こよみの番ね。いやだったら別に書かないでもいいけど?」その言葉と裏腹にボールペンを差し出したミクの手は上下に揺らされ、どう考えてもせかしているようにしか感じない。
「う、うん、もちろん書くよ。絶対に心変わりなんてしないって誓う意味でもね。ホントに本当の約束さ」そう言って僕も自分の氏名をなるべく丁寧に記入した。
「その時になってどこに住んでるかわからないから住所は空欄でいいわね。ふふ、こうしてこよみが約束してくれたのってとってもうれしい。たとえ将来そうならなくても私にとっては大切な記念になったもん」
「なに言ってんだよ! 絶対に気が変わることなんてないって言ったろ? もっと僕を信じてもらいたいもんだ。これからは勉強だって宿題だってちゃんとやるし、運動だってしっかりやって心身を鍛えぬいてやるからな!」
「勉強と心身って関係なくない? まあなにかに取り組むのはいいことよ? でも自分にあったことを頑張って長所を伸ばした方がいいのかもしれないわ。その辺りは段々と見つけて聞けばいいんじゃないかしら」
随分と大人っぽい意見に感じたが、ミクはミクなりに僕が無理をし過ぎるのを心配してくれているのだろうと前向きに考えた。僕だってミクが現状を打破することを応援しつつも無理はしてほしくないんだからアイコみたいなもんだ。
「そんでプレゼントだけど、ホント大したことないんだよ。本当は宝石のオマケだったんだから……」僕はそう言いながら、熊のぬいぐるみに並べて飾られた例の宝石へ目をやった。
「オマケでもなんでもいいわよ。こよみが私のためになにか考えてくれただけで十分だもの。それが目に見える形になっているなら、いつも目にすることができるからもっと嬉しいことだわ」
「あんまりハードルを上げないでくれよ。ホントにオマケなんだからさ」さっきは役所の用紙ごときに邪魔をされて渡し損ねたけど、今度は何の邪魔も入らないはず。
僕は改めて尻ポケットへ手を突っ込んでソレを取り出し机の上に置いた。
「ポストカードに色鉛筆でカワセミを描いてさ、それから文房具屋でラミネートしてもらったんだ。僕の中では会心の出来だけど図鑑と比べたらそうでもなくてちょっとへこんじゃったよ」何の言い訳なのか、聞かれてもいないのに比較して後悔したことまで言ってしまった。
「―――― キレイ。すごいわ! こよみスゴイスゴイ! 今まで見たどんな図鑑よりも、ううん、本物よりも美しいカワセミだと思う! また宝物が増えちゃって帰りの荷物があふれちゃうよ」
だが本当にあふれたのは、ミクの大きな瞳からこぼれ落ちてきた涙だった。薄い茶色の瞳孔とふさふさのまつ毛を蓄えた瞳から次々に流れる涙。それがそばかすの目立つ橙色の頬を伝って落ちて行くところは、僕の心をこれでもかというくらいに揺さぶっていた。
「あっ、ごめん、なんでだろ。急に涙が―― 嬉しいからかな。それとも帰りたくなくて寂しいからかもね。このカワセミにラミネートしてあって良かった」ミクはそう言って自分の顔より先にポストカードへ落ちた涙を袖口でぬぐう。
その様子に視線を奪われ何も言えず動けないでいると、ミクは唐突に机を飛び越えて僕へ飛び込んできた。小さな折りたたみテーブルが苦しそうにきしむがミクは気にしていない。
「ありがとね、本当にありがとう。いっぱいいっぱいもらっちゃった。宝石やカワセミもそうだけど、想い出や勇気とか婚姻届もそうだしとにかくいっぱいね。それで―― なにより私には未来がちゃんとあるってことを教えてくれてありがとう」
「そんな大げさだよ。まだほんの一か月弱の話だろ? 僕らにはまだこれから時間がいっぱいあるはずなんだ。ここで満足してたらいっぱいどころじゃなくて、お互いからもらったもので押しつぶされちゃうよ」何を言ってるか自分でもわからないけど、とにかく今は照れ隠しがしたくて仕方ないのだ。
「それじゃ私も渡すね。もう一つはコレ。普段使うものじゃないから無くしちゃうかもしれないし、ちょっと少女趣味過ぎたかもしれないけど……」
ミクは僕の手を握りしめた後手のひらを下へと裏返す。それから左手の薬指に麻紐で編んだ指輪をくぐらせた。この指へはめると言うことはつまり――
「ちょ、ちょっと、こういうのは男から贈るもんじゃないの!?」これは照れ隠しではなく本当の本心だった。
「いいのよ、なんでも男女平等とか言うんだから女から贈ってもいいの。ていうかもう作っちゃったし渡しちゃったんだから手遅れだわ。それにこれは婚約指輪ってことにして、将来は結婚指輪を贈ってくれればいいんじゃない? そう約束してくれたんだから期待してるわ」
「もちろんさ、腕が上がらないくらいでっかい宝石の付いた結婚指輪を用意してやるっての」僕がそんな戯言を言い終わらないうちに、机の上に寝そべったまま僕の目の前にいるミクはそっと目を閉じた。
これはまあそう言う合図で間違いない。しかしこないだのこともあるから念のため耳を澄ませてみる。どうやら扉の向こうにおばあちゃんはいないようだと確認した僕は意を決して顔を近づける。
唇が触れ合ってどのくらいだろう。二、三秒かもっと長いくらい続いた僕らの口づけは、夏の終わりを自覚させる別れの印に思えた。
そのことを意識するとなんだか僕まで涙が出そうになって鼻の奥がむずむずしてきたが、さすがにここで醜態をさらすわけにはいかないと気合を入れて我慢だ。
「コンコン、ミーちゃん、Knightさんのお迎えが来ましたよ。エントランス前で待っているとおっしゃっているから、お楽しみはキリのいいところまでにして早めに出ていらっしゃいね」
僕は反射的に真後ろへと飛び退くようにミクから離れ、壁に後頭部をしこたまぶつけてうずくまるのだった。




