36.最高の朝は二度やってくる
とうとうこの日がやってきた。今日のことを考えると僕はなかなか寝付けなくて、気が付いたら朝になっているなんてことをまた繰り返してしまった。
「あーまたおにいちゃんおきてるー なんでそんなに早いの? お母ちゃんにおしえないとだ!」朝から騒がしい苺に起こされるまでも無く目覚めていた僕は、いそいそと着替えてから顔を洗いに行った。
洗面所へ行くと見慣れない歯ブラシが目に入った。これはミクが泊まった時に使ったやつのはずだ。だがきっともう彼女がここへ来ることはないだろう。夏休みは間もなく終わりでミクは明日には帰ってしまう。
僕はその歯ブラシを手にとってじっと見つめた。
「ねえ? その歯ブラシをどうしようとしてるの? まさかと思うけど自分で使ったりしないわよね?」いつも耳に残っている声が背後から聞こえて来て、僕は思わず歯ブラシを放り投げそうになりながら振り向いた。
「ななな、な、なんでミクがここにいるんだ!? まだ朝っぱらじゃないか」
「朝っぱらってことは無いでしょ。私はいつも六時前には起きてるんだから。それよりもその歯ブラシの行方が気になって仕方ないんだけど?」
「ああこれ? もうミクが来ることは無いと思ったから捨てようかなって。目の毒だし。ちっ、違うよ!?変な意味じゃなくて夏休みが終わったらしばらく会えないだろ? 次来るときは新しいの出すわけだし、見るたび思い出すのはつらいなって思っただけだから!」これはもちろん本心なのだが、どうにも苦しい言い訳をしているようにしか思われそうにない。
「まあいいわ。信じてあげる。旦那様の言うことを信じられなかったらこの先何十年の付き合いが出来るはずないもんね。でもこよみが私のこと思い出したくないっていうのは意外だったな……」ミクの表情がわずかに曇ったように見える。
「思い出したくないんじゃなくて、歯ブラシごときに感情を左右されるのがしゃくというか…… とにかくモノがないと思いだせないなんて勘違いしたくないんだよ」
「ふーん、ものは言いようね。まあ少しは気持ちがわかるかも。想い出って自分の中からあふれ出て欲しいって感じるもん。それでもやっぱり記念になる品って言うのも
大切にしていきたいけどね。歯ブラシや縦笛以外がいいけど」
「だから誤解だって言ってるじゃん…… それにしても朝から来るなんて思ってもなかったからビックリしたよ。なにかあったの?」話をそらせようと話題を変える僕をニヤニヤしながら見つめているミクは、なぜか楽しそうである。
「別に大したことじゃないけど、おじいちゃんと一緒にワッフルの散歩行こうとしてたんだけど、明日には帰るんだから出来るだけたくさん遊んできなって言われたの。さすがに朝からは迷惑だった?」
「迷惑なわけあるかっての。こんな嬉しい朝はそうそうないくらいさ。ミクも同じ気持ちだったらもっと嬉しいよ」僕の言葉にミクの頬がオレンジに染まったと言うことは、無言であっても同意と取っていいだろう。
「ほら、苺ちゃんたちが待ってるから早く行こう。私は朝食済ませて来たけどお味噌汁だけご馳走になるの。おばあちゃんはめったにお味噌汁作らないのよ?」話をそらせたがるのはミクも変わらないらしく、僕はそんな些細なことにも幸せを感じていた。
「おにいちゃんおそいよー 苺なんてもう食べおわっちゃいそうなんだからね。あとでおねえちゃんといっしょにほいくえんへ行くんだよ?」
「保育園ってオマエ、そんなとこ行ってないじゃないか。ままごとのことか?」僕が呆れ顔で否定すると母ちゃんが口を挟んできた。
「苺は来月から保育園行くんだよ。今日は説明と体験入園ってわけ。こんな半端な時期だからきっと一人きりで泣いちゃうんだろうなー」わざわざ幼児を刺激して楽しもうとするのはうちの親たちの悪い癖だ……
だが懸命に泣かないと意地を張っている苺に助け舟が出た。
「苺ちゃん? 女の子はね、泣いても恥ずかしくないところが得なのよ? 男の子なんて痛くたって辛くたってやせ我慢して泣かないようにしないとバカにされちゃうんだから。でも女の子ならみんな優しく助けてくれるから安心していいよ?」
「ちょっとミクちゃん? 今時の子供がそんなこと言って大丈夫なのかい? ご両親に叱られやしないか心配だよ。うちはまあ下町だし昭和初期みたいな生活だから構いやしないけどさ。最近は何かにつけて男女平等だとか言われる世の中だろ?」確かに母ちゃんのいうことにも一理ある。
「お母さん、考えすぎですよ。大人になったって都合よく立場をコロコロ変えて立ち回ってる人がいっぱいいるじゃないですか。特に政治家とか会社の偉い人とか。だったら子供がうまく立ち回ったからと言って非難されることもないですよ」この言葉に母ちゃんは目が点である。
「暦、そうなのかい? アタシにはちょっと難しくて理解できないけど、今時は小学校へこういうことも教えるのかねえ」首をかしげている母ちゃんは間違いなく正しいし、はっきり言って僕もあまり理解できていない。
「まあ大体はおじいちゃんの受け売りなんです。昔は海外から仕事で来てる人の家族の世話をするような仕事をしていたらしいんですけど、男女平等が進んでいる外国でも平等が絶対いいとはされてなくて、時と場合で使い分けする女性も男性も多かったみたいですよ?」
「よくわかんないけど、平等じゃなくて自分が得してもいいって感じ? なんかズルっぽいけどなあ」僕は不満そうにつぶやいたが、ミクは笑いながら味噌汁をすすって知らんぷりしている。
「まあ苺が簡単に泣いたりしなけりゃいいんだよ。体験入園が一人って言ったって他の園児はいるんだからきっとうるさいだろうさ。ああそうそう、暦の時から園長先生は変わってないらしいよ? なんか面白い懐かし話を聞けるかも知れないからアタシは楽しみなのさ」
「ホント悪趣味だよね…… 保育園の頃なんだから恥ずかしい体験談はいくらでもあるに決まってるじゃないか。なんでオバサンって記憶力が良くて噂話とか好きなんだろうかなあ」
僕が愚痴っぽく言っても母ちゃんは知らんぷりしているし、ミクはニヤニヤしながら苺が食べるのを世話しながら聞いてないふりだ。こりゃ帰って来た時に何を言われるかわからないと冷や汗をかいてしまう。
「それじゃ僕は涼太の家に行ってくるよ。自由研究の仕上げが残ってるんだ。昼前に帰ってきて午後にまた集まるけど、ミクもその時間は平気だよね? 今日って約束のあの日だけど覚えてるかい?」
「もちろん覚えてるわよ。ちゃんと用意してきたから心配しないでいいわ。苺ちゃんにも後であげるからね」ミクがそう言うと苺は両手を高くかかげて大喜びしたまでは良かったのだが、当たり前のように両手をパーにしたために箸を背後に飛ばし、母ちゃんに叱られべそをかいていた。




