21.マイファーストベア
目の前が突然真っ青ななにかに遮られたと思った瞬間、僕のおでこをなにかがポコンと叩いた。顔を離して見てみると、そこには青一面の空を写した写真が表紙になっている夏休みのワークがあった。
「あービックリした。急に叩かれるとは思って無かったよ」僕は僕にとって当然の反応を示したのだが、叩いた側の意見は違ったらしい。
「ビックリしたのはこっちよ。今自分が何しようとしたかわかってるの? そりゃ昨日はしても良かったって言ったけど、だからってすぐに実行に移すだなんて思わないでしょ?」
「えっ!? 僕がなにかしようとしてた? 今の今までミクの瞳が大きいなあって見つめてただけのつもりなんだけど、そしたら急にワークで叩いて来たんじゃん。もっとまじめにやれってこと?」
「それ本気で言ってるっぽいわね…… その場の雰囲気とかムードとかで流されるなんてフィクションでは当たり前にある展開だけど、そう言うのって普通は女子がつい魔が差しちゃうって感じだと思うんだけどねえ」僕はミクの言っていることがいまだにわからず首をかしげて見せた。
するとミクは「もうっ」と言いながら立ち上がり僕の横へと移動する。そして――
「いい? こよみがやったことを再現してみせるからね?」そう言うと、ゆっくり顔を近づけてくる。一、二、と数えたくなるくらいゆっくりな動きで僕の眼前へと迫ってくるミクの顔は、文字通り目の鼻の先までやってきた。
そのままゆっくりと目を閉じたということはまさか!? 僕は思わず生唾を飲みこんでしまい、静まり返った部屋に『ゴクリ』とみっともない音が響いた。その瞬間――
『パチンッ』「はい、ここまで! わかった? 今のまま私がやめなかったらどうなったかくらいわかるでしょ? 言っておくけど私たちってまだ小学生なのよ? そりゃ気持ち的にはキスくらいしてもいいかなって思わなくもないけどやっぱり早いし、そんなのママやパパに知られたら怒られるどころかもうこっちへ遊びに来ちゃダメだって言われてしまうかもしれないわ。それにこよみだって夏休みが終わってからずっと会えないのに私の幻影に縛られてしまうかもしれないじゃないの。それはそれでうれしいけど健全とはいえないし、私は相手を無理に縛りつけるような女になりたくないの。だからキミには自由にしていて欲しいし、その上で先々私を選んでくれたならとても嬉しく思うわ。わかった?」
「ちょ、ちょっとまって、全然わかんないよ。そんな矢継ぎ早に言われても最初のほうがもうわからなくなっちゃった。なんでそんなにまくしたてるのさ。僕がキスしようとしたって思ったのはわかったけど、それと僕が自由にするところの関連が全然わかんないや」
息を荒くしたミクは一度大きく息を吸ってから次に大きく吐き出した。それから改めて僕へ向き合ってゆっくりと説明を始めた。
「だから小学生でキスするなんて早いってこと。それが両親にばれたら二度と来られなくなるかもってこと。それとキミはこれから先、身近な女子に魅かれるかもしれないのに、私とキスした思い出だけで別の誰かを好きになることが悪いことだと考えてしまうかもしれないこと。わかった?」
「わかったけど、ミクは何を心配してるわけ? 僕はキスしようとなんてしてないから親にばれるとかも関係ないし、他の女子を好きになることもないよ。だって今まで誰のことも好きになったことなんて無かったんだからね」
「じゃあ! じゃあね! 中学になってから誰かに付き合ってって言われて、もう中学生だし彼女くらい欲しいからこの子ならいいかなって思ったらどうするのよ。男子ってそういうものでしょ?」
「そういうもんなの? ゴメン、正直言って僕はまだ子供なんだと思う。だから恋愛って言うの? そういう難しいことはわからないや。ミクに出会ってようやく初めての恋ってのに気が付いたんだもん。だけど、えっと、まあいいや」
「だけどなによ! ちゃんと言いなさい! 言いかけてやめるのは人として許されないことなの。だから言おうとしたことは最後まで言ってよね」
「いやあ、ミクは僕が彼女作るかもって言うけどさ。それって逆もあり得るじゃん? 僕はミクが誰かに告白されて彼氏ができちゃったらイヤだよ。まさかそんな予定があるから僕も自由にしろなんて言ってるわけじゃないよね?」
「ぶつよ? 私の場合はまず学校へ行かないと友達すらいないんだけど? それともこよみが未来永劫、私だけを愛してくれるって約束してくれるとでもいうの? 私たちは今いくつだと思ってるのよ。高校生までだってあと四年はあるし、大学卒業する年までなんてあと十二年もあるんだからね?」
「確かにそう考えると長いね。ってことはさ、ミクと一緒に過ごす未来がたっぷりあるってことじゃん? 今まで十二歳まで誰も好きにならなかったんだから、これからの十二年でミク以外を見ないのなんて余裕さ。そうだなあ、うん、あの熊に誓ってもいい」僕はそう言ってタンスの上に乗せられている古びた熊のぬいぐるみを指差した。その頭の上には、僕が編んで贈った花冠が被せられている。
「えっ!? なんでこのテディベアに!? 私何も言ってないわよね? 確かにこよみに貰った花冠を載せてるから目立つかもしれないけど……」
「だよね、それを見てピンと来たんだ。きっと大切にしてるぬいぐるみだってね。だって、わざわざこっちへ持ってくるくらいだろ? 夏休みの間しかいないのにぬいぐるみまで持ってくるなんて、相当大事な証拠さ。だから花冠をかぶせてくれたんだろ?」どうやら僕の推理は正しかったらしく、ミクは驚きつつも嬉しそうだ。
ミクはもじもじしながら僕を上目づかいで見ながらなにか言いたそうにしている。僕は再びその瞳に吸いこまれるような気分になって一歩近寄った。
「ほら、そうやって距離を詰めてくるじゃないの。いかにもこれからキスするよって動きだと思うんだけど?」かと言って後ろへ下がるわけでもなく、じっと僕がそばによるのを待っているミクである。
「そう言うつもりじゃないんだけど、ミクの瞳を見てるとその中に吸い込まれそうになるんだよ。ホントに目が大きいしまつ毛が濃くて長くて、同じ人間とは思えないほどカワイイよなあ。ほら、僕の目なんて黒ゴマみたいに小さいだろ?」
「ぷっ、いくらなんでも黒ゴマってことはないわよ。大きさはごく標準的だけど優しい目だと思う。私はその目で見つめられるの好きだわ」
「ミク…… 僕も好きだよ。ううん、大好きだ、愛してるってこういうこと言うんだろうな」さらに僕が近づくと、ミクはそっと目を閉じた。
『あっ!? もしかしてこれってマンガとかで見るやつじゃん。僕ってばこのままキスしちゃうの!? そんなことして許されるのか?』
頭の中ではダメだとわかっているのに体は今にもミクを抱きしめそうである。本当にすぐそこ、手を伸ばさなくてもすぐ触れられる距離に彼女はいるのだからとても我慢できそうにない。
頭の中に浮かんだのは、行け行けとけしかける悪魔と、それを諭してやめさせようとする天使が争う光景だった。現実に頭の上に浮かんでいるはずはないけど、それでも今のところ悪魔が優勢だ。
そんな悪魔に背中を押された僕は、ゆっくりと両手を伸ばしミクの二の腕の辺りをそっと掴んだ。確かこんな風にして次は少ししゃがんだ方がいいんだったか? 膝を少しだけ折り曲げておかしな姿勢になりつつお互いの顔の高さを合わせてみる。
再び生唾を飲みこんでしまうと、僕の喉はさっきと同じように『ゴクリ』と鳴り、それと同時に大きな音が部屋へと響いた。
『コンコン』「ミーちゃん、おやつができたわよ? キリのいいところまで終わったらいらっしゃいね」
僕は天井に頭をぶつけるんじゃないかってくらい飛び上がり、ミクは手に持ったままだったワークを僕へと叩きつけた。




