9.波瀾の予感
ローレルの提案に、オリービアとニアナは瞳を真ん丸くさせ、彼が手に持つ鍵を見た。
「あの者達なら、ローレルさんが鍵を持ち帰っていたなんて少しも考えもせず、『鍵が見当たらないけど、まぁいずれどこからか出てくるだろう』と軽く考えて、鍵穴を変えずに合鍵を使っていそうですものね……。それはとても有難い提案なのですけれど、危ないですわ。もしも部屋に入っている時見つかってしまったら――」
「大丈夫です、そんな失敗は犯しませんよ。あの男が部屋にいない隙を見計らって、素早く探しますから。あの部屋は僕が長年過ごした部屋でもありますし、勝手知ったる場所なのですぐに見つかるかと」
自信あり気に口元に笑みを作るローレルを、オリービアは信じる事に決めた。
「ではよろしくお願い致しますわ、ローレルさん。危険だと感じたら、すぐにお逃げ下さいね」
「御心配ありがとうございます、オリービア」
ローレルの手をそっと握り、心配そうに見上げるオリービアに、彼は彼女の手を握り返すと優しく微笑んだ。
そんな二人の様子に、ニアナは心の中で悶えゴロゴロと転げ回っていた。
(この二人、無意識に甘い雰囲気を作り出して……もうもう……っ)
「? どうしたの? ニアナ」
「へっ? いっ、いえ、何でもないですよ! 何でもっ!」
「……? そうですの?」
――そして、ローレルはロナド・デンロンが部屋から離れる機会を待ち、彼が長時間部屋を空ける時を見定め、素早く侵入して帳簿を探した。
それから五日後、ローレルは一冊の手記を持ってオリービアの部屋に入ってきた。
「オリービア、お待たせしました。帳簿はすぐに見つかったのですが、持ち出した場合、その間に帰って来たロナド・デンロンが帳簿が無くなっている事に気付き、騒ぎを起こされる危険性があったので、一通り全て目を通して不審な部分だけを書き写してきました。数日掛かってしまいましたが」
「……とても優秀ですわ……」
「……とても優秀です……」
オリービアとニアナは、感嘆の表情で同じ言葉を同時に出した。
ローレルははにかんだ笑みを浮かべながら、その手記をソファに座っているオリービアに手渡す。
彼女は礼を言うと、早速それに目を通していく。
「流石、分かり易くまとめてくれていますね。それに字がとても綺麗で読み易いですわ。男の人が書いたと思えないくらい」
「……オリービア、恥ずかしいのでそれ以上は……」
ほんのりと顔を赤らめ顔を背けたローレルに、オリービアはクスリと笑ったが、手記の最後にいくにつれ、表情が厳しくなっていった。
「……これは……。書かれている経費と、使った領収書の合計金額が合っていない箇所がありますわね。そのどれもが、領収書の金額の方が少ない……。けれど交際費だけ、ピッタリと金額が合っていますわ。毎月の予算も毎回超えていない……。他の経費は予算を超えている所もあるのに。怪しさ全開ですわ」
「えぇ、改竄の可能性が高いですね。恐らく、あの女が購入した衣料品や装飾品を、交際費以外の経費に回しているのでしょう。交際費の予算を上回った領収書は処分しているのかと」
「それで毎回赤字ギリギリだからと、税金を上げられる領民が不憫でなりませんわ……」
眉を顰め、大きく溜め息を吐くオリービアに、ローレルは静かに問うた。
「どうします、オリービア? ロナド・デンロンを問い詰めますか?」
「いえ……。作成した帳簿に、ロナド・デンロンの署名はどこにも無かったのでしょう?」
「はい、御明察の通りです。本来は帳簿の最後に作成者の署名を必ず記入しなければならないのですが」
「なら、問い詰めても白を切られるだけですわ。決定的な証拠を掴む為に、今はまだ泳がせておきましょう。その前に、領民の生活を安定させないといけないですわ。町の中心街はまだ大丈夫なのですが、外れの方は浮浪者が結構いるのです。それを解決する為に動いてはいるのですが――」
「……オリービア」
ローレルは片膝をつくと、俯くオリービアを見上げ、彼女の小さな手に自分の手をそっと重ねた。
「あまり一人で気負わないで下さい。僕もいますから。その為に貴女は僕を雇ったのでしょう? 遠慮せずに僕を使って下さい」
「……ローレルさん……。ありがとうございます」
オリービアは小さく微笑むと、ローレルも安心させるように微笑し、頷いた。
至近距離で見つめ合う二人に、ニアナは脳内でテーブルをバンバンと叩いていた。
(この二人は……っ! ホントにもう……っ! 伯爵には愛人がいるんだから、オリービア様も作っても問題ナシですよね!? 二人の年も近いしアリですよね、アリっ!!)
「……ニアナ? 先日から様子がおかしいですわよ?」
「えっ? あっ、大丈夫ですよ、大丈夫っ!!」
「……そうですの?」
訝しげなオリービアから慌てて顔を背け、ニアナは壁に掛かっている時計を見た。
「あぁっ、もうお昼ですね! 今日はどこの食堂に行きますか? ご飯代は私のお給金から引いておいて下さいね!」
「外での食事はわたくしが勝手に決めてしまったことだから、ニアナは全く気にすることはないのよ? 私財は副業で有り余る程ありますし、貴女はわたくしの為に色々してくれているのだから、これぐらいは奢らせて下さいな」
「うぅー……。こういう時、嫌だって言っても聞かないんですよね、オリービア様は……」
「ふふっ。流石、わたくしの事をよく知っていますわね、ニアナは」
二人のやり取りを、ローレルは微笑みながら見ていた。
「お二人は姉妹のようにとても仲が良いのですね」
「えぇ、ニアナとはわたくしが子供の頃からの付き合いになりますの。姉妹以上の関係だとわたくしは思っておりますわ。ニアナとは一歳差ですのよ」
「そうなんですね。オリービアの方が年上なのですか?」
「私が年上ですよ! 何ですかローレルさん! オリービア様の方が大人っぽいとでも言うんですか!」
「あっ、いえ……すみません」
「謝ったって事は思ってましたね!? その通りですけれどもっ!」
「ふふっ。わたくしはそのままのニアナが大好きですわ。前から言っているけれど、貴女もわたくしの事呼び捨てにしても良いのよ?」
「それはいいんです! オリービア様はオリービア様ですから!」
「もう、頑固なんですから。――さぁ、ではお昼に参りましょうか」
「お手をどうぞ、オリービア」
「あら、ふふっ。ありがとうございます」
立ち上がり、自然な身ごなしでスッと差し出されたローレルの手に、オリービアは笑いながら自分の手を置き、腰を上げる。
ニヤニヤしているニアナの視線はもう気にしないことにした。
部屋を出て談笑しながら廊下を歩いていると、前からハイドが歩いてくる姿が目に入ってきた。
「あら、旦那様。遠征から戻られたのですね? おかえりなさいませ」
「……っ。オリービア――」
ハイドは久し振りのオリービアを目に捉えると、一瞬笑みを見せたが、彼女の後ろにいるローレルに気付くと同時に顔を強張らせた。
「……何で……何でその男がここにいるんだ……」
ボソリと呟き、突然ツカツカとオリービアのもとに歩み寄ったと思ったら、彼女の華奢な身体を自分の腕の中に隠すように強く抱きしめてきた。
「……っ!?」
「オリービア様っ!」
「どうしてお前がここにいる!? ユーカリさんを襲って解雇した筈のお前がっ!!」
目尻を吊り上げ、ギッと睨みつけてくるハイドの目を、ローレルは逸らすことなく真っ直ぐに見据え返した。