7.ローレル・ベイジのもとへ
自分達の食事に関して、オリービアはこの屋敷では食べない事をハイドに伝えると、彼は何故か渋り、「俺が最初に毒見する」ととんでもない事を言い出した。
オリービアは心底呆れた様子を隠せずに反論する。
「ランジニカ伯爵当主が何を仰っているのです。そんな危険な行為は絶対にさせられません。それに、旦那様は遠征続きで屋敷には殆どいらっしゃらないではないですか。毎日毎食毒見なんて出来ないでしょう?」
「ぐ……っ。な……なら、別の料理人を雇って――」
「料理長は日中、ほぼ厨房にいらっしゃいます。隙をついて『毒』を入れられてしまったら、新しい料理人を雇ったところで意味がありませんわ。ユーカリ様が連れて来られた料理長や使用人を解雇しない限り、わたくしは決して安心出来ません」
「そ、それは……」
「えぇ、分かっていますわ。出来ないのでしょう? なら、わたくし達の好きにさせて頂きます。お金の事は御心配なく。それを賄えるだけの私財はありますから。この家の資金から出して頂かなくても結構ですわ」
「……え? 何を言っているんだ。君は散財して借金があるんじゃ――」
「今からまた遠征に行かれるのでしょう? お身体に十分お気を付けて。旦那様の無事を祈っておりますわ」
「……あ、あぁ……。――その、君も……元気、で……」
「あら? はい、ありがとうございます」
そんなやり取りが今朝あって、オリービアが玄関でにこやかに見送るのを、ハイドは後ろ髪を引かれる思いで何度も振り返り、屋敷を出たのだった。
――そして、それから数ヶ月が経った。
ハイドは相変わらず魔物退治の遠征続きでほぼ屋敷にはおらず、伯爵の公務は必要最低限にこなしていた。
オリービアは、伯爵夫人としての公務を滞りなく遂行している。
ハイドが屋敷にいてもオリービアに用事があったり、その反対だったりと、二人は擦れ違いの日々が続いていた。
使用人達からは、擦れ違いざまに悪口を言われる等の相変わらずな嫌がらせが続いているが、オリービアには何処吹く風だった。
警戒していたユーカリからの接触が、今のところ何も無いのが不思議だ。
もう一つ不思議なのが、こんなに月日が経っているのに、ユーカリには一度も会った事が無いのだ。
彼女の部屋は廊下の奥の方で、オリービアの部屋から大分離れているし、オリービア達の食事は外食なので食堂には行かないし、それに用事がある時以外は自分の部屋で過ごしているからかもしれないが。
ユーカリがオリービアを避けている事も十分考えられた。
会っていないので挨拶も一切していないが、「この家の者ではないから問題無いでしょう」と、オリービアはその一言だけで済ませたのだった。
――そして今、オリービアとニアナはランジニカ伯爵邸の執務室にいる。
ハイドは相変わらず遠征で留守にしており、ユーカリと執事は出掛けているので、今が絶好の機会だった。
一通りそこにある書物や帳簿に目を通したオリービアは、深い溜め息をつく。
「……ふぅ。やはり、一年半前から現在までの会計帳簿が見当たりませんわね。会計担当である執事のロナド・デンロンが持っているのかしら?」
「一年半前以前の帳簿は、どれも綺麗に分かり易くまとめられていますねぇ。後で見る人の事を考えているから、きっと気配りが出来る人なんでしょうね。――あっ、これをまとめた方の署名が最後に書かれています! えぇと、『ローレル・ベイジ』……? この屋敷にはいない名前ですね……。辞めたのでしょうか?」
「『ローレル・ベイジ』……。他の帳簿を見ても、完璧に近い仕上がりですわ。わたくしが欲しい逸材よ。先程過去の[雇用契約書]を見つけたので、そこに彼の住所が記載されているでしょう。調べて早速行ってみましょうか」
「今からですか! 勿論、どんな時間だってお供しますよ!」
「ふふっ、相変わらず頼もしいわ、ニアナ。ありがとう」
善は急げと、二人は『ローレル・ベイジ』の住所へと向かったのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
オリービア達が住む、サンバークス王国の城下町の場末に、民家が立ち並ぶ場所があり、そこに『ローレル・ベイジ』の住み家があった。
他の民家と比べると小さめな一軒家だ。オリービアが玄関の前に立つと、中からはしゃぐ子供達の声が聞こえてきた。
と同時に玄関の扉が開け放たれ、二人の男女の子供が飛び出してきた。
「あらあら?」
咄嗟に、オリービアはその子供達を抱き留める。
「こらっ、ウィン、チェスナ! 待ちなさい!!」
すると家の中から男性の声が飛び、深緑色の肩まで伸びた髪と同じ色の瞳の、顔立ちが整った美形の青年が玄関に走ってきた。
青年は子供達を抱き留めるオリービアの姿を捉えると、軽く目を瞠った。
「あ……お客様でしたか。すみません、僕の弟妹が急に飛び出してしまって……。ほらウィン、チェスナ。お姉さんから早く離れなさい」
「えーっ、やだーっ! このお姉ちゃんいい匂いなんだもん。まだこうしていたいー!」
「ねー!」
そう言うと、ウィンとチェスナはオリービアにギュウギュウ抱きついてきた。
「あらあら、ふふっ」
「こら! ウィン、チェスナ! ――すみません、弟と妹が……」
「いいえ、いいのですよ? お気になさらず。ふふっ、とても可愛らしい弟さんと妹さんですわ。二人のお世話をされていらっしゃるのですね。感服致しますわ」
「いえ、そんな……。兄として当然の事をしているだけですよ。それで、御令嬢がこんな陳腐な家に何の御用でしょうか?」
「お話をさせて頂く前にお伺い致しますが、『ローレル・ベイジ』様は貴方でしょうか?」
オリービアがウィンとチェスナの頭を撫でながらにこやかに尋ねると、青年の眉尻がピクリと動いた。
「……えぇ、そうですが……。僕に何か?」
「まぁ! いて下さって本当に良かったですわ。不在でしたらどうしましょうと思っていましたの。わたくし、オリービア・ランジニカと申します。数ヶ月前にランジニカ伯爵の妻になった者ですわ」
「……! あの伯爵の――」
「兄弟の時間を邪魔しては申し訳ないですので、単刀直入に申し上げますね。ローレル様、貴方に是非わたくしのもとで働いて頂きたいのです。給金は、前伯爵様が支払っていた金額と同等で如何でしょうか。相談次第で、若干の上乗せは可能ですわ」
「……は?」
突然の勧誘に、ローレルの顔に驚愕の色が浮かぶ。
「ローレル様。今、お仕事は何を?」
「え? あ……日雇いで、夜間の工事現場で……」
「夜の勤務は日中より給金が若干高くなりますものね。けれど、賢く優秀な貴方は、力より頭を使うお仕事の方が合っていると思いますの。日中は、ウィン君とチェスナちゃんはお家で過ごされるのですか?」
「あ、はい……ですが、僕の母親は少し身体が弱くて家にいるので、母が面倒を見てくれています。今は医者に薬を貰いに行っておりいませんが……」
「成る程、それを聞いて安心しましたわ。勤務時間は週四・五日で、前の刻九時から後の刻十七時まで。それですと、朝晩とお休みの日は御家族との時間が取れるでしょう? 通勤手当も勿論出しますわ。如何でしょうか?」
オリービアの提案に、ローレルは目を見開き口をあんぐりと開けていたが、やがて小さく息をついた。
「……ウィン、チェスナ。家の中に入っていなさい。僕はこのお姉さんと大事な話をするから」
「……はーい! じゃあお姉ちゃん達、そのお話終わったら遊んでね!」
「約束だよーっ」
「ふふっ、分かりましたわ。沢山遊びましょうね?」
「うん! わーいっ!」
「きゃーっ!」
ウィンとチェスナは、はしゃぎながら家の中に走って行った。
「……すみません、あの子達と遊ぶ約束まで……」
「ふふっ、わたくしも楽しみですから気になさらないで下さいな。ねぇニアナ?」
「はい! 私、ちっちゃな子供、可愛くて大好きです!」
「そう言ってくれると助かります……。それで、貴女のもとで働く条件ですが……かなり願ったり叶ったりなもので、僕としてはとても好条件なのですが……」
言い淀むローレルに、オリービアは小首を傾げて尋ねた。
「何か問題でもあるのかしら?」
「……僕があの屋敷を辞めた理由、聞いていますか?」
「いいえ、存じませんわ」
首をゆるりと左右に振るオリービアに、ローレルはグッと唇を噛み締めると、小さく口を開いて言った。
「僕は、あの女に嵌められたんです。あの女は、僕に襲われたと言って伯爵に泣きつき、伯爵が激怒し僕の言い分を一切聞かず、一方的に僕を解雇したんです」