6.伯爵の従姉妹
「――ハイド? 何だ、いるじゃない。遠征から帰って来た後はすぐアタシに会いに部屋まで来てたのに、今日はどうしたのよ?」
ハイドが自分の部屋のソファに座り、手の平を見つめ先程のオリービアの手の感触と匂いを思い出していると、ノックもせずに、真紅色の長い髪と同じ瞳をした艶めかしい女性が扉を開け入ってきた。
胸元の大きく開いた、身体の線にピッタリと沿った赤いドレスは、男達の視線を釘付けにする彼女の性的魅力を強調していた。
「何だか元気ないわね? じゃあ、いつものように優しく慰めてあげるわ……フフッ」
女性は赤く濡れた唇を持ち上げながらハイドのすぐ隣に座ると、彼の肩に腕を絡ませ、その豊満な胸と共に身体を密着させる。
いつもは安心するその温もりだが、今は何故か不快に感じ、ハイドは思わず顔を顰めてしまった。
それに、この鼻につく強い香水の匂い……。慣れた匂いなのに、これも不愉快に感じる。
オリービアの、あの堪らない程の良い匂いが、このきつい香水の所為で掻き消されそうで、ハイドは慌てて息を止めた。
「その……すまないユーカリさん、離れて欲しい。今は慰めはいらない……」
すぐにハイドはユーカリを振り払って身体を離した。
ユーカリはハイドに初めて拒絶され、顔を大きく歪ませる。
「ちょっと……何よ? いつもこうやって抱きしめて慰めてあげてたでしょ? 今日はホントどうしたのよ?」
「……ユーカリさん。その……訊きたい事があるんだが」
「は? 何よ?」
「俺の妻の“噂”は……本当の事なのか?」
「はぁ!?」
顔を伏せたままのハイドからの突然の問い掛けに、ユーカリは怪訝な顔つきになって彼に言い返した。
「何よそれ? アタシが嘘を言っているとでも言うの? アンタを立ち直らせた恩人のアタシが?」
「い……いや、疑っているわけじゃないんだ。ごめん……。ユーカリさんにはすごく感謝しているよ。俺の尊敬する両親が突然亡くなってしまって、塞ぎ込んでいた俺を親身になって励ましてくれた……。今こうやって普通でいられるのは、ユーカリさんのお蔭なんだ。その感謝の気持ちを忘れるわけがないよ……」
「あはっ、そうでしょう? そんなアタシがアンタに嘘を言うわけないじゃない。アタシはアンタの唯一の味方なのよ? アンタはアタシの言う事だけ信じていればいいの。他の奴らの言う事なんてただの戯れ言よ。分かった?」
ユーカリにそう耳元で囁かれ、ハイドは無意識の内に頷いていた。
「……あぁ、分かった……」
「アンタの妻になった女は正真正銘の悪女よ。毎夜の男遊びで身体が穢れ切ってる醜い女よ。性格も最悪だし、絶対に心を許しちゃいけないわ。早く【王命】を取り消して離婚しちゃいなさいよ」
「……あぁ。そう……だな……。ユーカリさんは、俺に嘘なんて言わないもんな……。そうだよ……」
初夜の日、ユーカリから自分の妻になる“噂”を聞かされた時は、怒りで目の前が真っ赤に染まった。
毎夜、町を彷徨き男を漁っているなんて、穢らわしいにも程がある。
自分は毎日魔法の鍛錬と魔物退治に明け暮れているというのに。
そんな女が自分の妻になるなんて、本当に最悪だ! そんな心身共に穢れた女と初夜なんて迎えられるか!!
激しい怒りを煮え滾らせながら自分の部屋に行き、勢いのままに、己の感情を目の前にいる妻になったばかりの女にぶちまけた。
……そう、いつからか――両親が亡くなって暫くした後からだろうか。
苛立ちや怒りが瞬時に抑えられなくなり、暴言が出たり、物に当たってしまうようになった。
その症状が少しずつ悪化していって、今ではちょっとした事でもイライラし、抑えようとする前に汚い言葉が出てしまう。
両親が亡くなる前は、怒りや苛立ちが表れた瞬間、自分の中で整理し抑え込めていたのに……。
だからその症状は、両親を亡くしたショックからの心の乱れからくるものだと思っていた。
両親を失った悲しさが薄れる頃には、きっと良くなっているだろうと楽観視していた――
そして、今回も怒りが抑えられず、思いつくままの暴言を妻になったばかりの女に言い放った。
……返ってきた反応は、あまりに予想外だった。
キョトリと小首を傾げる彼女の姿は、可愛いとさえ思ってしまって。
その時点で“噂”と違う印象に違和感を感じたが、「そんな筈がない」と、その違和感を心の奥に閉じ込めた。
しかし、今日オリービアと話して、その違和感が再び心の奥底から大きく浮上してきた。
あんなに……自分をしっかりと持ち、瞳に純真な光を湛えた彼女が……あんなに綺麗な笑みを見せる彼女が……男遊びなんてするか……?
買い物で、欲の欲するがまま散財するか……?
――けれど、ユーカリさんが俺に嘘を吐くなんて……そんなことある筈が無い。
そう……俺を“絶望”から救ってくれたユーカリさんに限って、絶対にある筈が無いんだ――
「ねぇ、ハイドぉ。王都で買いたい物があるのよ。貴族の間で人気の装飾品店で、新作のネックレスとブレスレットが出たんですって。近い内に王都に行きましょ? またこの家の資金から出させて貰うわね。アンタの副団長の給金はとっとかなきゃいけないもの。アンタの仕事って常に命懸けだし、アンタにもしもの時があった場合に必要だものね?」
「……その、交際費の予算は大丈夫なのか? 超えていたら使えないが……」
「知ってるわよ、そんなこと! 執事のロナドがちゃんと管理してるから大丈夫よ。アンタは会計に関して何も心配しなくていいの! 分かった?」
「あ、あぁ……分かった。あと、伯爵夫人の公務予算の割り当てもお願いしたいから、ロナドさんに伝えてくれないか?」
「はぁーっ!? あの醜悪女に予算を割り当てるの!? 嫌よそんなの! あんなふしだら女に使うお金なんて一ルドだって無いわ! それなら交際費に全て回しましょ! ね、いいでしょ?」
「…………!」
ハイドはそこで、オリービアの言葉を思い出していた。
『では、ユーカリ様がわたくしに家のお金を使わせないでと旦那様に頼んできたら、旦那様はそれを突っ撥ねる事は出来ますか?』
(……ユーカリさんは、そんなこと言わないと思っていたのに――)
「……伯爵夫人の公務は、この家にとっても大事なものなんだ。――頼む、ユーカリさん……」
ハイドに深々と頭を下げられ、ユーカリは渋ったけれど仕方なく頷いた。
「はぁ……ったく、分かったわよ。ロナドに伝えておくわ」
「……ありがとう、ユーカリさん」
(フン、最低中の最低の予算でいいでしょ。あの女にこの家の資金を使わせるなんて冗談じゃないわ。あの女には自分の金を使わせればいいのよ。この家の財産は全てアタシのモノなんだから)
ユーカリは、心の中で口角を大きく上げる。
そんな彼女の内心など露知らず、ハイドは無意識にオリービアの美麗な微笑みを思い浮かべ、知らずに小さく笑みを浮かべていたのだった。