5.夫婦喧嘩再び?
「ようこそおいで下さいました、旦那様。今、お茶を御用意致しますわ」
「……いや、いい。構わないでくれ。寝る前にすまない」
(そう思ってらっしゃるなら、今すぐ踵を返してさっさと御自分の部屋に戻るなり愛人の部屋に行くなりして下さらないかしら)
心の中でそう思いながら、オリービアはにこやかにハイドをソファに案内した。
彼がソファの端に座るのを見届け、オリービアはその反対の一番端に座り、大きく距離を取る。
「……かなり離れている気がするんだが……」
「同じ空気を吸ってるだけでとんでもなく不快だと思いますので、なるべく距離を取ろうと思いまして」
「ぐ……っ。そ、それは忘れて欲しい……。あの時は本当に頭が沸騰していて――」
「構いませんわ。――それで、旦那様。一体わたくしに何の御用ですの?」
早く本題に入り話を終わらせたくて、オリービアはハイドの言葉を遮り切り出した。
「あ、あぁ……。その、お前と別れてすぐ料理長と使用人に話を聞いたところ、白状したよ。彼らも“噂”を聞き、お前が伯爵夫人に相応しくないと思い、追い出そうとあんな事をしたと言っていた。俺についた嘘も、俺にお前を追い出させようとついた嘘だ、と。叱責し、彼らは謝っていたから、今後はこういう事は無いので安心してくれ。料理も俺と同じ品目を出させるから」
「……お尋ね致しますが、その者達は反省し泣いて謝られていましたか? 心からの謝罪は感じられましたか? わたくしの想像では、旦那様の手前、一応謝罪はしたけれど、誰もが不貞腐れた様子だったと思いますが」
「……!!」
その通りだったようで、ハイドの顔つきが強張る。
「お言葉ですが、それで安心しろと? その者達がわたくしを嫌っている事実は変わらないですよね? 今度は料理にこっそりと『毒』を入れるかもしれませんのに? どうやって安心しろと仰るのですか?」
「……っ! そんなこと……っ!!」
ハイドは言い返そうと身を乗り出したが、グッと口を閉ざすとソファに座り直した。
「……そう……そうだな……。こんな事があったら、信じられないのも無理はないよな……。だが、犯行を犯した者達は、ユーカリさんが連れてきた者達なんだ。だから、俺が勝手に解雇させるわけにはいかなくて……」
(『ユーカリさん』? 愛人のことかしら。今の発言からすると、かなり入れ込んでいるのは確かのようですわね)
「それに、お前は毎食外で食べてるんだろう? これ以上この家の資金を使わせるわけにはいかない。聞くところによると、この町で服も大量に購入しているんだって? 家の資金で、今までのように好き勝手に散財させるわけにはいかない」
オリービアは、ハイドの責めるようなその言葉に、思わず怪訝に眉根を寄せてしまった。
「……あの、何を仰っているのですか? この一週間の食事や衣類代は、全てわたくしの私財ですのよ? そもそも、伯爵夫人用の予算が割り当てられているのですか? 無いですよね? それに、この屋敷の何処に資金が管理されているか、わたくしは全く存じません。それでどうやってこの家の資金を使うのでしょう?」
「はっ……?」
オリービアの言い分を聞き、ハイドは身体をピシリと硬直させた。
「……最初に、執事に……訊いたんじゃ――」
「あの執事さんですか? ここに来てから二日目の朝に、向こう一週間のわたくしの公務や予定をお伺いしたところ、御機嫌斜めに『知りません』の一言だけ。他は何も教えて頂けませんでした。なのでわたくしの好き勝手に行動させて頂きましたわ。ちなみに服を購入したのは、わたくしや専属侍女のニアナの着る服が全く用意されていなかったからです。必要行為ですのよ」
「……そ、そんな……。執事までも……。服も用意されていなかったなんて……。いくら嫌ってるとは言え、伯爵夫人だぞ……? 流石に度が過ぎてないか……?」
ハイドは呟き、両手で顔を覆う。
「ちなみにその執事さんも、ユーカリ様が連れて来られたのでしょうか?」
「あ、あぁ……」
(成る程。なら、その執事も全く当てには出来ませんわね)
「使用人については放っておいて構いません。旦那様は何もされなくて大丈夫です。引き続きわたくしは自分の私財で生活していきますわ。この家の資産には一切手を付けませんので御安心下さいませ」
「はっ? ――そっ、そんなわけにはいかない! 仮にもお前はこの家の夫人なんだ! 俺の妻であるお前が、この家の資金を使わないなんて……! しかもお前、多大な借金があるじゃないか! 更に借金を増やすつもりかっ!?」
「では、ユーカリ様がわたくしに家のお金を使わせないでと旦那様に頼んできたら、旦那様はそれを突っ撥ねる事は出来ますか?」
「は? ――な、何を馬鹿なっ! そんなフザけた事をユーカリさんが言う筈が無いだろう!?」
「わたくしの根も葉も無い“噂”は、そのユーカリ様が発端となっています。妬みか僻みか――まぁ、その両方だと思いますが。そんな“噂”を流した彼女を、わたくしは全く信用出来ません。よって、彼女が連れてきた者達も同じく信用しません」
オリービアの言葉に、ハイドの両目が大きく見開く。
「根も葉も……無い……? そんな……ユーカリさんが俺にそんな嘘をつく筈がないっ! 何度もフザけた事を言うなっ! ――でも、でも……お前――君は、“噂”と全然違う……。何で……どうして……何故――」
低く唸り、頭を抱えてしまったハイドに、オリービアは小さく息を吐いて言葉を続ける。
「どちらを信じるかは、旦那様の好きなようになさって下さい。ランジニカ伯爵夫人になった以上、公務はきちんとこなしますわ。わたくしが必要になったら仰って下さいな。但し、それに掛かる費用はこの家の資金からお願いしますね」
「そっ、それは当たり前だ……!」
「後はわたくしの私財で好き勝手にやらせて頂きます。旦那様もユーカリ様とどうぞ御自由に仲睦まじくされて下さいませ。わたくしは何も口を挟みませんので。横恋慕なんて致しませんからどうぞ御安心を」
「は? 何を言って――」
「わたくしからは以上ですわ。旦那様は他に何かございますか?」
真っ直ぐな橙黄色の眼差しでハイドを見つめるオリービア。
ハイドは、その視線に眩しそうに目を細めた。
淀みの無い、眩しい程の光を湛えた瞳は、とても綺麗で。
ハキハキとした物言いが気持ち良いとさえ感じてしまった。
「……君と……もっと話したい――」
ボソリと自分の口から漏れた言葉に、ハイド自身が驚いたようだった。慌てて口に手を当てる。
その呟きが耳に入ったオリービアの眉尻が微かに動いた。けれどすぐに、にこやかな微笑みへと変わる。
「そのような台詞は、旦那様のお慕いするユーカリ様に仰って下さいませ。――ニアナ、旦那様をお見送り致しましょう」
「はい、オリービア様! ――伯爵様、立って下さい。今すぐに!!」
「っ!」
ニアナの迫力に、ハイドは無意識の内にソファから立ち上がっていた。
オリービアは、呆然としてそこから動かないハイドに内心溜め息をつき、その左手を取ると、入り口に向かって歩き出す。
「……っ」
ハイドは、オリービアの手の小ささと、彼女から仄かに香る花のような良い匂いに、心臓の音がドクンと大きく波打つのを感じた。
気付けばハイドの指は、無意識にオリービアの手を握っていた。
ずっと嗅いでいたいくらいの彼女の良い匂いと、柔らかく温かな手の感触に、彼の胸の高鳴りが止まらない。
入口の前まで来ると、オリービアは扉を開け、ハイドの手をスッと離した。
「あ……」
何故かもっと握っていたくて、ハイドの手が無意識にオリービアの手に向かって伸びたけれど、一歩後ろに下がった彼女の動作で、それは虚しく宙を掴んで終わった。
「では、おやすみなさいませ、旦那様。良い夢を」
「あ、あぁ……」
美しい微笑みをハイドに向け、オリービアは上品にお辞儀をする。
そして、パタンと扉が閉められた。
「…………」
ハイドは高鳴る胸を手で押さえ、藍緑色の瞳を閉じて長い息を吐くと、静かにその場を後にしたのだった。