10.伯爵の失態
「……以前も申し上げましたが、僕はそのような愚かな行為をやっておりません」
「嘘をつくなっ! ユーカリさんが泣きながら俺に訴えてきたんだぞ! 彼女がそんな戯れ言を言う筈が無い!!」
「……あの……旦那様、離して下さい……。苦しいです……」
腕の中から聞こえてきたくぐもった声に、ハイドはハッとなって、顔を赤らめながら急いでオリービアを離した。
「す、すまないっ! 君がこの男に襲われると思ったら、つい、その……。――そっ、それよりも、どうしてこの男と一緒にいるんだ!? この男はユーカリさんを襲った野蛮男なんだぞ!? 人として最低な人間なんだ! 今すぐにその男から離れろっ!」
「――旦那様。それは、ローレルさんの人となりを直接見て、御自身がそう感じたから発している言葉ですか? それともただ単に彼女が訴えてきたからというだけで、そうだと決め付けて発した言葉ですか?」
「……え?」
いつもと違うオリービアの雰囲気に、ハイドは知らずゴクリと唾を飲み込み、彼女を見下ろす。
ハイドの記憶の中に常にある、にこやかな微笑を浮かべるオリービアは、そこにはいなかった。
無表情の彼女は、静かに怒りを湛えていた。
「わたくしはローレルさんの人となりを直接見てきました。彼は御家族を大切にし、御家族を養う為に慣れない夜間の現場仕事をし、弟妹の面倒を見、病弱なお母様を常に気に掛け労っていました。そんな彼が、ユーカリ様を襲っただなんてわたくしは一切信じません。わたくしは、わたくしの『目』と己の『心』を信じます」
「……あ……」
「旦那様は、ローレルさんと相識の間柄なのですよね? 彼は前伯爵様が御存命の時から、ずっとこの屋敷で働いてきましたから。その姿を見てきて、貴方は彼がユーカリ様を襲ったと、声を大にして言えますか?」
「…………っ!!」
ハイドは、オリービアの発言に衝撃を受けたように両目を大きく見開かせる。
「……け、けど……。ユーカリさんが、そんな嘘を俺につく筈が……。あんなに親身になって俺を励まして……立ち直らせてくれたユーカリさんが、そんな――」
「……誰を信じるか信じないかは旦那様の御自由です。けれど、御自分で確認もしていないのに、人に言われてそうだと決め付け、相手を一方的に罵るのは間違っているとわたくしは思いますわ。もしそれが真実では無かった場合、傷付くのは自分ではなく、理不尽に罵られた相手なのですから」
「…………っ!!」
その言葉は、ハイドの心を大きく抉り抜いた。
同じ事を、目の前のオリービアにもしていたからだ。
「旦那様が何と仰ろうと、わたくしはローレルさんを信じ、雇いますわ。勿論、給金はわたくしの私財から出しますので御心配なく。わたくしが直接彼を雇っておりますので、無関係の旦那様やユーカリ様が何を仰ろうと無効になります。この事を胸に留めておいて下さいませ。それではこれで失礼致します」
オリービアは固まるハイドに優美にお辞儀をすると、クルリと彼に背を向ける。
彼女は最後まで表情の無いままだった。
「あ――」
ハイドは、オリービアを怒らせたまま行かせたくはないと、無意識に思った。
自分に対し、もう口を利いてくれなくなる事を恐れた。
あの美しい微笑みを向けてくれなくなる事に恐怖した。
そう強く感じた瞬間、咄嗟に声が出てしまった。
「――お、オリービアッ! 使用人達には本当に何も言わなくていいのか? あ……あれから彼女達には何もされていないか……?」
「されてますよ、様々な嫌がらせをたっくさんっ!!」
思わずといった感じで、ニアナが両目を吊り上げて盛大に叫んだ。
「え……」
「こら、ニアナ。――大丈夫ですよ、旦那様。本当にとても些細な悪戯ですから、全く気にしておりませんわ。それに、旦那様が使用人達に注意をしますと、わたくしの“噂”の所為で、『伯爵様に色目を使って誑かした』と解釈されて、更に可愛い悪戯が増しそうなので、何も仰って下さらない方が助かりますわ。旦那様は殆どこの屋敷にいらっしゃらないので、助けを求める事なんて出来ないんですもの」
「……っ!」
言葉を失くし、奥歯をグッと噛み締めたハイドに、オリービアは小さく微笑んだ。
「『伯爵夫人』のわたくしを気に掛けて下さったのですね? ありがとうございます」
「……っ」
望んでいた、オリービアの自分に向けられた微笑みに、ハイドの鼓動が大きく高鳴る。
「それでは失礼致します」
オリービアはもう一度しなやかにお辞儀をすると、踵を返して玄関に向かって歩き出した。
「……オリービア。ありがとうございます」
「何の御礼でしょうか、ローレルさん? わたくし、何もしておりませんよ?」
「ふふっ。――いえ、すごく嬉しかったので、僕がただ言いたかっただけです」
「あら、そうですの」
遠くで微笑み合うオリービアとローレルを見て、ハイドの胸に大きなざわつきが起きる。
思わず顔を顰めた彼は、おもむろに自分の両手を開いて見た。
先程、オリービアの細い身体を抱きしめていた手――
それを認識した瞬間、彼女の温かく柔らかな感触と、抱きしめた瞬間鼻腔を擽った芳醇な花のような匂いを思い出し、ハイドの顔がボッと赤く染まった。
大きく波打つ心臓を静めさせるように手で押さえると、ハイドはポツリと呟く。
「……君は……自分が何を言われても悲しみも怒りもしなかったのに、自分が心を許した者の為に怒るんだな……。――その中に……俺も入れたら――」
自分の呟きに、ハッと口に手を当てるハイド。
「何を……何を言っているんだ俺は……! 彼女は毎夜男を漁ってるんだぞ? 多大な借金だって背負ってるんだ。そんな彼女を、俺は……すごく、きら、って――」
『わたくしは、わたくしの『目』と己の『心』を信じます』
オリービアにハッキリと言い放たれたその言葉が、ハイドの頭の中でグルグルと消える事なく回り続ける。
「……俺の『目』は……オリービアを……。でも、でも違う……ユーカリさんが俺に嘘なんて……そんな事……。でも、どうして……。――俺は……俺はどうしたら――」
堂々巡りな思考回路に、ハイドはその場で頭を抱え、蹲ってしまったのだった。