1.初夜で飛び出した暴言
「お前の噂を聞いたぞ。毎夜町に出て男を求め、毎回違う男と朝までふしだらな行為に明け暮れているそうだな? その上糸目を付けず服や装飾品を買い漁り、多大な借金を背負っているとか……。そんな醜悪な女が俺の妻だとは非常に不愉快極まりない! こうしてお前と話しているだけでとてつもなく胸糞が悪い……! 初夜なんて以ての外だ! 今後俺に話し掛けるな! 俺に一切関与するな! 同じ空気を吸ってるだけでとんでもなく不快だ……!!」
オリービア・フレイグラントは、初夜を迎える為に、本日付けで夫になったハイド・ランジニカ伯爵を彼の部屋で待ち、扉を開け姿を現した彼に唐突に言い放たれた言葉がそれだった。
彼の、誰もが見惚れる程の美しい顔立ちが深い怒りの感情を表しており、藍緑色の長髪と同じ色の瞳が、オリービアを鋭い目つきで睨みつけている。
「あらあら、まぁ」
その辛辣な言葉に対し、オリービアが返した言葉はその六文字だけだった。
頬に手を当て、小首を傾げきょとりとし、橙黄色のウェーブした長い髪と同じ色の瞳でハイドを見上げるオリービア。
「……っ?」
噂通りの傲岸不遜な女なら、すぐに怒って泣いて部屋を飛び出すと思っていたのだろう。
予想外のオリービアの反応に、ハイドは上半身を仰け反らせグッと息を詰まらす。
「……失礼する!!」
クルリとオリービアに背を向けると、ハイドはカツカツと足音を鳴らしながら部屋から出て行った。
廊下に響く足音が聞こえなくなったところで、オリービアはハッと気付いた。
「あらあら、この場合はわたくしが怒って泣いて部屋を飛び出さなくてはいけなかったのね? 突然の暴言に驚いて固まってしまいましたわ……わたくしもまだまだね。旦那様が眠るのに困るでしょうし、自分の部屋に戻りましょうか」
オリービアはグーッと腕を天に伸ばすと、座っていたベッドの端から腰を上げ、のんびりとハイドの部屋を出た。
自分の部屋に戻ると、短く揃えた蒼色の髪と同じ色の瞳の勝ち気そうな女性がベッドを整えているところだった。
彼女は、オリービアの専属侍女であるニアナ・ガーディーだ。
ニアナは【王命】でランジニカ伯爵家に嫁ぐオリービアを心配し、働いていたフレイグラント子爵家から付いてきてくれたのだ。
「あっ、オリービア様! 案の定お早いお帰りでしたね? ベッドの用意をしておきましたよ」
「あらニアナ、貴女は本当に気が利きますわね? ありがとう、今お茶を淹れますわ」
「ちょっ、ランジニカ伯爵夫人が何仰ってるんですか! 私が淹れますからオリービア様は座っていて下さい!」
「ふふっ、本当にありがとうね、ニアナ」
ソファにゆったりと座ったオリービアは、ニアナの出してくれた紅茶を啜りながら、先程あったことを彼女に伝えた。
「はあぁっ!? 何ですかその根も葉も無い噂はっ!? 伯爵も伯爵ですよ! 妻になったオリービア様を信じずに、そんなデタラメな噂を信じて酷過ぎる言葉を浴びせるなんて!! 本気で許せません……今からぶん殴りに行ってもいいですかっ!? いいですよねっ!?」
顔を真っ赤にして憤り、部屋を出ていこうとするニアナを、オリービアは穏やかに声を掛けて止めた。
「いいのよ、わたくしは気にしていませんから。わたくしの為に怒ってくれてありがとうね、ニアナ。貴女がいてくれて本当に良かったですわ」
にこやかにそう言ったオリービアを見て、ニアナは照れながらも頬を膨らませて怒る複雑な表情でソファの方に戻った。
「けど、あんまりですよ! 【王命】で強制的に結婚させられた挙げ句、旦那様になった人にそんな罵倒を浴びせられるなんて……。その……オリービア様が傷付くと思って言えなかったんですが、伯爵には愛人がいるんですよ。この屋敷に住まわせて、いつも一緒にいるんです。だから人のこと言えた義理じゃないんですよあの人は!」
「あらあら、そうなんですの? わたくし、そういった話に疎くて……。その愛人さんってどんな方ですの?」
微笑みを崩さず、オリービアはニアナにお茶を勧めながら訊く。
「その愛人について詳しくは分からないんですが、侍女仲間に、王都に実家がある子がいるんです。その子が実家に帰ると、城下町で伯爵がその女性に服や装飾品を買ってあげてる姿を見掛ける時があるそうなんです。歩く時も、女性が伯爵の腕に自分の腕を絡めて親密そうにくっついているそうですよ。服の購入のことだって人のことを言えた義理じゃないですよね!? どの口が言ってんだって感じです! もうすっごく腹が立ちますよ!!」
ニアナはプンプンと怒りながら、紅茶をグイッと一気飲みする。
「あらまぁ、そうなのね? 今日は夕方過ぎにここに到着して、書面で結婚の手続きをして夕食後そのまま部屋に篭ってしまったから、その愛人さんには気が付かなかったですわね」
結婚式は双方の同意でしない方向となり、オリービアとハイドは書類のみで結婚の手続きを済ませたのだ。
「だから初夜でも伯爵はその愛人のもとに行くと思って、オリービア様のベッドを整えていたんです。まさかわざわざその暴言を吐きに自分の部屋に来るなんて!! いくら容姿端麗で王国魔導士団副団長という立派な肩書きを持っていても、人としてどうかと思いますよ!?」
「あらあらニアナ、またお顔が真っ赤ですわ? もう一杯お茶を飲んで落ち着いて下さいな。――この結婚は【王命】ですので、旦那様も不本意だったのでしょう。その愛人さんと結婚したかったのかもしれませんわ。後からここへ来たわたくしは、二人の仲を邪魔しないように生活しないとですわね」
そう言ってニコリと笑うオリービアに、ニアナの両目にウルリと涙が浮かぶ。
「うぅっ、健気ですオリービア様……。けど、とんでもなくデタラメの噂の出所はどこからでしょうね? 流した張本人を思い切り蹴飛ばして肥やしの中に突っ込んであげたいですよ」
「あらあら……ふふっ、ニアナったら。まぁ大体予想はつきますが……。こちらに支障が無ければ放っておいても良いでしょう。――さて、そろそろ寝ましょうか。ニアナのお部屋はまだ用意されていないから、ここで一緒に眠りましょう?」
「やった、オリービア様と一緒に眠れる! 私、ずっとお部屋が無くてもいいです!」
「ふふっ、わたくしも久し振りにニアナと眠れて嬉しいですわ」
お茶の片付けを済ますと、オリービアとニアナはベッドの上で仲良く並んで眠りに就いた。
その翌朝、噂が“支障”となって表れることを露とも知らずに――