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無意味な感懐、稚拙で簡易な創作論、或いは愚かな小説家の死について

作者: stage

このエッセイは特定の個人又は特定の団体に向けて、若しくは脅迫、名誉棄損、侮辱、その他違法行為や規約違反の目的で書かれたものではありません。

 このエッセイを執筆するということは、ある側面においては、著者は小説家として死んでいる、という解釈をされるかもしれない。全く退廃的である、とも言われるかもしれない。私はもはや「小説家」と名乗る資格もない、そう思われてしまいそうな恐怖がある。

 現在の世の中に瀰漫しているのは、氾濫している情報たちを脳が摂取できるこの状況が、彼らにとっては殆ど受動的であるにもかかわらず、これをもって無意識のエリートを気取った冷笑と嘲笑を、そしてその薄汚い笑いさえも省察の無さから自覚できない、もはや救いようのないこの特性を、正義的や合理的であると、これすらもまた無自覚な、そういった悪辣な雰囲気である。感受性も論理性も乏しい「エリート」の出現である。似非のエリートである。しかも摂取する情報というのは、畢竟おのれの元の感情、思想、偏見如何に依るのである。現在の環境がそうするようにできあがってしまっている。人に貫徹性は無くなった、あるいは、貫徹性のある思想家の良し悪しすらも議論できなくなった、私にはそう思えてしかたがない。

 このように嘆くだけなら誰にでもできよう。他人を(あげつら)えばそれでよろしい。今から私が書き出す内容は全く無意味な感懐であることは自覚しつつも、実際に行いたいこと、即ち展望というのは、私自身の正しき涵養であって、他人などはどうでも良く、高貴じみた嘆息をすることで私自身の自尊心を満たしたいなぞ、これっぽっちも思っていない。それはまさしく私の嫌う冷笑である。つまり、私は、他人は好きにすればよろしいと、そう思っている。彼らが私に害を与えない限りは、私は何もしない。別に何かを直接説こうとも思わない。狂いたければ狂えばよろしい。踊りたければ踊ればよろしい。自由にせよ。私は心底そう思っている。

 嘆きを超えて、私自身の意見を敢えてここで例として出すならば、現実の事件・事故・出来事に対する態度である。誹謗中傷だけでなく、批判も頓珍漢である。法律や規約に違反していそうな書き込みなどを見ると、そもそも自身の発言に責任感すらないように見える。事件・事故をどれほど見たか?裁判の判決文の最後まで見たか?あなた自身は取材をしたか?少なくとも調べはしたか?調べる方法は?もし実際に事件・事故に遭ったとして相談先は?その事件を扱う上での必要な知識は何か?何を前提に意見を持っているのか?前提は常識だけか?事件・事故の被害者のことについては調べているとして容疑者又は被疑者について調べたか(公表するべきとは言っていない)?その調べとは事件・事故の概要だけで足りるのであろうか?……

 正直、現実の事件・事故・出来事に対する現在の態度は、当事者やその関係者等でない限りは、私には全く理解不能である。私は官僚的なことを好んではいないが、まだ一般の官僚の方が良心というものはあろう。そうした官僚も、そして一般人も、つまりは人間は、他人というものを理解しようとしないのであれば、実に獣になるものなのだなぁ、と思ってしまう。あの刺々しい言葉たち、それを公然と吐露していることが信じられない。学術書や論文を参考にしたり、その後の顛末を自ら調べたりしないのかしら?若しくは、調べる正しき方法も、或いは、取材の方法も、知らないのかしら?と思ってしまうのである。彼らの行っていることこそ批判的思考の軽視、科学への侮蔑であろう。1つ私の主張があるとすれば、文学も含めて、文系学問(この理系・文系の分別も行いたくはないのであるが)というのは、統計的・数学的な利用が大部分を占めている場合を除いて、「人を知る」ということを相当に重視しなければならないと思っている。これは多様性の向上を行うべきである、と言いたいわけではない。重視するべき心持ちの底流の話をしている。

 話を戻すが、私は、思想等の貫徹性の善悪を講義したいわけでもない。ただ、例えば、ある政治的主張(広義の「政治」)を匿名で行っている一般の人が居たとして、もし、1億円を受け取る代わりにその主張を捨てよ、と言われたら、その人はお金を突っぱねることができるであろうか。これは有り得ない話であるから一部の人は嘲るだろうが、物質的社会(これは物質主義が人の奥底にあることを私が肯定していると捉えられるかもしれないが、必ずしもすべてがそうであるとは思っていない)がもはや議論の余地すらない当然的なものになってしまったこの国で、個人の精神はどの程度重きを置かれているのか?情報に右往左往され朝令暮改になっていないか?若しくは、人間関係、環境、社会的構造によりあなたが普段口から発する主張は揉まれに揉まれていないか?それらは正義か?ここに、私は今特別の解答を強制したいわけでは無くて、少しでも人間の精神・心理・心情について、それは昨今叫ばれているようにみえて全く見せかけだけの主張になっているものを、それらの重要性を、一所懸命に考えて欲しいと思っているのである。そして、人の精神・心理・心情について、その重篤な問題が「他人」に真剣に向くようになって初めて小説の深い題材を得ることができるのではないか?と思うわけである(私小説等の例外は当然ある)。その捉え方や表現の方法・理論は、あなたのフィルター、持っている思想、芸術、学術、観点、文化、そういったもので変わるであろう。それは自由でよろしい。私は関知しない。繰り返すが、私はこれを備忘録的に書いているにすぎず、他人がどのように小説を書いても勝手であると思っているので、否定をしたかったらすればよろしい。無為に書くべきだと思うならばそれで構わない。無知である方がのびのびと想像の自由が効くと思うのであれば、そうすればよい。私は、止めない。

 私は敢えてここで抽象的に書いている。思案を書いている。敢えて、慎重でなく、客観的でなく、書いている。そして、この抽象的広がりが、私の大嫌いな一種の後攻的嘲笑に繋がっているように感じる。感じるだけで統計などはとっていない。そもそも定義すらしていない。しかし、抽象的意見を言って例えを出さないのは、その例えの言葉尻を捉えられるのを、私が疑懼しているからである。秋にかけて夜の始まりが早くなって、いつの間にやら自分の歩く道などは全く暗くなってしまって、躓かないように、寒さで僅かに痙攣する足を滑らしてゆく、秋のことを忘れてしまったがために生み出される暗がりの不安、或いは針子が稀に起こしてしまうような尖った針先への恐怖、そういう感覚である。

 学術書や論文でなくエッセイであるから、こうして与太を書いている。文章の繋がりも論理も何もない。こういった思考のように見える感覚的理解が、まさしく世に瀰漫しているとしか思えない。たとえ高名な学者でも門外漢ならば、専門外の知識にも中途半端であるからこそ、知識を持っているという錯覚でもって、可笑しな話を始めてしまう可能性がある。間違っても構わない。しかし、思考をやめること、文系的に言えば他人というものを理解しないようにすること、これはまさしく獣の道を辿っていると言わざるを得ない。歴史に見られる選択の失敗は、この理解と考察の欠如にあるのではないか?確信を持っては言えないけれども。

 そして、そういう偏屈な思考をしている、全く浅はかな私が、「より良い小説を書く方法」を伝えるならば、提案として2つある。

 第一は国語辞典を一冊覚えることである。ただし、助詞や助動詞等については文法等を知っているならば省略して構わない。このエッセイの流れを汲むならば、なるほど無知や無為で書く人を強く巻き込むものであり、私はそのようなことを避けてきたではないか、あるいはそれ以外の小説家でも、私が無知を冷笑していると、からかっていると、そう思われる人も居らっしゃるかもしれない。しかし、私は本気である。本気で、覚えた方がよいと思っている。というのも、単語、言葉だけは小説(極端なものは除いて)に必要であり、その広がり、豊富さは面白い(広義的に「面白い」)小説の制作のためには重要だからである。これはどうも小説の真理的部分であると、私は感覚的理解をしている。感覚的理解ではあるけれども、それ以上の真理であるとも思えてしまう。少なくとも、冷笑ではなく、小説の宿命としてそう思っている。宿命的であることは、小説という形式から分かって頂けるであろう。一語一語覚えてゆくほかない。ちなみに、私はまだ覚えきれていないし、「一冊覚える」とは全てを完全に覚えるという意味では書いていない。その辺りは緩やかである。その基準は自分自身に依るところであるが、詳細は複雑のため書かない。緩やかすぎることはない、とだけ言明しておく。

 第二は取材・学習・研究である。こちらは自身の関心事について、あるいは小説の主題・題材のため、行うことである。こちらは重要性を上記で述べたから、それについて多くは言うまい。無知や無為で書く人はこれを無視してよろしいが、しかし、どうもこの3点は現在蔑ろにされ、世の人は未知なものを曖昧なものにまでしかできていない、或いは、現在の知識の類推や感覚的理解までに留まっているように思える。これも感覚的理解である。一つ芯を持っている者の方が私個人は華やかに見える。他の人はどう思うのかは、別に各々でよろしい。方法論は、世の中の本に優れたものが多いから書かないが、学術書を読む、論文を読む、それを根気よく続ける、私は泥臭くそうしている。もっと言えば、これにも文系的、理系的なものがある。普段に対する探求における分け方である。批判を受け止める覚悟で例を書くが、例えば、身の回りのものの形成や作り方、現象の原因又は理論について知ることは理系的であり、これを日常的に行うのである。簡潔なことを書いていると思われるかもしれないが、お茶の種類とそれごとの作り方、本の作り方、動植物の種別と成長、そうしたものを見かける度に不思議に思い、調査し、調べるのである。全てではないが、私はこれを行っている。文系的なものとは、この文系分野バージョンで、事実について知ることである。特に個々人のことや出来事、読んでいる本について詳細に調べる。これについてはいつか詳しく書きたいものである。


 少ない時間で書いた。小説家はどうも執筆の手前、その準備や取材、国語力・文章力の熟成に多くの時間を割かねばならないのではないか、と思ってしまう。私は浅識なので、特にその時間が掛かってしまい、とりわけそう思ってしまうのかもしれないが。いや、そもそも上記すべてが十分でない小説を書いているであろう。

 私がここで書いたのは、あくまで私自身の感覚的理解の大雑把なものとしてであり、論理性も無く、散り散りに書いたものである。小説の為に必要なことを本心で無遠慮に書くのであれば、10万文字など優に超す。芸術的観点、学術的観点、体験的観点も書きたかった。実際の小説で論評をしたかった。が、公然と見せるために、簡単なことだけ書いた。傷つかないために殻にこもった。結果、こうなった。広い意味であっても政治的なことなど書けないのである。これは、単なる言い訳に過ぎないのであるが……。

 しかし、こうして書いてみると、私の未公開の考えであっても全く拙いと思う。世の創作論の方が絶対に優れている。様々あるから、読んでほしい。そして、作家小説家諸氏は各々の創作論を大事にしてほしい。それで構わない。私はこの文章を書いては苦しんだ。小説家としての死も覚悟した。小説家たちの矜持を思って、強く言えなかった。そう思えばこれは無意味な感懐であるように思えた。ただ、そもそもこれは創作論の為だけに書いたわけではないため、まぁいいか、来るなら来い、そう居直る私もここに居る。

 ここから最後までは胸奥の本音を書く。世の創作論の方が優れているとここでは書いた。小説も、優れたものがいくつもある。優れた小説に出会うと、私は、その小説や作者をより知りたくなるものである。そして、傑作を書きたくなるのものである。他人と比較したいわけではない。名誉の為でも金の為でもない(芸術は鑑賞者の必要があるけれども)。純粋な面白さの為である。世の中を知り尽くすために私は生きている。それが面白い。そのために小説を書いている。

 傑作は私が小説の執筆活動をする際の目標である。未だそれは生まれていない。生まれる気配すらないけれども、1億円を受け取る代わりに小説の執筆活動を捨てよ、と言われたら間違いなく断るであろう。100億でも1兆でも1京でも、必ず断る。それだけの価値がある。それだけの面白さが、ここにある。

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