第98話 8歳、無性の果実
ガタガタ...
針葉樹の森を抜けた先。
雪に覆われた巨大なカルト山脈の麓で、一台の馬車が走る。
その馬車の荷台にて、"彼女たち"と談笑していた俺はその壮大な自然を視界の端で捉えた。
「あっ景色が...」
「お、もう山脈か」
「あれ?でも、さっきまでこんな山無かったような...」
「ううん、間違ってない」
御者席からの返事。
片翼を生やした気怠げな少女の声だ。
彼女はアネット。
リビアと同じく砂鮫団とやらに所属し、その副船長を担っているという。
他にも色々聞こうとしたが、あまり多くは語らなかった。
辛うじて聞けたのは、
翼の関連で常に眠気に苛まれていること。
馬車を引いている生き物がズィゼルということ。
あと、見た目に反してかなり高齢ということだ。
「この子はある一定の距離を移動すると、その数倍の距離を瞬間的に移動できる。この感じだと...大体※15kmかな?」
※この世界の単位距離をkm換算した距離
「凄いですね...それも魔法なんですか?」
「ん〜、多分?」「ちょっと違う」
アネットの返答に別の声が被せる。
幼さの残る透き通った声...
セレネだ。
「アネット。テキトーなこと言わないで」
「あれ?違った?」
「"領域術"はただの魔法じゃない。魔法であり、魔術。魔導の果て。言わば創世の模倣」
「そうだっけ?」
領域?
どっかで聞いた...いや、見た気がする。
何処だっただろうか...?
「あの..."領域術"ってなんですか?」
「...君は、まだ知らない方がいい」
「なら、何故わざわざ僕に聞こえるように話したんですか?」
今この人は明らかに、俺に"領域術"を伝える為に話をしていた。
しかも、完全でハッキリした情報としてではなく、あやふやで概念的に。
俺はそう捉えた。
「君に知ってほしかった」
「え?さっきと言ってることが違くないですか?」
「そうだね」
その言葉はリーゼルの脳内を混乱させた。
"知るな"と"知ってほしい"。
相反するふたつの言葉と、セレネが発したその意図を、リーゼルは汲み取ることが出来なかった。
「君はアルテの一番弟子...だから、力を正しく知ってほしいの」
「?」
「"領域術"は本来、魔導の集大成でなければならない。それが中途半端ではいけないの。特に、君は異質だから正しい手順を踏ませる必要があると判断した」
ふむ。
つまり、"領域術"というのは必殺技なのか。
それなら確かに、中途半端で会得したら勿体ない気がする。
「...では、なぜ"知ってほしい"と?」
「今後何が起きるか分からない。最低限、概念だけでも頭に入れてほしいと思った」
「ですが、それだけでは対処のしようがないのでは?」
「...その時になれば分かる」
んー...
少し釈然としないが、この人が言うならきっとそうなのだろう。
"記憶"のせいか意外と自然に、そう納得できた。
「...それだけ敵は強い、という認識で大丈夫ですか?」
セレネは静かに頷く。
「少なくとも、大天使級...さっき君が戦った奴より遥かに強いのが関連している。それじゃなくても、厄介な相手との戦闘は必至だろうね」
分かってはいたが、神々というのは人類より遥かに強い戦力を有しているのは確かなようだ。
"大天使級"というのがどの程度の強さかは分からないが、"神"という単語が入ってないあたりそれでも中堅程度なのだろう。
...と、そんなことは正直今はどうでもいい。
俺が気になっている事は別にある。
「...もう一つ、聞いても?」
「ん。答えられる範囲なら」
「じゃあ教えてください。なぜ、お母様が狙われてたんですか?」
その問いに、セレネは考える素振りを見せ、やがて口を開いた。
「...例えば、空腹の時、そこに※スィレの樹があって、高い位置に実がなってたとする。届きそうで届かない。そんな時、ツヤがあって発色の綺麗な果実が目の前に落ちてきたら...君はどうする?」
※ルロ(バラ)科スィレ属の落葉高木。前世で言う林檎的立ち位置。
セレネは近くの箱に手を伸ばし、そこから赤い果実を手に握る。
口紅のように真っ赤でツヤがある...きっと食べ頃だろう。
「...?」
「どうする?」
「えっと...食べるんじゃないですか?」
「それと同じ」
「え?」
「これは憶測でしかないけど...私は、ただの偶然なんじゃないかと思ってる。目の前に熟れた果実が落ちるが如く、偶然そこにリーニャが居た。処女で、魔女で、強力な魔眼を持った存在が...」
"偶然"か...
ありきたりだが、変に理由を付けるより納得できる。
もっとも、そんなことで母を失うとは思いたくないがな。
処女。
魔女。
魔眼...。
奴らは一体何を...
───ん?
「処女...?」
「...あ」
"処女"
それは「未婚の女性」「性交経験のない女性」を指す言葉だ。
...だとしたら、おかしい。
俺には生まれる時の記憶があるのに、リーニャは処女...そんなこと有り得るのか?
「...ん?なんだ新入り、知らなかったのか?」
「初耳ですよ!...正直、頭がついてきません」
...ガタン!
そんな時、俺の思考を遮るように荷車が大きく揺れる。
「...先生、着いたよ」
その声に皆が一斉に外を見る。
広大な森の中、突如現れた巨大で堅牢な石の壁。
所々にある粗雑な修復痕からは、これまで数多の敵を食い止めてきたであろうことが見て取れた。
「..."そのこと"については後で話す。今は降りる準備をして」
...こうして俺は街に着いた。
頭にモヤモヤを抱えたまま───。




