第103話 8歳、白銀の山嶽
「はぁ、はぁ...」
冷たい空気が俺の喉を刺す。
少し前から手足の感覚はない。
視界不良。
負傷者一名。
敵複数。
まさに絶体絶命。
それが街に着く前に起きるなんて、俺は想像もしていなかった。
...ことの始まりは少し前に遡る────
───冒頭より3時間前。
出立より9時間。
ハーウィアル北方、ヘイヴル地方にて。
...ガタッ
広大な樹林を抜けた先、巨大な山脈の麓で3台の牛車が止まる。
それぞれに人が乗っており、2番目の車にリーゼルの姿があった。
その車には他に2人...トレスとヴィーシャの姿もあった。
「...どうかしたんですか?」
「アネットの模倣天使の領域が解けたみたいだ。ここからは通常移動ってことだね」
「なんでわざわざ...」
「領域も万能とはいかない。ある程度の制約がないと成り立たないのだよ」
「案外不便なんですね」
「あぁ...しかし困ったね。この時期の山越えは厳しいぞ。最悪、遭難も有りうる」
「迂回はできないんでしょうか?」
「できなくはない。だが、期限に間に合わなくなる。...覚悟した方がいい。この山脈は今くらいの時期から───」
コォォォ...
グリウ山脈の中腹辺り。
すぐ前方が霞んで見える程の豪雪が、3台の牛車を襲っていた。
「す、すごい吹雪ですね...」
「あぁ流石に堪えるね。ヴィーシャ、寒くないかい?」
「問題ありません。ルペドナ様のおかげで雪がこちらまで降りませんので」
たしかに、さっきから牛車を避けるよう雪が降ってこない。
こっちから見ると逆スノードームって感じだ。
まさか、これをあの人が...?
もしこれが雪そのものに作用してるなら、脳にかかる負荷は想像を絶するものだ。
俺がやろうものなら、目や鼻から血が流れ出て卒倒するだろう。
「...しかし、それでも寒いですね」
「ここに住む生物ですら多くが凍死するぐらいだからね。そう感じるのも無理はない。...ん、止まってるよ?」
「あっ、すみません」
トレスに指摘され、俺は再度感覚を研ぎ澄ます。
体内に流れる魔力と周囲を満たす魔力。
糸を紡ぐように、その双方を同時に同程度で操る───。
それには実に繊細な魔力操作を要する。
今まで荒削りで魔力を行使してきた俺には、大変難しい分野だ。
トレスが教えると言ったので同乗させてもらったが...
流石に、そんなに甘くはなかった。
...ッ───。
(...ん?)
今、魔力が揺らいだ気が...
ルペドナが雪を避けてるせいか?
でも、今まで一切乱れが無かったのに、急に乱れるものなのだろうか?
それに、他のメンバーが魔力を操作した感じもない。
...念の為、トレスに伝えておくか。
「...トレスさん、今───」
『!?』
「伏せろ!!!」
ガダッ!
...ズドォォォォ!!!
その瞬間、俺はトレスに肩を掴まれ、荷車の床に押さえつけられる。
そして間も無く、視界は白い暗闇に閉ざされた。
────ズゥッ
「...ッ!?ゴホッ、ごホッ...」
「目覚めたか。気分はどうかな?」
「...最悪です」
「奇遇だね。私もだよ」
俺の顔を覗くように、トレスが俺を見下ろす。
どうやら、雪で窒息していたところを助けてくれたようだ。
俺は周囲を見渡す。
そこは岩石で囲まれた洞穴であるようで、乗っていた荷車は見当たらない。
俺のすぐ隣にはヴィーシャの姿があったが、息が絶え絶えである。
そんなヴィーシャの腹部には"つらら"が刺さっており、その傷口付近には血が冷えて固まっていた。
状況から察するに、彼女は襲撃をもろに喰らってしまったのだろう。
「一体、何が起きたんですか...?」
「"霊域"に呑まれたみたいでね。他の皆と分断されてしまったようだ」
「霊域?」
「あぁ、今は"領域"と同じと捉えてくれて構わない。問題はそこじゃないからね」
「何か不味いんですか?」
「そうだね。危機的状況と言っても過言じゃない」
トレスが横たわるヴィーシャを見る。
さっきより更に身体が凍えているようだった。
「申し訳ありません...。私が魔女であるばかりに見捨てる選択を...」
スッ…
トレスは口を開いたヴィーシャの唇に指先を添え、静かにするように促す。
ヴィーシャは今にも泣きそうな顔をしながら、その口と瞼を閉じた。
「...さて、話を戻そう。今回の問題は主に二つ。一つは"霊域"が私たちの魔力操作を妨害すること。君も薄々勘づいているんじゃないかな」
...なるほど。
道理で俺の探知が安定しない訳だ。
牛車で魔力の揺らぎを感じたのも、"霊域"のせいだとすれば合点がいく。
「もう一つは───ッ!?」
「あっ!ちょっ...」
スッ───!
トレスが二つ目の問題を言おうとした瞬間───。
彼女は何かに気付き、洞穴の入口に視線を向けた。
そして咄嗟に近くにあった武器...リーゼルの短剣を引き抜き、吹雪の向こうに投げ飛ばした。
「何するんですか!?僕の武器が...」
「...奴らに気付かれた。移動するよ」
「"奴ら"って...天使のことですか?」
「少し違う。今回のは"精霊"だよ」
「"精霊"...」
「詳しいことは後で話そう。今はとにかく、この場所を離れなければ...」
トレスは、ヴィーシャと辛うじて残っていた物資を全て"植物"で絡め取り、足早に洞穴を出る。
俺は少しでも寒さを遮るため全身を木の葉で包み、トレスの後ろについた。
ゴォォォ...
降雪は更に強まっており、既に一寸先が白く濁って見える程になってきた。
俺はトレスから伸びた蔓の一本を掴み、雪に足を取られないよう慎重に、かつ急いでトレスの後ろに続く。
...というか、この人速すぎないか?
とても雪道を進んでいるようには見えない。
「あの、さっきの続きを聞いても...?」
「あぁ。...とは言っても、私も詳しくは分からないがね」
「そうなんですか?」
「精霊は神にも人にも属さない。そして、滅多にその存在も観測できない。だから───ッ!」
「あっ!また僕の...」
シュバッッ!!!
トレスがまたもやリーゼルの短剣を引き抜き、白銀の空に向かって一閃。
それは、とても美しい太刀筋であった。
「分身体か...。おっと、すまない。コレ返すよ」
「ふぅ...奇跡的に見つけたのに、また投げられるのかと思いました」
「私を何だと思ってるのかな?...それより、早く構えた方がいいよ」
「言われずとも構えてます...」
「それと、一つ言い忘れていたよ。"問題"の二つ目...」
ゴオォォォ...
吹雪が更に強まる。
内蔵が凍えるほどに冷たい風が吹きつける。
そして、その先に何か大きな気配を感じた。
「...敵は複数存在している」
────ッ
突如、一瞬だけ轟々と吹き荒れていた吹雪が止む。
その刹那、感じていた大きな気配の正体が顕になった。
「...来るよ」
サッ...
ズゴォォォォ!!!
巨大な氷塊が天から落ちる。
その衝撃は地を揺らし、降り積もる雪を散らした。
コォォォ...
それも束の間、またも吹雪が視界を妨げる。
...だが、確かに見えた。
少なくとも3体。
人の形をした、"精霊"の姿を...
─"霊域"─
掌握する領域"領域"でも、隔絶する領域"神域"でもない、第3の領域。
その概要は"拡張する領域"。
精霊が自身のルーツがある場所で強くなる特性。
霊域はこれを最大限に引き出す、まさに"精霊の領域"である。




