巫女とスライム
この町に、黒教徒と呼ばれる殺戮集団の声明が発表されたのは昨日のことだった。彼らは崇める神への供物として、各地から無差別に女子供を集めている。私が長い旅から故郷であるこの町に戻ったその日に起こった激震。ちょうど町長宅で、長きに渡り留守の我が家を管理してくれた礼をしていた時に、その矢文は届いたのだった。
『明日、神聖なる漆黒の灯火のため、黒猫に供物を託されよ』
町長の顔はみるみるうちに悪くなった。大抵、街一つにつき必要とされるのは三人。責任感の強いこの町長は、彼の愛娘達二人を捧げる覚悟らしい。もう一人はどうやって確保するのだろうか。
私にも娘がいる。手紙一枚届かないが、それこそが達者の便りというものだろう。そう信じるしかない。と同時に、ある一人の少年について思いを馳せた。
彼、ジェイドは私の娘よりも四歳年上で、彼が五歳の時に隣へ越してきた。初めは、いずれ娘の良い遊び相手になるだろうと思って、会う度に声をかけていた。彼は娘とも遊ぶことはあったが、私に話しかけてくることの方が圧倒的に多かったと思う。大抵は彼が憧れる魔物、ソイルライムの話。通常は土の中に住んでいて、攻撃しない限りは無害なスライムの一種だが、人に寄生することがあるという。一方、娘は十五歳の時に王都の魔法学校へ入学し、そのまま史上最年少で宮廷魔術師になった。その間、彼はいつの間にか町から姿を消していたし、私も少し思うところがあって旅に出た。
ジェイド。お前はもう帰ってこないのか。
私は久しぶりの我が家に入ると、窓を開けてキッチン横のカウチに寝そべった。紅茶を飲みながら、空が夕闇に染まっていくのを眺める。黒教徒の声明が外れたことはないと聞くが、私にできることなんて何も無い。
すっかり暗くなった。
私がここに戻ろうと思ったのは、ほんの思いつき。何となくそろそろ戻らなければという予感がしたからだ。
私は窓を閉めた。その時、家のドアをノックする音が響く。私は左手で中級魔法の術式を組み、ドアノブには右手をかけた。
「久しぶりだな」
「驚かないんだな」
「驚いてほしかったのかい? 五歳にもなって他所の家でおねしょしたガキなんて、お前ぐらいだよ。そうそう顔は忘れられないね」
「ちっ」
「まだボケるには早い歳だからな。で、どうしたんだい、黒猫さんよ?」
夜に溶けてしまいそうな黒のマントを纏い、二つの尖った三角の角がついた帽子を被っている。世間一般に言われている、黒教徒の牙である『黒猫』の特徴だ。人懐っこく猫のように擦り寄ってきたかと思うと、その爪で数多の人を切り裂き、辺りを血の海に変えてしまうという死に神。
けれど、その目深にかぶった帽子から覗く銀髪と、いつも不満そうに見える目つきの悪さ。加えて、指を擦り合わせながら視線を左右に振る癖は、あまりに見覚えのあるもので。
「立ち話もなんだし、中に入りな」
「いいのか? 俺は」
「今更だな。昔は断りもなしに入り込んでは、私の服の匂いを嗅いでた癖に」
ジェイドは顔を真っ赤にすると何か言いたげに口を大きく開けたが、すぐに家の中に入ってきた。それを私は笑顔で迎える。
「お茶でも飲む?」
「いや、いい。急いでるんだ」
そうは言いながらも、私が飲み残した紅茶を一気飲みし、濡れた口元をマントで拭った。
「あぁ、明日は仕事なんだって?」
やはり、探りを入れたかった。私には分かる。たぶんジェイドは好きで黒猫になったわけじゃない。彼は俯いたので、その表情は見えなくなった。
「そう。最後の仕事」
「ようやくかい」
「そう。ようやくだ」
ジェイドの影がゆらりと揺れる。
「だから、ダリア。俺を祓ってほしい。持ってるんだろう?」
「祓うって……もしかして、岩塩のことかい?」
私は北の国に行って、巫女の修行を重ねていた。かの国では、悪霊や悪魔を祓うのに、聖域にある塩湖で採れた岩塩を使う。私はいつも小袋に入れて腰から下げていたし、今もそうだ。
「お前、まさか悪魔と契約したのか」
肯定を表す無言。私もすぐには次の言葉が出なかった。
「黒猫は他にもいる。皆黒教徒の上の奴らに唆されて、悪魔に魂を売って強くなったんだ。だから、この負の連鎖を断ち切るには岩塩しかない」
「お前、そんなことを私にバラしたら」
「俺は、悪魔と契約したら、あんたのものになれるって思ってた。どんな願いでも叶うって言われてたんだよ」
「は?」
「好きだったんたよ。あんたの娘のよりも、あんたのことが! 知らなかったのはあんただけだ。どうせ娘からは音沙汰無いんだろ? あの子は俺に告白してきたんだ。もちろん、正直に気持ちを話したけど」
「馬鹿!」
頭の中がめちゃくちゃだった。修行したから、そうそうのことでは取り乱したりしない自信があったのに。
「俺はもうすぐ、自分の中にある悪魔に完全に食われてしまう。だからその前に、俺はあんたに殺されたい」
「血迷ったこと言うな! ちゃんと死なないように祓ってやるから!」
「ありがとな。でも、後悔してないよ。俺は悪魔になったからこそ、最後の最後に欲しい女の一部になれるんだ」
巫女は悪魔を祓うと、その邪悪な力の一部を聖なる力に変換して自分のものにできると言われている。だから、経験を積めば積む程巫女は力をつけていく。でも、私はジェイドを使って強くなんてなりたくない。
「早く。もう始まってる」
突然ジェイドは黒い煙を吐き始めた。これは、彼の身体がいよいよ悪魔に乗っ取られる前兆。もう、やるしかなかった。
「ジェイド!」
慣れた手付きで、小袋から取り出した岩塩を振り撒く。私がステップを踏むと、清めのスパークルがジェイドを包んでいく。最後に、巫女修行の師匠から授けられた特別の術式を両手で構築し、そのキラキラと黄金色に光る魔法陣を彼に向かって叩きつけた。
できることは、終わった。
「ダリア、好きだよ」
ジェイドの身体が足元から消えていく。人間として終わらせてあげたかったのに、間に合わなかったのだろうか。
「ほんと、今更だよ」
「あぁ、初めからこうすれば良かったのかも」
「ジェイド」
私は肩で息をしながら、真っ赤に泣き腫らした目を擦った。せめて、彼の最後をこの目に焼き付けたくて。
「ダリア、ありがとう。これを」
ジェイドが最後の力を振り絞って、マントの中から何かを取り出す。白銀色の円形のもの。
「ジェイド!!」
ジェイドの下半身が消えて、その後は頭と何かを差し出した腕だけが残り、最後は手だけが残った。そして、ジェイドは消えた。その瞬間、カランカランと音を立てて床の上に落ちたもの。
「まだ持ってたの」
ソイルライムの魔石だった。大昔、私が彼の誕生日にあげたもの。
拾い上げて、無意識に唇へそれを寄せる。冷たい感触からじわりと生温かいものがこの身に流れた。これは聖なる力。そして、密やかな願い。
「ごめん。私もずっと好きだったんだ」
私の涙が一滴、魔石の上にポタリと落ちた。その瞬間、魔石は私の掌の中で急激に質量を増したかと思うと、その下方からたくさんの触手が伸びて、縦横無尽に動き出した。ソイルライムが、銀色に艶めく。まるでジェイドの髪のように。
私は、音も立てずに笑った。
「こんなオバサンでもいいなら、ついておいで。そしたらもう、離してあげないから」
その後、私が聖なる巫女として国中を駆け巡り、黒教徒を殲滅し終えたのは三年後。その間、そしてそれ以後も私といつも一緒にいたのは、相棒である一匹のソイルライムなのである。
マグネット!の短編コンテスト向けに書いた作品で、あちらのサイトでは三千字以内になるように調整してあります。
趣味全開の物語をここまでお読みくださり、どうもありがとうございました!