永遠を希う
「あんたは可哀想な人だな」
まどろむ私の髪をやけに優しく撫でながら、その男は言った。目を開けると、私と向かい合って横たわっている男の顔が目に入る。男は、昨夜の激情が嘘のように、優しい目で私を見ていた。
「私が可哀想? 一体何故」
私は笑った。男が滑稽に思えたからだ。可哀想なのは私ではない。おまえだよ、刺領巾。おまえは今日、私に騙されて死ぬのだから。
*
私、瑞齒別には二人の兄がいる。長兄は去来穂別王子、そして次兄が墨江中王子。
その偉大な業績から聖王と讃えられた父、大鷦鷯大王が崩じた後、次兄、墨江は太子たる長兄、去来穂別に叛いた。長兄、去来穂別の妃となるはずだった姫を奪い、あまつさえ去来穂別をその宮ごと焼き殺そうとしたのだ。
命からがら逃れた去来穂別の許へ、私はすぐに馳せ参じた。けれど、兄は私に会ってはくれなかった。
彼は従者を介して私に言った。弟である墨江が叛いた今、同じく弟である私のこともどうして信じられようか、と。
二心などないと、私は言葉を尽くして愛する兄に訴えた。
ならばそれを証明してみせよと兄は言う。即ち、墨江の首を取ってこい、と。さすればこの門を開き、受け入れてやろう、と。私は、頷くしかなかった。
「しかしそれで本当に良いのですか? 瑞齒別王子」
墨江を討つべく、浪速へ向かう途中、平群木兎宿禰が私に問うた。
「これで良いのか、とは?」
質問を質問で返す。
「恐れながら、あなたは去来穂別王子の弟君であらせられます。つまり、墨江と全く同じ立場。去来穂別王子のために墨江を殺したところで……」
「私が次の墨江になるだけだ、と?」
「ええ。率直に申しまして、去来穂別王子は人間味に欠けるところがおありだ。あの方は情というものをお持ちではない」
「そうだな。去来穂別の兄上の婚約者たる姫も、それを感じ取ったからこそ、墨江の手を取ったのかもしれない。自分を政略の駒としてしか見ない男よりも、自分を得るために命をかけて実の兄に叛いてくれる男のほうが、数段魅力的に映ったのだろうよ」
そう言って笑った私を、木兎が非難がましい目で見てくる。
そんな木兎に、わかってるよ、と返す。
「わかってるよ。ことはそんな感傷的な恋物語ではない。姫は単なる引き金に過ぎぬ。どこまでも対照的なあの二人は、姫のことがなくとも、いずれ王位を巡って刃を交えることになっただろう。そして私は、去来穂別の兄上に味方して、墨江を殺す。
何故かは分からないが、私はあの冷たい兄上が昔から好きでね。それこそ感傷的な兄弟愛の物語だ。兄上には決して死んでほしくない。そのためなら何でもするさ。自分の身を汚したって構わない」
「ご自分の身を?」
私はそれ以上は何も答えず、ただ、考えがある、とだけ言った。
それからは、さして多く会話を交わすこともなく、私たちは浪速へと駒を進めた。
こういった言い方は不遜に聞こえるかもしれないが、私は自分の容姿が人より優れていることを知っている。
そして、それは時として強力な武器にもなり得るということも。
浪速へ着いてすぐ、私は隼人の長にして墨江の側近である刺領巾に会いに行った。
墨江の邸に詰めている彼の許を、真夜中に和平の使者だと言ってたった一人で訪った私を、困惑しつつも彼は自分の部屋へと招いた。
人払いがされ、刺領巾と二人きりの暗い部屋の中で、自分が着ていた衣を与え、彼に私はこう言った。
私のために、主君、墨江を殺してくれないか、と。
軍勢で劣る私が墨江を殺すための「考え」とはこれだった。
私は知っていた。墨江に影のように付き従うこの男が、宮中で私とすれ違うたび、じっと私を見ていたことを。そして、その視線が示すものを。
「あんたのために、墨江さまを殺せだって? 随分と馬鹿げたことを言う」
誇り高い隼人の男は、私の言葉を鼻で笑った。
「墨江を殺してくれたら、私は必ずおまえに厚く報いよう。
金銀財宝も、それから、おまえが望むなら大臣の位だってくれてやる」
「卑しい隼人の俺が大臣か? まるで夢物語だな」
相変わらず、刺領巾は嘲笑をやめない。
「そうだ、夢物語だ。けれど今おまえは、それを掴める立場にいる」
「なるほど、悪くない。だが」
刺領巾が身を乗り出した。
彼の浅黒く逞しい手が、私の肩を掴む。
「生憎、俺には金銀財宝よりも大臣の位よりも欲しいものがあるんだ」
私を腕の中に捕らえた男は、私が思った通り、欲を孕んだ目で私を見ていた。
「もちろん、それもくれてやる。おまえが私の望みを叶えてくれるなら」
私は、目を閉じて彼に身を委ねた。ごくり、と男が喉を鳴らす音が聞こえた。
翌日、私は一人残された部屋の中で、気怠い身体を引きずりながら、事が成るのを待っていた。まもなく日が中天に差し掛かろうかという頃、足音も荒く部屋の主が戻ってきた。
「望みのものを持って来たぞ」
そう言って、刺領巾は布に包まれた丸い物体を私に投げてよこした。
元は白かったと思われる布は、赤黒く染まっている。布を剥ぐと、苦悶の表情を浮かべた次兄の顔が現れた。
いつも颯爽としていて、海の男共をはじめ、皆に慕われていた次兄、墨江。彼は私の奸計に嵌まり、腹心の部下に裏切られ、今、私の前に首だけの姿を晒している。
「随分と冷静だな。もっと怯えてくれたら、それはそれで可愛いんだが」
「冗談を。望みのものを前にして、何を怯える?」
「あんたも業が深いな。卑しい隼人に抱かれてまで、実の兄の首を望むとは。……そんなに、去来穂別が好きか?」
びくり、と身体が震えるのを、私は止める事ができなかった。
「どうして、そんなことを?」
「気づかないわけがないだろう。俺はずっとあんたを見てたんだ」
刺領巾が私を見つめる。
何故、そんな目で私を見る。おまえはただ、報賞として私の身体を望んだだけではなかったのか。
「……望みのものは手に入った。都へ向かうぞ。ついて来い」
切なく私を射抜く視線から逃れるように、私はそう言って立ち上がり、彼に背を向けた。
私と刺領巾、それから木兎宿禰を始めとした臣下達は、大坂の山口にある宮へ入った。
ここで一旦休息を取る。そして明日の夜に酒宴を催し、その席で刺領巾に大臣の位を授ける手筈となっている。
皆が寝静まった後、私は部屋に刺領巾を招き、酒を酌み交わしていた。刺領巾の杯に、静かに酒を注ぐ。刺領巾はそれを飲み干した後、一拍置いてくすりと笑った。
「何だ?」
「いいや。どうやら毒は入っていないようだな」
そう言って刺領巾はなおも笑う。
「意味が分からないな。大功あるおまえにどうして私がそんなことを?」
刺領巾の言葉を、私はそう言って笑い飛ばした。笑いながら、そっと刺領巾の表情を伺う。一瞬顔が引きつったのを、彼に悟られはしなかっただろうか。
「それよりも、明日いよいよおまえに大臣の位を授ける。どうだ嬉しいか?」
「そうだな。俺は別に大臣の位が欲しかったわけじゃないんだが」
刺領巾が静かに杯を置く。そして私のほうへにじり寄り、肩を抱いた。
「いいだろ? 墨江さまを殺した報賞が、まさかあの一回だけということはあるまい」
行為の最中、私は思わず自分の顔を手で覆った。その手を、刺領巾が強引にどかす。荒い息を頬に感じた。
「やめろ」
彼の息がかかった顔が、彼の手や舌が触れた身体が、そして今、彼と繋がっているあの部分がたまらなく熱い。今の私の顔は汗や涙でぐちゃぐちゃで、きっとみっともなく崩れている。
なのに彼は、私の顔を覗き込んで微笑むのだ。
「綺麗だ」
そんなはずはないのに。悪態の一つでもついてやろうと開いた口からは、持ち主である私の意志に反して、途切れ途切れの吐息しか出てこない。
「っ……さしひれ……」
やっとの思いで出した、かろうじて意味のある言葉は、自分でも嫌になるくらい舌足らずで、媚びた色を含んでいた。
彼の動きがより一層激しくなる。それに耐えるように私は彼の逞しい背中に手を回し、爪を立てた。
私が彼の激情から解放されたのは、明け方近くになってからだった。
終わった後、気絶するように眠りに落ちた私が目を覚ますと、目の前に刺領巾の顔があった。どうやら私は彼の腕枕で眠っていたらしい。
「目覚めたのか」
穏やかな声でそう言いながら、腕枕をしているのとは反対の手で、刺領巾が私の髪を梳くように撫でる。それが心地よくて、私はもう一度目を閉じた。
「あんたは可哀想な人だな」
まどろむ私の髪をやけに優しく撫でながら、その男は言った。
目を開けると、刺領巾の彫りの深い精悍な顔が目に入る。
彼は、昨夜の激情が嘘のように、優しい目で私を見ていた。
「私が可哀想? 一体何故」
私は笑った。彼が滑稽に思えたからだ。可哀想なのは私ではない。おまえだよ、刺領巾。おまえは今日、私に騙されて死ぬのだから。
「可哀想だよ。愛しの兄上に認められたい一心で、汚い仕事に手を染めて、俺に身体を売った」
「私が自ら望んでしたことだ」
むきになって反論した。けれど、刺領巾はそれが耳に入らなかったかのように、声音を変えず、優しい口調で言葉を続けた。
「そして今度は、その手を血に染めるんだろう?」
「何を……何が、言いたい?」
刺領巾は笑った。諦観した笑みだった。
「おそらく俺は、明日まで生きてはいるまい。
まあ俺は、あんたの色香に迷って主君を殺した大馬鹿だが、大臣にしてくれるっていう甘言を信じるほどおめでたくはないぞ。
あんたは今日、何だかんだもっともらしい理由を付けて俺を殺すつもりだろう?」
「おまえ、全て分かっていて……」
全て分かっていて、私の奸計に乗ったのか? たった二度、私を抱く、そのためだけに。
殺すなどという物騒な会話にもかかわらず、相変わらず私の髪を撫でる彼の手は優しい。
「あんた達王族はその昔、天から舞い降りた神の子孫らしいな。
そんなお伽話、端から信じちゃいなかったが、あんたを始めてみたとき、少しだけ、信じたいような気になったんだ。
そのときも、今も、あんたは綺麗だ。まさに天から舞い降りた天人だと思ったよ」
「馬鹿馬鹿しい」
冷たく吐き捨てたつもりだった。
けれど、こみ上げてくるものに耐えきれず、語尾が震えた。
馬鹿馬鹿しい。何が天人だ。どこの世界に、自分をこれほどまでに想ってくれる人を奸計に嵌めて殺す天人がいる?
だけど、刺領巾は相変わらず笑ったままなのだ。
「焦がれ続けたあんたを抱けた。そしてあんたは泣いてくれた。その代償としたら俺の命なんか、安いもんだ。
今夜はちゃんと俺を殺してくれよ。
そして、胸を張って去来穂別のところへ行け。きっと、受け入れてくれるから」
私は何も言わず、自分から刺領巾の胸にすがった。口を開けば私はきっと、言ってはならないことを言ってしまうから。
そして来る宴の夜。大臣としての正装に身を包んだ刺領巾が持つ、顔を覆うほどの大きな杯に、同じく正装をした私は酒を注いだ。
「さあ、飲まれよ、新大臣。王子たる私からの祝いの酒だ」
私の言葉に従い、刺領巾が杯に口をつける。その様子を、居並んだ臣下達が下座から身じろぎもせず見つめている。
大きな杯が刺領巾の顔を覆ったその瞬間、私は刀を抜いた。
せめて、苦しませずに。
私が振るった白刃は真直ぐに彼へと向かい、その首に届いた。
転がった彼の首を拾い、臣下達に示す。
「この者は我々にとって大功はあれど、主君を騙し殺した不忠者である。よって私が自ら誅した」
私のこの言葉に、異を唱える者は誰もいなかった。
私は腕の中の首を見つめた。同じく首だけになった墨江は、苦悶の表情で私を睨んでいた。
なのに刺領巾、おまえは首だけになっても私に微笑むのか。
私の腕の中に収まった彼は、まるで世界中の幸福を手に入れたとでも言わんばかりの表情を浮かべていた。
「我が大王よ」
兄上の宮へと戻った私はようやく謁見を許され、玉座の兄へ跪いた。
「大王のご所望の品をお持ちいたしました」
そう言って私が差し出した墨江の首を、兄上は無感動な表情で見ている。
「これはそなたが自ら為したことか」
「いいえ。しかし、下手人のほうも既に始末しております」
「そうか。その者の首は?」
「下賎の者の首など、大王のお目にかけるまでもありますまい」
「無論である。始末したならばそれで良い。
して、瑞齒別よ。この大役の報いに、そなたは私に何を求める?」
相変わらず感情の見えない平坦な兄上の声に、私も、兼ねてから用意していた答えを澱みなく告げる。
「畏れながら大王。私も大王と同じ血を持つ王族でございます。なれば、日嗣の位をいただきとうございます」
私の言葉を受けて、兄上は得心がいったというように笑った。
「成る程な。構わぬ。私の後はそなたに譲ろう。私の忠実なる弟、瑞齒別よ」
「有り難き幸せ」
私は平伏した。
ああそうだ。あなたは、そういう人だ。私はあなたの役に立ちたい一心で自らの身を、手を、汚した。
見返りなど何もいらない。
けれど、そんな言葉を信じるような心をあなたは持ってはいない。無償の愛など信じない。私が愛したあなたは、そういう人だ。
新しく宛てがわれた私の宮の庭に、刺領巾の首を埋めた。側仕えを全て退がらせた後、私は一人きり、その庭を眺める。
望みのものは手に入れたはずだった。愛する兄上の側にいられること。それさえ手にできれば私は、何もいらないはずだった。
なのに私は、刺領巾の首をこんなに自分に近いところに留めた。
兄上の隣に侍り、ともに国を治める。
夢見た幸福の日々に、それでも私は、一人でこの庭を眺めて、毎夜彼を想うのだろう。私を天人だと言った、あの優しい隼人の男に抱かれた二度の夜を思い出すのだろう。
そして、あの日言えなかった言葉を心の中で繰り返す。
世界よ、今すぐ滅びてしまえ。
そうすればおまえとの夜が永遠になるのに。
ああ、あの姫も、そうなのだろうか。
墨江と袖を交わしながら、何事もなかったかのように兄上の妃に納まったあの姫も、兄上の腕の中で、想い続けるのだろうか。かつて自分を奪い、鈴を枕辺に残して消えた、向こう見ずで、けれども魅力的な墨江という王子のことを。
古代日本が舞台という以上、いきなり小難しい名前が説明もなくバンバン出てくる不親切設計で申し訳ないです……
ちなみに瑞齒別こと後の反正天皇は日本書紀に「実績は特にないけど容姿美麗で歯並び良かったよ」と書かれている、いわば公式設定のイケメンでして、イケメンが使用済みの服を与える……!?うおおおお!!ということで、こういう話を書いてしまいました。反省はしているが後悔はしていないです。
もっとも、反正天皇は古事記には身長3メートルくらいあったとか書かれているのですが、その辺はまあ、何となく脳内修正して読んでいただければと思います。ほら、彼が3メートルあっても刺領巾が3メートル50センチあったら何の問題もないよね!