3 退院
「うん、この調子なら退院しても大丈夫そうだね」
「本当ですか!」
「明日には病院を出てもいいよ」
「ありがとうございます!」
あれから一週間。朱堂先生や白ちゃんの介護の甲斐あって、激しい運動は無理でも日常生活に支障のない程度には体を動かすことができるようになった。
部屋も三日目には集中治療室みたいなところから移動して一般病棟。一人部屋で随分高そうな部屋だけど、どうやらお金は私を助けてくれた流さんが払ってくれているらしい。
あの人、一体何者なんだろう。
「良かったです!」
「白ちゃんがいてくれたおかげだよ」
そう言って白ちゃんの頭を撫でると気持ちよさそうに体をくねらせた。
式に性別の概念はないらしいけど、白ちゃんは間違いなく女の子だ。概念がないだけで、誰の式も女っぽいとか男っぽいとかあるし。
例えば、
「希望様。お食事をお持ちしました」
朱堂先生と入れ違いに部屋に入ってきたこの女性。看護服を着こなし、めちゃめちゃナイスバディで誰もが振り返るような美人だ。
名前は葵。朱堂先生の式だ。美人なのは先生の趣味なんだとか。
「今日は何ですか?」
「本日はグラタンです」
それだけ告げると、葵さんは机に料理を置くとニコリともせずに出て行ってしまった。
いや、私には白ちゃんがいるし、寂しくはないんだけど。
「相変わらずですねー」
ぼやく白ちゃんに私は苦笑いをした。
流石に一週間も世話をしてもらっていて、一度も笑顔を見たことがないって……もしかして葵さんに嫌われてるのかな。
私は何か変な事をしなかったか思い出しながらグラタンを食べた。
***
ご飯を食べ終わりお皿を片付けた後、私は白ちゃんと一緒に部屋の荷物を片付けていた。片付けると言っても、持ち物はおろか裸で倒れていたらしいので、病院に来てから流さんが買ってくれた物しかないのだが。
「流さんって何者なんだろうね?」
隣でベッドメイキングをしている白ちゃんがこちらを振り向いた。
「私からは何とも……」
「やっぱり教えてくれないか」
「すみません……」
白ちゃんは流さんの正体を知っているみたいだけど、何度聞いても反応はこんな感じだ。
流さんは私が入院している間も何度か尋ねてきてくれて、その度に何かしらを買ってきてくれた。どうして身元も分からない私にこんなにも良くしてくれているのかは全然分からないけど、ありがたい限りだ。
と、
ガサガサ ドン
白ちゃんが急にベッドの後ろに隠れてしまった。
「どうしたの?」
そっと近寄って白ちゃんを抱きかかえようと、
「希望」
部屋の入口から声が聞こえてきた。
手を伸ばした不自然な格好で振り返ると、そこには流さんが立っていた。いつものように黒い袴に臙脂色の羽織を着ている。男性にしては長い黒髪が臙脂に良く映える。
初めて会ったときからそうだが、白ちゃんは流さんを怖がる。悪い人ではないのに、反射的に隠れてしまうくらい怖いらしい。彼について教えてくれないのもそれが原因なんじゃないかと私は見ている。
「流さん! どうしたんですか?」
でも白ちゃんには悪いが私は流さんが好きだ。ドアに凭れかかる流さんの元へ駆ける。
「晃に退院が決まったと聞いてな。急いで迎えに来たんだ」
「迎え?」
頭を撫でてくれるから自然と目が細まる。何だか優しいお兄ちゃんを持ったような気分だ。
「何も思い出さないんだから、帰る家も分からないだろ。だから俺の家に来たらどうかと思ってな」
「ああ、そういえば」
「忘れてたのか……」
呆れたような顔をする流さんに苦笑いをする。
私の記憶は、思い出すことはおろか、忘れているのが正しいかのように頭がクリアになっていた。最初に記憶喪失だと気付いたときはパニックになったけど、今ではそんな気配すらない。
思い出しかけたら頭痛とかがするらしいけど、頭痛の「ず」の字もない。
警察に頼んで私の身元を調査してもらったらしいけど、何の情報も出なかった。
そんな私に住む場所などあるはずもなく、今の今まで家なき子状態だったことすら忘れていたというわけだ。
「でも流さんの家って、部屋とか大丈夫なんですか?」
「問題ない。部屋なら有り余ってるからな」
荷物がそれだけならもう行くぞ、とテーブルに乗せられた鞄の元へ行く流さん。
頭から離れてしまった温もりを少し残念に思いながらも、私も部屋に入って白ちゃんを回収する。電池が切れた人形みたいに大人しい白ちゃんを抱きかかえて、スタスタと行ってしまった流さんを追いかけた。
「流さん、ちょっと待ってくださ――ぶっ」
コンパスの大きい流さんを追いかけるために少し走ったら、急に流さんが立ち止まったせいで背中に思いっきりぶつかってしまった。
白ちゃんを抱きかかえていたら顔をぶつける事はなかったんだろうけど、病み上がりの私に抱えられたくないと後ろをテコテコ着いてきていたので、結構な勢いで当たったのだ。
「すみません……」
「なあ」
ひりひりする鼻を押さえながら謝るが、遮るように声が降ってくる。
「何ですか?」
「前から言おうと思ってたんだがな」
見上げるとほぼ真上に眉をひそめる流さんの顔。今更だが流さんは背が高い。多分私とは二十センチくらい離れている。
何が言いたいかというと、つまり首が痛いのだ。
二歩くらい後ろに下がって首が楽なようにすると、明らかに流さんの眉間の皺が濃くなった。
――私何かしたっけ?
首を傾げると溜め息をつかれてしまった。
「その敬語と『流さん』ってのやめろ。全身に鳥肌が立つ」
鳥肌が立つとはどういう了見だ。
「じゃあどうやって呼べばいいんですか?」
ちょっとムッとしながら聞くと、
「敬語」
返ってくる単語。
「……どうやって呼べばいいの?」
一週間で完全に定着してしまった敬語を取ることに違和感を覚えつつも、話が進まなそうだったので普通に話してみる。
「流、でいい」
少し浅くなった眉間の皺。
詳しくは教えて貰っていないけど、命の恩人に急に呼び捨ては気が引ける。けれどこの人は私が呼び捨てるまでここを動かなそうだ。
正直病院の廊下のど真ん中で立ち止まっていては迷惑だ。
「……流」
観念して言ってみると、思った以上にしっくりきたことに驚いた。
「それでいい」
くるっと進行方向に向き直った流さん――流は私の反応には気づかずに行ってしまう。
「流」
ぽそっと呟いてみる。余韻に浸っていると、
「大丈夫ですか?」
彼が近くにいると絶対に喋らない白ちゃんが心配そうに聞いてくる。
慌てて前を見ると流との距離が開いてしまっていた。
「大変! 白ちゃん行こう!」
ただでさえコンパスが違うのに、これ以上離れたら大変だ。
白ちゃんを引きずるように駆け出した。