原点回帰の猫
長らく渡航についていた、俺の友人が久しぶりに帰ってくると聴いて、いてもたってもいられず、この数日、晴れも雨も構うことなく、東の空を見つめていた。
いや、睨みつけていた、と言ったほうがいいのかもしれない。
その友人とはもう、かれこれ10年以上は会っていなかった。
たまの休日になると、何もすることがないから、海辺にまで出かけていき、ひがな一日中物思いにふけったりもした。
とにかく、何かしなくては、という衝動と、何を浮かれているんだ、少しは落ち着いたらどうだ、という理性に押し合いされながら、その数日を乗りきってきた。
ある日、俺は小さな飲食店の店長とオーナーを兼任しているが、来客の1人があまりにも友人に似ていたものだから、持っていた皿を落として割りそうになった。といっても落としても割ってもいない。
バイトの男が丁度、俺の手の止まっていることに気づいて「どうしました? 店長?」と小声で訊いてきたので、ハッと我にかえり、事なきを得たのだ。その来客は、もう1人いる女のバイトが席に案内した。
作業を順調に終えながら、チラチラと例の来客を盗み見ていると、目つき、鼻、頬のふくれ、顎形、肩幅、髪の色や、煙草の吸い方が、まるで違う。
彼は此処にはいないのだ。
何を間違うことがあるのか、自分にもわからなかった。そして、この胸の内にもやもやと渦巻く、不安か、あるいは翳りに似た何かを覆い隠すために、割れなかった皿の値分のボーナスを、バイト達にあげることにした。
閉店。
片付けもあるが、先に言った。
「今日はありがとな、奢りだ。何か好きなものを頼んでええ」
いつもバイト達は、あり合わせの材料で賄いを作って、それを夕食の代わりにしていた。保存の効かないものばかりで作る雑飯は、俺も食べているがおいしくはなかった。
「本当ですか? メニューにあるやつを?」
男のバイトが訊いた。疲れているとは思えないほど、声が高かった。女の方は、自分も訊こうとして、でも男が先に喋ったから、開いた口をすぐに閉じた。
「えぇ〜、どうしよっかな〜? Eちゃんはどうする?」
男は客用のメニューまで開いて、あれこれと吟味している。
「あの、私は結構ですから。友達と食べにいくので」
「えっ! これから? 友達ってIちゃんかな? 夜は危ないからついていこうか?」
疑問符のならぶ様。これから、の部分が一番大きな声で訊かれた。その為か、女のバイトは簡潔に答えた。
「ええ、遠くに住んでいる友達が、ちょっとこっちに来れたので」
女は、はにかみながら言った。年相応の可愛らしい笑顔だった。
「Eちゃんの友達かぁ、きっとかわいいんだろうなぁ〜。ねえ、どう? どう?」
Eは苦笑いを浮かべて、男に応えている。俺はそれをみて、微笑ましい気持ちになりながら、苦笑した。
「ふふ、かなり可愛いですよ」
かなり、か。
女の子が女の子に対して使う形容は、なんだか信用のおけない気がする。
過去長年間の経験から、俺はそのことに気づいていた。
若干20くらいの、確か大学生と言っていた男の方も、このかなり、という言葉には騙されないだろう。
それでも彼は疑いを感じさせない笑顔で、Eに顔を向けたまま「あいたいなぁ〜」とつぶやいた。
本心かもしれない。
テーブルを拭きながら、2人の会話を遠巻きに見ていると、ふいに、心の内を垣間見ることがあるのだ。
俺はその度に、少し寂しい、あるいは敬虔な心持ちになって、一心に、厨房などを丁寧に掃除するのだ。
「ダメですよ。先輩、口説く気でしょ?」
俺には彼が、頷いたように見えた。だが実際には「そうだね」と、囁くように言っただけだった。
物憂げな表情とは、ああいうのを云うのだろう。
俺はその顔を以前にも見たことがあった。
十数年前。
「おいY、見ろよ。層雲があるぞ。向こうではあの雲のことを『女神様のカーテン』なんて言うそうだ」
友人は嬉々として言った。
白く薄い雲が横風を受けて波立っており、あたかもカーテンがはためいているようだ。
「へえ」
「なんだよ、その反応は。もっと輝いたらどうだ?」
「うん」
俺は気のない相槌をうって、友人の顔を横目で窺った。
なにひとつ臆した風もない、好奇の眼差しを空に投げかけていた。
「こわくないのか?」
ふっと浮かんで、そのまま仕舞い込まれていた疑問が、溢れるように漏れでた。
「なにが?」
「えっと、その……」
友人は視線だけを動かし、好奇を宿した目を俺に向けた。
「むこうは、治安が良くないんだろう? 暴漢に襲われるかもしれないじゃないか」
「襲われないかもしれないね」
そうして友人は、ヒゲの生え始めた顎をさすり、また雲にみいった。
でも俺は、雲よりも下にある大地にふらふらと覚束ない足取りで歩いている老人を見ていた。
「ねえY、どうしてそんな、不安な表情をするんだい? おかしいよ。見たこともない世界が、僕を待っているんだ。これほど嬉しいことはないだろう?」
そういって、祖父から譲り受けたらしい首飾りを握りしめて、彼は笑ってみせた。
「それにこいつもいる。僕の半身さ」
彼はチェーンを持ち上げて、俺にその首飾りを飽きるほど見せてくれた。
深く刻まれた白鳳の彫刻が、羽ばたいている。その下に英語の崩れ文字で、祝辞が彫ってあった。
祖父が祖母との結婚祝いに買った、一品物らしい。
彼はまたそれを握りしめると、深く呼吸をして、目を閉じて、そうして口元をほころばせたのだった。
空気を震わせる船の音が、遠くから波音と共にやってきて、俺は現在に意識を戻した。
金管楽器の低い唸るような音だった。
待望していた瞬間がきて、飛び上がらんばかりの、勝鬨のように聞こえた。と同時に物悲しくもあった。
弱果ててゆくのを、俺は寂寞たる思いで見届けた。
目の前に白く塗られたテーブルがあって、その上に包装紙に包まれた小さな軽い箱があった。
海上輸送によって送られてきた荷物だ。
そしてまた俺の友人でもある。
丁寧に包装紙をはがし簡素な箱を開けると、燕の巣に似た、衝撃緩和のための屑が敷き積まれていた。
その隙間に丸まっている黄ばんだ白紙を取り出して、震える冷たい手で開けると、チェーンのない首飾りがひっそりと佇んでいた。
それが友人の正体だ。
もう2度と会うことはないと思っていた。
悲報。
日本人の死亡をラジオで聞いた。
それからぱったりと手紙が来なくなった。
ようやく彼を、彼の半身だけでも、日の本に埋めることができる。
俺がこの十数年間、あるいは数十年間を生きていれた理由だった。
俺は泣いた。
慟哭。嗚咽。痰を吐くような、痛い呼吸。腫れた喉を無理やりに動かして、酸素をめいいっぱいに吸い込むのだ。
痛い。
どこが痛いのだ?
訳も分からず涙を溢れさせる。
俺はただ、泣いた。
いかなる言葉を用いようとも、それはきっと他人には想像もつかぬことだろう。
それに、自分にも、表現しきる自信がなかった。
泣いた。
一人で泣いた。
ただ、泣いたという事実さえ、伝わればいい。
悲しみではない。悔しさでもない。辛さや、絶望、憤慨などでは決してない。
そうして彼の半身を、俺の涙で濡らしたのだった。