四、独白
あの事件の日に自覚した想い。
俺は今までよりも少しだけ、自分が丸くなり、少し優しく笑う様になったと自覚していた。普通の男子学生みたいな、少年の様にどこか初々しい感情が芽生えた自分に戸惑いつつも。そこに安らぎを見出している自分を、俺は確かにわかっていたんだ。
「陽奈子」
「なに?」
あの時願った思いを、胸に秘めて。
「――なんでもない」
名前を呼ぶことのできる距離の幸せをかみしめる。
「――理也」
「どうした?」
「ふふ、なんでもなーい」
まるで自分の気持ちを見透かされたようで、面映ゆい気持ちになりながらも。俺は陽奈子に左手を差し出した。
「ん、」
差し出された手と、顔を少し赤く染めながらそっぽを向いている理也を交互に陽奈子は見る。そしてクスっと笑ったあと、差し出された手をぎゅっと握った。
今まで、何人もの女たちと付き合ってきたけれど。こんな気持ちになったことはなかった。名前を呼ぶだけで幸せで、手を繋ぐのが精いっぱい。
そんなことはあり得なかった。手どころか肩を抱くことも、腰に手を回すことも容易だった。そうすれば女は喜ぶとわかっていたから。この程度で喜ぶなら、簡単なものだと何の感情もなくただ望みを与えていた。
ただ、時は過ぎてゆく。特別なことなどなにもない。
二人一緒に、いる。
それだけの時間がとても、愛おしい。
二人で、本物の恋人らしい付き合いになっていたある日。陽奈子はこんなことを言った。
「あのね、私って泣き虫だけど。だからこそ、こう思うの。
”涙は悪くない”
って。気のせいかもしれないし、気休めなのかもしれないけれど。ちゃんと泣くとね、心が少しだけ軽くなるの。泣いても何も解決はしないけど、無理をして色々ためこんじゃうよりも一回思いっきり泣くとすっきりして、頑張ってみよう、って思えるの」
そう言って、ハニカムように微笑むと。ぎゅっと握った手に力を込めて、理也を見上げた。
「だからね、今はまだ無理かもしれないけれど。いつか私が理也の安心して泣ける場所になれたらいいな、って。そう思うの」
繋がれた手の強さに、彼女の想いが真実なのだと知る。
それでも、弱虫な自分が顔をみせ。同じだけの強さで握り返すことができない。
少しでも力を加えてしまったら、今の関係を壊してしまったら。
沫の様にこの幸せが、彼女が消えてなくなってしまうのではないか、と。
そんな恐怖にからめ捕られている。
――どうか、その言葉通り。俺を護って。
離さないと、怯えなくてもいいと、
弱い俺の言動に惑わされず、どうか、護って。
自分勝手な、我儘な、願いを祈る。
ああ、どうか。彼女が傷つくことがありませんように。
ああ、どうか。弱さに負けて、愚かな真似をしませんように。
ああ、ああ、ああどうか、信じたことなんてないけれど。本当に〝神〟という存在がいるのなら。
愚かで脆弱な俺に、一度だけチャンスを。ラッキーを掴ませて下さい。
「!」
突然の柔らかな衝撃に、思想が霧散する。
襲った衝撃の原因は、自分の腰にしがみついている面識のない子どもだった。
「……」
「……」
じーっと見上げてくる双眸の純粋さがどこか陽奈子を思い出させる。その陽奈子はいつの間にか姿をけしていた。子どもの真っ直ぐな視線に腰が引けつつも視線を周囲に巡らせると、陽奈子が一人の男性を伴ってこっちに向かってくるところだった。
こどもが振り向き俺の視線を辿ると、パアッと顔を輝かせて駆けだした。自分の胸に飛び込んできた子どもを男性は難なく受け止め抱き上げた。隣にいる陽菜子と少し遠くに離れた俺にペコリと頭をさげ、男性は子どもと一緒に去って行った。
「お兄ちゃんー! 言わないと、つたわらないよ!」
子どもは父親に手を引かれながら、そう俺に向かって叫んだ。
「……これだから子どもは」
子どもは真実をそのまま、ありのまま受け止める。そこには善悪はない。真実を受け止めるのに、必要なものはなにもないのだ。だから、大人が、俺たちのような年代の人間が受け止めたくない、見たくない真実を容易に感じ取りつきつける。けれど前なら怒りにまかせて何をしでかしていただろう……と、冷静に考える自分がいる。少なくとも今の俺は、子どもに八つ当たりをするような行為はしない。
けれど、突きつけられた真実に胸が痛む。
「理也? あの子と何かあったの?」
傍に来ていた陽奈子が当然の疑問をぶつけてくる。
「何も。ただ、しばらく視線で語っていただけ」
「……視線で語る」
俺の言葉を反芻した陽奈子は、口に手を当てからだは小刻みに震え始めていた。
「――笑いたければ笑え」
自分でも、変なことを言った自覚はある。でも、陽奈子は結局吹き出すこともなく笑いを堪えたせいか少し涙目になった笑みを向けてくる。
「理也も、大人になったね」
「失敬な」
「ふふふ」
子どもが抱きついていたが、今は陽奈子が俺に抱きついている。
弱い俺は願うことしかできない。
もしもたった一歩でも、自身の足で踏み出すことができたのならば。
手を伸ばして掴んだのならば、それはずっと傍に在り続けてくれたのだろうか。
陽奈子。
この名を、永遠に……。




