4・異変
その日、本日の自分が選択した授業を受け終えて、学園から帰ろうとしたフイセが感じたのは、僅かな緊張感だった。
学園の入り口で、複数の教師が話し合っている。
どうやら情報が混乱しているようで、皆一様に何処か戸惑いが伺える表情をしていた。
そんな教師陣から離れ、此方に向かって来たのは彼の母、グレイシアだ。その顔に他の教師のような困惑はないものの、普段の仏頂面が若干の硬さを増しているように見える。
「何かあったの?」
これ幸いと、フイセは彼女の傍に近づいて事情を尋ねた。
「先程、ホロロの森付近で何かが結界に引っかかった。どうやら中心部の魔物が何匹か、徒党を組んで森の入り口まで出て来たらしい」
ゲーム時代の設定でもあるのだが、この世界の大都市は基本的に中央か外壁に結界を設け、常に周囲を警戒している。
結界といっても、進入を防ぐ類のものではなく、あくまで範囲内にある魔物やそれに類するものを察知する程度の代物だ。
魔物は、世界に溢れる魔力を糧に生まれ、その大半は能力の強い者ほど内包する魔力が大きいという事実を利用し、一定以上の魔力の塊を感知する事で、魔物の接近を事前に知る事が出来る仕組みだ。
グレイシアの話に、顔を歪めるフイセ。
「まずい。リラが友達と討伐系の依頼を受けるって、今森に行ってる」
「どれ位前だ」
「一つ前の授業が終わって、すぐだと思う……」
「……私は討伐隊を組織してから向かう。お前は好きに動け」
「良いの?」
てっきり動くな、と釘を刺されるとばかり思っていたフイセは、驚いた顔で母親を見つめた。
「ばれなければな」
何でもない事の様に言い放ち、その場から足早に立ち去るグレイシア。
内心で深く頭を下げ、フイセは街の出口へと走り出した。
学園を離れ、周囲に誰も居ない事を確認した彼は、右手に装着した、真鍮の腕輪にはめ込まれた薄紫色の宝玉――エイドオーブに触れ、操作ワードを思い描く。
「(装備変更――セット1!)」
オーブが契約者の意思を受け取り、短い閃きが起こる――
次に瞬間には、彼はその全身を黒一色の姿へと変貌させていた。
◇
仄暗い森の中を、一つ影が高速で走り抜ける。
漆黒の衣装を纏い、頭部と口元を同色の布で隠した全身黒尽くめのそれは、木々の間をすり抜けながら、風のようにホロロの森を踏破していく。
「(急げ……急げ……っ)」
心の中で焦りの声を上げながら、『広域索敵』でリリエラの気配を探がすフイセ。
時折木の幹を足場にしながら、文字通り飛ぶような勢いで彼女たちが居そうな場所を巡って行く。
ゲームの時代では、敵のレベル層毎にフィールドは区切られ、その区切りを越えない限り、奥地の魔物とは出会う事はなかった。
しかしここは現実だ。空間に区切りなど存在しないし、魔物たちにも、フィールド間の移動制限などありはしない。
設定が生かされているとはいえ、この場所はゲームではなく、一つの世界として成り立っている。
一度「外」に出れば、こういった容赦の無い危険が常に付き纏う、恐ろしい世界なのだ。
「(どうか無事でいてくれ……っ)」
最悪の想像を振り払いながら、地を駆けるフイセ。
「(――いたっ!)」
遠くからようやく見えた妹は、今正に窮地に立たされていた。
若草色に塗られた鉄の装備を身に纏い、怯えながらもしっかりと相手を見据え、左手の盾を前に突き出した状態で、右手の剣を腰だめに構え、後ろでへたり込んでいる魔道士姿の少女を守ろうとしている。
見た限りでは、二人とも大きな怪我は負っていないようだ。その事に小さく安堵して、思考を素早く彼女と対面している魔物へと切り替える。
人に近いが、それより遥かに大きな体躯に、捻れた二本の角が生えた、豚を髣髴とさせる頭部。
蹄を歪にしたようなその手には、木と石で作られた槍や、恐らく冒険者から奪ったのであろう錆付いた斧、朽ちかけた剣などが握られている。
ホロロの森の中では最強の部類に入る亜人で、このフィールドの最奥に居を構える、オーク族だ。
五匹のオークの中には、彼らの部隊長的な存在であるレッドオークまでおり、リリエラたちが無事だった奇跡に、誰にでもなく強い感謝が湧き上がる。
基本森の奥から出て来る事の無い彼らが、何故こんな所に現れたのかは解らないが、出会った以上放置するわけにはいかない。
何より、目の前で襲われているのは自分の妹だ。フイセは魔物への慈悲を、欠片も残さず忘れ去る。
「(最短で終わらせる!)」
両腰から抜き放つのは、二刀一対の双剣。刃すら黒く塗り固められた、光を発さぬ剣閃が走る。
「(ぶちまけろ!)」
攻撃技能――飛燕八閃――
全ての軌跡が刹那の拍子で打ち込まれた、左右からの八連撃が、醜悪な人外に炸裂した――
◇
私のお父さんは、私を産む前に亡くなったとお母さんから聞かされたけど、多分嘘だ。しかも、見栄を張った嘘。
お母さんは、話を誤魔化すのは上手いけど、嘘はすこぶる下手くそなのだ。
とはいえ、本当の事を知りたいとは思わない。お母さんがそう言うのなら、何か理由があるのだろうし、家族が三人でも困る事は一つもなかった。
学園の教師を始め、ギルドや街の警備隊の相談役など、色々と忙しいお母さんに変わって、お兄ちゃんが何時も私の傍にいてくれた。
ちょっと変わってるけど、優しくて、温かいお兄ちゃん。
本当は血が繋がってないと聞かされた時はとっても驚いたけど、私にとってお兄ちゃんはお兄ちゃんだ。
お兄ちゃんには、他にも色々隠し事があるみたい。だけどお母さんの嘘みたいに、聞くのは野暮だろう。
聞けば答えてくれるだろうけど、わざわざ家族に秘密にしてまで隠している事を暴いて、困らせたくはなかった。
そして――なによりその隠し事を知る事で、家族の関係を壊してしまうのが怖かった。
そんなお兄ちゃんは時折、ここじゃない何処かを眺めてぼんやりとする事がある。
今ではあんまり見かけなくなったけど、あの表情を見る度に、私は自分でもよく解らないけれど、今にも泣き出してしまいそうな、不安な気持ちにさせられてしまう。
まるで、お兄ちゃんがここじゃない何処かに行って、二度と会えなくなるような――そんな悲しい気持ちに――
◇
「油断をするな」。
森の入り口にたむろするゴブリンたちを、楽に倒せるようになった余裕からだろう。お母さんやお兄ちゃんから、何時も口を酸っぱくして言われ続けた言葉を忘れた罪に、今現実という形で直面していた。
生憎他の友達とは都合が悪く、一番仲の良いエリーと二人だけで此処に居るのは、果たして良かったのか、悪かったのか。
「ひっ、あ……う……」
後ろで、尻餅を付いたまま起き上がれなくなっている彼女を守るように、目の前の亜人たちと対峙する。
兆候はあった。
動物たちの鳴き声が止み、何時もはそこかしこでウロチョロしているゴブリンたちが居なくなり、虫たちの気配さえ消えてしまった森に足を踏み入れたのだ。気が付かない訳が無い。
しかし、警戒心と好奇心の天秤に揺られ、後者を選んでしまったのが運の尽きだ。
普段は森の最奥に居るはずのオーク族が五匹。一対一ですら今の私たちでは苦戦すると言われた相手が、しかも色違いの指揮官まで入った編成で此方を睨み付けている。
更に追い討ちを掛ける事実として、全員が何やら酷く興奮しているようで、荒い息を上げて目を血走らせ、口元からはぼたぼたと際限なく涎を溢れさせているのだ。
都合の悪い事ばかりが積み重なっていく状況で、それでも私は震えて鳴りそうになる歯を必死に食いしばり、武器を構えて精一杯の牽制を続けていた。
「立って、エリー」
「む、無理よ……だって足が……」
「死にたいの!? 立ちなさい!」
「う、うぅ……」
声を荒げても、背後で蹲る彼女が動く素振りはない。お母さんが言っていた、「いよいよ進退窮まった」というやつだ。
エリーを見捨てれば、助かるかもしれない。そんな思いが頭をよぎる。
でも、しない。したくない。
実力の伴わない、幼稚な意地。それでも母さんの娘として、お兄ちゃんの妹として――二人が愛してくれる私という人間として、ここで「逃げる」という選択肢は持たない。
森の入り口付近であるこの場所に、オークが集団で現れている事は、街の結界が知らせてくれている筈だ。
今の私に出来る事は、二人で少しでも長く生き延びて、街の人たちが助けに来るまでの時間を稼ぐ事。
身動き一つで、今にも襲い掛かって来そうな五匹の魔物たちとの均衡は、お互いの緊張感が限界に達そうとしたその時に崩れた。
「――っ!」
「え!?」
横合いから現れた黒い何かが、オークたちに向かって瞬速で迫る。
「が……あ……」
気付いた瞬間には、もうそれは終わっていた。
真ん中に居た赤いオークは、断末魔を上げる暇もなく、大量の血と共に辺りに部品を巻き散らしてその一生を終えた。
「がっ!?」
「ががぁっ!」
自分たちのリーダーが瞬きする間に細切れにされ、残りのオーク達に動揺が走る――だけど、それも一瞬の事。
「が――」
「ぁ――」
黒剣を握っている、黒い誰かの姿がぶれる。すると周囲に居た取り巻き全ての首が、音も無く地面へと滑り落ちる。
そして、有るべき蓋を失った場所から、揃って血飛沫を噴き上げて地面へと崩れ去った。
その頃には、もう黒い人はそこにはおらず、何時の間にか少し離れた場所で、魔物たちの最期を看取っていた。
「ひっ!――ふぅ……」
死地から地獄へ――突然の、それも恐怖から更なる恐怖への展開に、限界を超えたのだろう。後ろでエリーが小さな悲鳴を上げて、その場で意識を失ったようだ。
私たちを助けてくれた、黒い人はまだそこに立っている。
あれだけの惨劇を起こしておきながら、その人には両手に持つ黒い剣以外、一切の返り血を浴びていない。
その真っ黒な両目がこちらを射抜き――
「お、にい……ちゃん……?」
その瞬間に感じた事を、私は無意識に尋ねていた。
何故そう思ったのかと聞かれたら、「お兄ちゃんだったから」としか答えようの無い、我ながら理屈も理由もすっ飛ばした、ただの直感。
「っ!?」
黒い人は、そこだけしか見えない両目を見開き、とても驚いているようだった。そしてその反応が、私の疑問を確信へと変える。
どうして、という言葉の群れが、私の頭の中を駆け巡る。
どうして――そんな格好をしているの。
どうして――そんなに強いの。
どうして――教えてくれなかったの。
どうして――どうして……
でも、そんな事はどうでもよくて。
怖かった。とても怖くて、震えが止まらなかった。
普段と違う服装にでも、血の付いた黒い双剣にでも、見た事も無いような冷たい瞳にでもない……
それを知る事で、お兄ちゃんが私の前から消えていってしまうかもしれないという恐怖に、私の身体はどうしようもなく震えていた。
「……」
「……」
しばらく無言でお互いを見詰め合った後、お兄ちゃんが何かを言う為に、黒い布越しに口を開きかけたその時――
その背後から現れた何かが、お兄ちゃんを真横に吹き飛ばした。