少女(2)&少年(1)
上梨祷に人生の岐路が訪れたのは、中学一年の夏だった。
最もその岐路と相対するには、祷はあまりに無力すぎた。岐路で待ちかまえていた残酷が、事もなげに彼女の幸福を滅茶苦茶したその時に出来た抵抗といえば、眼に入りこむ惨状を覚悟し受け入れることだけだった。
しかし祷は、運が悪すぎるほどに運が良かった。残酷が生贄に選び、轢殺したのは彼女ではなかったのだ。それ故に彼女は、この世に蔓延る不条理を理解し、肯定してしまった。生き残った自分はただ運が良かっただけであり、たったそれだけが生死を分けるこの世界に絶望を抱いた。
それから祷は、時間の経過が感じられない薄暗い病棟の、面白げもない茶色い壁についた染みを眺めて過ごすことになる。
祷と同じく一命を取り留めた二歳年上の彼女の兄は、入院当初は良く面会に来ていたのだが次第にその頻度は減っていった。一年が過ぎたころには全く姿を見せることは無くなって、しかしそのことに何を感じるわけでもない。ただ、自分を見るのが辛かったんだろうなと靄のかかった意識でぼんやりと思うだけ。
二年が経過した頃、祷の欲求は大きく二つに分離し、一日はその欲求を満たす妄想に費やされていた。何かを救ってみたいという欲求と何もかもを壊したいという欲求。その二つに板挟みにされた想像の中で繰り返す生殺与奪が虚しい虚構であることを彼女は認識していて、けれど止めることが出来なくなっていた。
つまり祷は壊れ始めていた。或いは、元々壊れていたものが崩れ始めた。
薄れていく現実と想像の境界線。しかしその接合が完全に果たされる前に、妄想の泥土に埋もれる祷を掬い上げた人物がいた。
だがそれは、兄ではなかった。
「大丈夫ですよ、兄さん。あなたを怨んでいるわけではありません。というより、何の感情も抱いていない、と言った方がより正確でしょう」
躊躇うことなく祷は兄にそう告げた。その乾いた声は高低の無いもので、言葉の真実味を強調する。
こんな妹ではなかった、と思うことが自分勝手であることを望は分かっていた。けれど、もっと優しく笑み、もっと穏やかに話していた妹の記憶が彼にそう思わせる。
最もそれは、だった、と過去形にすることしかできない残骸だ。
「・・・・で、妹。お前は何の用で私たちをここに誘き寄せたんだ?」
力が抜けていく双眸で見つめられ、倒れ込みたくなる気持ちに精一杯抗いながらヒギナは意図を問う。 釣り針に喰いついたのは弱い方でしたか、という祷の言葉から推測すると、彼女が術者を誘き寄せていたことは確かだ。
では、強い方とは。
「妖怪にしては、話し合うことを知っているのですね。怯えて話すこともままならない兄さんとどんな関係であるかは知りませんが、兄さんより幾分役に立ちます」
殆ど挑発のような言葉だったが、そこにも感情は籠められて無かった。ヒギナが怒りを押し留められたのは、そのおかげとも言える。
祷はテディベアの背中のファスナーを開いた。白い生地で溢れるその中に入っていた一枚の書状。それを取り出して、ヒギナに見せる。
「私の師匠が、リリナさん宛てに書いたものです。私はこれを、絶対に、渡さなければなりません」
リリナの名が出た時、ヒギナは思わず苦々しい顔をしてしまった。
「どうやら知っているようですね、リリナさんを。ということは恐らく、兄さんも知っているのですね」
「だったらどうした。さっさと渡しに行けばいいじゃないか」
ヒギナは何を言っているのだとばかりに口にする。
「入ることが出来ないのです」
「え?」
「おんぼろ屋敷は、高度な幻術と結界で守られています。残念ながら、私の力ではそれらを破ることはできませんでした。ですから、気配を強めてリリナさんがやって来るのを待っていたのです」
書状をテディベアにしまい込み、祷は空いた手を兄に向けて伸ばした。
「どうすればリリナさんに会うことが出来るのか、兄さん、私に教えて頂けますよね?」
それは、脅迫にも近かった。妹のお願いは無数の刃となって兄の罪悪感を刺す。
しかしそれでもやはり、祷の口調は地平線のように起伏がない。
妹の小さな手を握る。それはゾッとするほどに冷たく、望の体温までも奪い去るよう。
納得いかないとばかりにヒギナは望と、祷を睨んだ。しかし望の頭の中は繰り返し反芻する疑問が占領していて、半妖の慧眼は届かないのだった。
自分の妹は未だに壊れているのではないか。
そう思うと望はただ、恐ろしかった。
ずるずる、と何かを啜るような音が暗然たる室内を満たした。
最後まで残しておいたカップうどんのお揚げを噛みしめ、その仄かな甘さと滲みでる汁が見事に奏でるハーモニーを堪能する。そして魔女は満足とばかりにお腹を叩いた。
「ここ最近この館の周りをうろついていたその娘、上梨君の知り合いだったの?」
割り箸を指で華麗に回転させようとして、飛んでいく。それは何とも間抜けで、いつもの望なら、魔女らしくして下さいと窘めていただろう。
「上梨望は、私の兄です」
「ああ、やっぱり・・・魔眼、とまではいかないにしてもそれなりに危険な力が宿っているその眼。もしかしたらと思っていたけど、上梨君に聞いていた通りね」
そう言うリリナの微笑みは、祷の眼を見据えても途切れることはなかった。いやむしろ、どこか嬉しそうですらあった。
「それで、妹さんが何の用?」
「この書条に目を通して頂きたいのです」
書状を取り出し、それを角の欠けている机の上に置く。広げた書状には筆で書かれた達筆な文字がつらつらと綴られていて、リリナは心底面倒くさそうな重い息を吐いた。
「フェルガー。代わりに読んで」
「かしこまりました」
それまでリリナの後ろには、人影は愚か気配すらなかった。しかしまるで高速移動してきたかのように現れたのは、上品なスーツに身を包んだ執事。フェルガーが三人を案内したのは絵と黒がねじ曲がった末に現れる例の暗い階段の場所までで、彼はその階段を確かに降りてはいない。
「拝見させて頂きました。失礼なことをお聞きしますが、この情報の信憑性は確かなのですか?」
「勿論です。私の師匠が調べたことですから」
「師匠?」
リリナが問う。
「はい。式神術の大家、日比原家の現当主、日比原管李です。私はその、三番弟子です」
「・・・日比原?」
腕を組んで体を横に曲げる。すぐに思い当たらないのは、いつものことだ。しかしそれをいつもだと知らない祷は若干の苛立ちを感じているようで、それまで能面のようであった顔が僅かに歪む。
「管李様を、ご存じないのですか?」
「そう言われても・・・あ、お菓子をくれたら思い出せるかも」
「ふざけないでください!」
部屋も揺れそうな激情に声を荒げる祷。
望とヒギナは驚愕する。放たれた声は、二人が知る機械のように始終無感情だった少女とはかけ離れていた。
日比原季秦の何が、祷をこうさせるのか。恐らくそれは、尋常ではない。
「んー。でもねー、脳には糖分が必要なの。十分な糖分で労ってあげないと、私の脳はストライキを起こすの」
「むしろ、ストライキすら起こりそうにない」
ぽつりとヒギナが呟いた。瞬間、リリナがどこかに飛ばしてしまったはずの割り箸が半妖の額に突き刺さる。
「リリナ様、十数年前にごく短い期間ですが師事なされたあの少年では?」
思い出したらしいフェルガーが言った。
「十数年前・・・少年・・・・ああ、そういえばそんなこともあったね。それで、その管李さんから送られた書状はどんな内容だったの?」
怒れるヒギナに舌を突き出しながら、リリナが聞く。
「リリナ様の御命を狙っている輩がいる、とのことです」
「ふーん。お命ねぇ。これで何人目かな」
「目出度くも、丁度百人目でございます。祝杯を挙げるべきですかな?」
ぱちぱちと陽気に手を叩くのは、命を狙われている者とその従者だけだった。二人が満足し終え拍手を止めた後に流れたのは白けた空気。
フェルガーはこほん、と咳払いした。
「リリナ様の御命を狙っている輩は通称”愉悦する神父”。私の記憶が正しければ、それなりに名の通った死霊術者です」
リリナは、そう、と一蹴した。
執事だけが、濡れた舌が深紅の唇を舐める艶やかなその仕草を見ていた。
「それじゃあ妹さん。管李さんに、ありがとう、と伝えてくれる?」
「・・・・はい」
止めどない不愉快を隠そうともせず、祷は渋々といった感じに首を縦に振る。続けざまに動いた唇から出る言葉にも、それは乗せられている。
「私は、数週間この街で”愉悦する神父”を警戒するよう管李様から命じられております。その間、集めた情報などを報告したいので、よろしければリリナさん、またこの屋敷に私を入れて頂けないでしょうか?」
今日祷が魔女に会うことが出来たのは、望と一緒にやって来たからである。後日一人で訪れた時にこの屋敷に入れる保証はどこにもない。
だから祷は確約を得ようとする。
「んー・・・違うんだよね」
しかし魔女は言葉を濁し、プラチナに輝く髪を軽く掻いた。
「違う、ですか?」
「ここに招いているモノは全て、私が楽しそうだと思ったモノなの。妹さんは術者としてかなりの実力と素質を持っているし、あなたが集める情報はきっと有益だとも思う。でも私に必要なのは、惰性と怠惰と糖分と、楽しいことだけ」
柔和な言い方ではあったが、それは断固とした拒否だった。
あまり色良い返事を期待していなかったのだろう。祷は、そうですかと言って素直に引き下がった。
「それでは、失礼致します」
深く腰を下げた後、祷は踵を返す。その後ろ姿を見つめて望は、妹の名を呼ぼうとした。
「いの・・・」
だができなかった。縫いつけられたように、動かない口。
妹は、兄の切れた言葉を気にする素振りすら見せず、静かにリリナの部屋から出て行った。
「兄としてかたなし、だね。まぁあの眼があるんじゃ仕方ない、と私は優しいから肯定してあげるよ」
「気に食わない。あの眼も淡々とした態度も」
「術者としては高い能力をお持ちですね。失礼ですが、上梨様より。ですが、どこか危ういものがありますね」
リリナ、ヒギナ、フェルガー三者三様の言葉。その言葉を裂くような弾ける音をこの部屋に通らせたのは、兄である望の拳だった。
「俺のせいで、というのはただの驕りよ、上梨君。妹さんがそうなったのは誰のせいでもない。どんな不幸が、幸運が彼女にあったのかは知らないけれど、彼女を決めるのは彼女自身。だから上梨君がやらなくちゃいけないことは」
椅子から立ち上がり、やはりこける。再び立ち上がることすら面倒になった魔女は、そのまま望を上目で見た。
「今の妹さんを認めることと、今の妹さんに認められることだと思うよ」
望はぱちぱちと瞳を開閉し、指で頬を抓った。じんじんとした痛みは本物で、彼はここが現実であることを認識するのである。
「ま、まさかリリナさんの口から良いことっぽい台詞が出てくるなんて!」
リリナはむっとした表情を浮かべて唇を軽く噛んだ。
「失礼な。このリリナさんの言葉は独占禁止法に引っ掛かるくらい、名台詞のカーニバルじゃない!」
全くですと同意するフェルガーの健気さは称賛に値するのだろうが、焼け石に水を注いだ程度の効果もない。望とヒギナに無言で否定され、ふてくされたリリナは床をローリングし、瓦礫の山のように散らばる本の中へ自ら埋もれた。
今の妹を認めること。そして認められること。それは兄と妹いう十数年間を捨てた、ほぼ一からの関係の構築に他ならない。しかしそれ以外に方法はないのだ。昔の妹を思い返し、罪悪感で自分を責め続けることに意味などないのだから。
だが、あの死を匂わせる眼を受け止めることは出来るのだろうか。思い出すだけで痛みが背中を伝うあの眼を。
望は奥歯を噛みしめる。
「ところで、上梨様。呪符の研究は進んでいますか?」
沈黙を打ち破る様にフェルガーが聞いた。
「え、ええ。自分にどんな呪符が合うのかいろいろ試しました。なんとなくという感覚レベルでなんですけど、身体能力を強化するそれが一番合うような気がしています」
「ほう」
モノクルの奥にある黒の瞳が煌く。主の陰として命令をこなす執事は珍しく、明らかな興味を示した。
「私と、同じですな。何か知ら、アドバイスできることがあるやもしれません」
「あ、そうなんですか。いろいろと聞きたいことがあったんです」
帰りたそうに袖をぐいぐいと引っ張ってくるヒギナにもう少しだけ待つよう宥めて、フェルガーのアドバイスを聞く。丁寧で理解のしやすいアドバイスから得るものは多かった。もっといろいろなことを聞きたい望であったが、いよいよ袖を引き千切らん苛烈さで抗議してくるヒギナを無視することは出来なかった。
「上梨君」
魔女が本の山から首だけ出して、帰ろうとする望に声をかけた。
「はい?」
「妹さんに認められたいのならまず、術者として力をつけないとね」
「術者としての力、ですか?」
「うん。妹さんはきっと、管李さんの命令を果たすためならどんな人間でも利用する。だから君がそれなりの力をつければ」
「利用しにくることがあるかもしれない・・・確かに今の俺が会いに行ったところで、あいつは無視するだけでしょうね」
自虐を響かせて、望は部屋から出て行った。
同じく部屋を出ようとしたヒギナだが、魔女からの思わぬ言葉に足を引き留められるのだった。
「ヒギナちゃん。上梨君をよろしくね」
疲れ切ったように肩を下げ、とぼとぼと先に歩く望の丸まった背中を見て、ヒギナは答えるのだった。
「・・・・私には、関係ない」
契約通りプリンを二つ手に入れたヒギナは、それを卓袱台の上に並べて純粋な子供のような笑顔を浮かべた。
一方望は、どれだけ掃除機を掛けようが綺麗にはならない畳の上に寝そべって溜息をつく。嬉しそうなヒギナを見て少しだけ、恨めしそうにしながら。
「分からない」
プリンの柔らかな感触をスプーンで楽しみながら、ヒギナはそんなことを言った。
自分に話しかけてきているのだろうと思った望は上体を起こす。ヒギナの視線はプリンに注がれたままだったが、どこか望の返事を待っているようだった。
「何が分からないんだ?」
「半妖にすら普通に接するお前が、妹に対して嫌悪し怯える理由が。それでも、妹を受け入れようとする意味が」
プリンを掬って口に運ぶ。甘味が口内に満ちていく一瞬に頬を緩ませる。だが、それはすぐに消えていくのだった。
「嫌悪しているのは、祷に対してじゃない」
じゃあ何に、とは聞かなかった。ただヒギナは、蓋を開けていないもう一つのプリンをそっと望に差しだした。
「ヒギナ・・・」
「食べた分を返すだけ」
食べかけのプリンを持ったまま、くるりと背を向ける。
ヒギナのそんな行動を見つめながら望は、差しだされたプリンの蓋を開けるのだった。
愉悦する神父とか超厨二病です。
でも後悔はしちゃいません。だって、厨二病だもん。