半妖(2)
「まぁ、私にとやかく言う権利はないのだが、例え貧乏であっても彼女の服くらい買ってあげたらどうだ?甲斐性なしだと思われるぞ?」
先輩の、有難い忠告だった。
公園の中央に立っている時計は、きっかり十二時三十分を指している。この時間に奏と約束していた望は、どうやらその時刻に間に合ったようだ。
「いや、あいつは彼女とかじゃないんですよ。いろいろ、ありまして」
望はそう言いながら、水飲み場の蛇口を何度も捻るヒギナを指す。
「お前のいろいろは、本当に複雑だからな」
うんうんと頷く奏。明朗闊達で姐御肌な性格である彼女だが、その性格に反して体格は小柄で、顔も童顔気味である。そのギャップが良い、と彼女に恋焦がれる人間もいるらしいが望には理解できない。
「それで、どうなんだ、最近?」
服の入った袋を差し出しながら、奏は聞く。
「なにも変わりませんよ」
「そうか、変わらないか」
そのやり取りは、高校時代を想起させる。たまに学校へ顔を出すと決まってこの童顔で姐御肌な先輩から、最近どうなんだ、と聞かれた。そして返す言葉は今日と同じく、なにも変わりませんよ。
あの頃と比べても、自分はあまり変わっていない、と望は思う。あの頃より少し裕福で、少し明るくなった。だが、それは何て事のない些末だ。
「服、ありがとうございます」
出来るだけフェルガーの真似をするように腰を曲げたのだが、それを見た奏は腹を抱えて大笑いする。
「な、何ですか?」
「いや・・・やっぱりお前は、変わったよ」
涙の滲んだ瞳を手で拭いながら、奏はそう言った。ただ腰を曲げただけで大笑いされ、変わったと言われるその理由が分からない望が少し不快な気持ちになるのは仕方がない。服を譲ってもらった身でなければ、嫌味の一つや二つくらいついていたかもしれない。
「ああ、そうだ。ついでに話しておきたいこともあったんだった」
急に真剣な表情になった奏。この接続詞のない表情の変化は、相変わらずだな、と望は懐かしむ。
「そんな真剣な顔をして、どうしたんですか?」
「ああ。駮神社の神木を覚えているか?」
それが望と奏が出会った切っ掛けだった。もっとも、切っ掛けとしては最悪な部類に入る出来事だった のだが、今では笑い話で済ませられる。
「はい」
「あの神木の封印、少し弱まっている気がするんだ。もしよければ、ちょっと確かめてみてくれないか?」
奏にも不思議を感じ取れる力がある。もっともそれは、一般的な人間の日常に誤差を生じさせない程度のもので、望ほど強いわけではない。ちょっとした予感、違和感として気になりはするが、確信には至らないのだ。その神木の封印のことを知らなければ恐らく、彼女はそれが弱まっていると気付かなかっただろう。
「ええ、分かりました」
「よろしく・・・っと、マズイ。午後の講義に遅れてしまう」
左腕に着けている時計で時間を確認し、焦る奏。ぶんぶんと望に大きく手を振って、彼女は大学の授業に遅刻しないよう大慌てで走り去って行った。
この公園から駮神社まではそう遠い距離ではない。歩いても十分とかからないだろう。
「ヒギナ!」
全ての蛇口をフルスロットルで開放し、足元を濡らすヒギナは無表情ながらもどこか楽しそうだった。そんな彼女に声を掛ける望だったが、聞こえていて業とそうしているのか、それとも蛇口から出る水に夢中で聞こえていないのか、反応はない。
「ヒギナ!おい、聞こえているなら返事くらいしろ」
またしても反応はない。どうやら、業と無視しているようだ。
望は入念にストレッチをして体を解し、クラウチングスタートの構えをとる。力強く地を蹴り走る彼のスピードはなかなかのもので、一定距離以上彼から離れられないヒギナは、短い距離ではあるが地面に転んで市中引き回しの刑に処される羽目になった。
「どうだ、思い知ったか。無視するからだ」
「・・・殺す・・・殺す・・」
鋭い牙を煌めかせ、ヒギナはよろよろと望に近づく。
「わ、悪かったよ」
近くにあったアイスの自動販売機に硬貨を入れ、チョコチップアイスのボタンを押し、箱から取り出してそれをヒギナに渡す。
「何だ、これは?」
「アイスっていう食べ物だ。一応言っておくが、毒は入ってないぞ」
軽く舐める。それからヒギナは、一気にかぶりついた。
「甘い」
感想はそれだけだったが、アイスをそれなりに気に入ったことは、棒まで食べようとしていたことから明白だ。
「それじゃ、悪いけど駮神社まで付き合ってもらうぜ・・・そういえば妖って神社とか大丈夫なのか?」
「問題ない」
アイスの棒を名残惜しそうに見つめてから、ヒギナはそれを道路に投げ捨てた。憐れにもその棒は、通りかかった車のタイヤに轢かれ、黒ずむ。
「そんなところに、妖と人の境界はない」
黒ずんだアイスの棒を細めた目で見やる。達観したその雰囲気は、望が話しかけることを躊躇ってしまうほどのものだった。
「それに私は、妖ではない」
「妖じゃない?」
「人間と妖怪の血が半分ずつ混じっている。半人とも半妖とも呼ばれる、揺蕩い忌み嫌われる存在だ」
「半妖・・・」
鳥居から伸びる影が見えた。ヒギナは、こともなげにその下を潜り、階段を上っていく。どうやら彼女が言っていたことは真実のようだ。
「だから私の牙は己だけ。私はどちらにも属さないし群れない。妖怪にも、当然、人間にも」
陽光を背中で受けたヒギナの影に覆われる。半妖に射抜かれた望は動けない。殺気を向けられれば彼にも反論の余地はあったが、その言葉と瞳は有無を言わせず無音で彼の心に忍び寄る。
ほんの少しだけ、悲しい余韻。
翻る。ヒギナは再び歩き出した。少し遅れて望も。いつまでも続くかのような錯覚に陥る階段を上り続け、やっとのことで境内に辿りつく。
参拝客の姿は見えない。中々大きい神社なのだが、平日の午後ともなればそんなものだろう。望は、拝殿の近くで天を貫かんばかりに高く聳える神依木の封印を確かめるべく、階段を上ったことで少し重くなった足を進める。ここに来るまでに彼の不思議を感じる力は封印の大体の状況を把握していた。そしてその状況が思わぬほど悪いことも。
「不味いな。これは早急に、リリナさんに相談した方が良いな」
「あいつのところに行くのか!?」
「ああ。この封印は、リリナさんの呪符によるものだしな」
しめ縄にこっそりと張り付いた呪符を指し示すとヒギナは顔を左右に振り、太陽の陽光にも負けない輝きを放つ金色の長髪を激しく揺らす。その艶やかな髪の間から覗けた彼女の瞳は、光っているように見えた。
「ヒギナ?」
「あいつは、何者なんだ?」
そう問われた望は即答する。
「さぁ」
毒気が抜かれたように、がっくりと肩を落とすヒギナ。
「何者でもいいじゃないか。俺にとって大事なことはただ一つ。あの人に恩があるってことだけだ」
「御目出度い人間」
ヒギナはそう吐き捨てた。
「う~ん・・・超絶隠者系美少女リリナさん、かな」
その言葉の中で少女が最も余計だ、と突っ込むともれなく地獄への旅行券をプレゼントされそうなので、望は疼く心を落ち着かせ黙った。
何者なのか、とヒギナに問われて自分を超絶隠者系美少女と恥ずかしげもなく答えた魔女は、床で仰向けになっている。だらしないと、締りがないとか、そんな言葉では彼女を縛ることはできない。あらゆる自堕落の淵に行きついた彼女は、これこそ存在の果てと呼ぶに相応しいのかもしれない。
「まぁ、私が引き籠りでも、隠者でも美少女でも這い寄る混沌でも創造主でも、そんなことはどうだっていい微細なこと」
自らを創造主まで持ちあげておいて、魔女は不敵にうすら笑った。
「それより上梨君」
「はい?」
「たった一日で彼女とそれなりに仲良くなるなんて、あなたはどんな野口英世で釣ったの?」
「仲良くなってない!」
半妖が、そう吠えた。
「なんで野口英世なんですか?」
違う部分で、望も吠える。
「じゃあ妖ちゃんの為に福沢諭吉を自ら犠牲にする甲斐性が君にあるの?」
「すみませんでした」
リリナはもぞもぞと床から起き上がった。それから机の上に腰を下ろし、天井のシャンデリアに照らされその光を反射する銀髪を手で梳いてから、欠伸をついた。刺すようなヒギナの眼光も意に介さないこのマイペースさがかなりの強敵だ。のらりくらりとかわされ、いつの間にか彼女のペースにはまってしまう。
まるで毒の入った極上の美酒。しかし死なない程度のそれなら、酔わされるのもありだと思えてしまう。
「で、今日は何の用なの?」
差しだされた手。その手にスナック菓子を置いて望は、駮神社の神木の封印について話し始める。
「駮神社にある神木のことを覚えています?」
「駮神社・・・んー、何だったかな」
背を反らし、リリナは記憶を探る。それによって強調されていく豊満な胸。だが、背を限界まで逸らした彼女はバランスを崩し、鈍い音とともに床へ墜落した。
「ああ」
その衝撃で思い出したらしい。ごろごろと転がって望に接近すると、スナック菓子の袋を開ける。
「あったね。人の願いに晒され続けた神木が、その願いを叶えようとして暴走してしまったことが」
「はい。二年前にその神木に施した封印が解けかかっています」
スナック菓子を奪おうと躍りかかったヒギナを青い炎の壁で退けて、リリナはそれを口へと流し込む。それから空になった袋をヒギナに対して放って、挑発するように舌を鳴らした。
「あの、聞いてます?」
獣のように呻き、前のめりの姿勢から跳躍する半妖。彼女は完全にリリナを敵と認識し、恨みの全てをぶつけようとしているのだろうが、残念ながらリリナはじゃれつく猫を相手にするように楽しげだった。
「うん。ちゃんと聞いてるよ。新しい呪符を用意すればいいんだよね?」
ヒギナが弾かれ、本棚に激突した。ぐらぐらと揺れるその本棚から大量の本が落下して、彼女は埋もれる。
「ただし一つだけ条件をつけさせてもらうよ」
「条件、ですか?お菓子ならもう持っていませんよ」
ヒギナの相手を終えた魔女は、小さく首を振って否定する。
「今から渡す呪符を写して同じものを最低三枚は作ること。私ほど魔や呪の深淵に辿りついていなくとも、君には呪符を使えるくらいの力はあるんだから。少しは鍛錬しないといけないよ?」
「でも、それは・・・俺の力じゃありませんし」
鮮やかに甦る凄惨。温かい赤い液体。何も写してはいないだろうに、じっと見つめてくる白い眼。人たらしめていたものが全て失われた、ただの肉塊。
しかしなにより彼を苦しめる記憶は、生きた者の眼である。どうしようもない何かがあると知ったその眼。救いを求めるわけでも、恐怖に怯えるわけでもない。迫りくるそれを受け止めた眼。それは動かなくなった肉塊よりも感じさせる。
死を。
「確かにその根源は君自身じゃないのかもしれない。でも、同じことだよ。運命、宿命、必然。何とでも言えばいいけれど、帰結として君はその力をもっている」
苦悩と不快の刻まれた面持ち。本の山から生還したヒギナは、苦虫を噛み潰したような望を目にして、眉を寄せた。それから、やはり従容としてそんな彼に微笑を浮かべる魔女を確認して、さらに眉間の皺を深くする。
「君もいい加減、自分が望むことは自分で叶えないとね?」
そう諭されて、望は呪符を受け取った。
痛いほど分かっていた。望は不思議な出来事に対してそれなりの場数を踏んでいる。しかし、踏み込んだそれらにピリオドを打つのはいつもリリナの力なのである。望は常に、ピリオドを穿つために必要な文字の一つでしかない。出来るだけ、美しく締めくくれるよう腐心し踊る一文字でしかないのだ。
「分かりました。写してみます」
「よろしい」
その時、ヒギナは呼吸をすることも忘れて固まった。一刹那向けられた、だろう魔女の青い瞳。それはまるで、虫を見るような眼つき。僅かの興味も威圧もなく、遥か卑小な存在だと確信させられる無だけがある。
自分が自分で無くなっていくような虚無への切なさが、次元の違う存在への根源的な恐怖が、体の奥から零れ溢れ出る。どうして今この時にそんなことを態々思い知らせようとするのか。紋様を施された時、お菓子を奪おうとした時、襲い、飛びかかって行った時。その時ではなく、どうして今そんな瞳を向けてきたのか。
なぜ、今さら。
ヒギナはそんな疑念を、言い訳をするように心の中で何度も繰り返す。
「・・・ギナ。おい、ヒギナ?」
「あっ・・・」
眼中で上下に動く望の大きな手によって、彼女は現実に戻された。
「どうしたの?大丈夫?」
白々しくそう聞く魔女。だが、直視することは出来なかった。逃げるように、床をひたすら見つめる。
「どうしたんだよ?大丈夫か?」
「・・・心配なんか、されたくない」
パンパン、と手を叩く音がして望は振り返った。いつの間にか椅子に座っていたリリナが、用意した呪符を手に持って彼に示す。
「はい」
「ありがとうございます。ただ、呪符を張り替えるだけなのにこの二つは必要ないと思うんですけど」
用意された呪符は一つだけではなかった。小さな結界を張ることが出来る呪符。刃物のような鋭利となる呪符。その二つが、神木を封ずるための呪符と一緒に手渡される。
「念のためよ。念のため」
「これで五枚も呪符を持つことになるんですよ。どれがどれやら分からなくなりそうです」
「呪符なんかに頼らず術を使えるようになればいいんじゃないかな?」
「そんな術者、そうそう居ませんよ。リリナさん以外に見たことないですし」
そうね、とリリナは同意してから目蓋を伏せた。それから、ゆったりとバウンドする顔。
「眠い・・・喋りすぎた」
喋りすぎて眠気が来たらしい。
「それじゃあ御暇しますね。リリナさん、ありがとうございました」
「んー」
その眠たそうな返事はどこか嘘っぽかったが、これ以上用事はないし、少しヒギナの調子がおかしいし、望としても帰ることに異論はない。彼は礼を述べて帰路に就くべく扉を開けた。
扉が閉められる。誰も居なくなった書斎でリリナは唇を動かし名を呼ぶ。
「フェルガー」
「はい。何でしょうか?」
書斎に響き渡る返事。しかしフェルガーの姿はそこに見えない。
「頼みたいことがあるのだけど」
「何なりと」
素晴らしい角度で一礼するその姿が浮かんできそうな紳士的な声でフェルガーは応えた。
静まり返った室内。望は、リリナから受け取った呪符を写しながら、部屋の隅で体育座りをするヒギナに声を掛ける。
「どうしたんだよ」
しかし、返事は来ない。微動する気配すらない。仕方なく望は、呪符を写すことに集中する。
己の力の性質、資質、容量。それらを突き詰めて得られる自分だけの型が彼にはない。呪印と呼ばれるその型は、呪符を扱う者にとっては必須であり、自分が扱う呪符に紋様の一部として組み込むべきものである。呪印は、それが刻まれた呪符を己以外扱うことができないようにする錠前であり、己が使う場合には呪符の効力を上げることができる増幅器でもある。
だから、リリナの呪符には呪印がない。望が扱うことが出来なくなってしまうからだ。印なしと呼ばれるその呪符は、呪印を持つ術者からすれば嘲りの対象である。
二枚ほど書き写して望はリリナの呪符を左手に、自分の呪符を右手に持った。
「やっぱり、ただ持っただけでは違いが分からないな」
こうしてぱっと見たり少し触ったりしただけでは違いが分からない。だが、呪符を持つ手の感覚を尖らせると、その差は圧倒的になる。
雫を垂らすと波紋なく衝撃の伝わる水面。調律されきった狂いのない力。洗練されていない呪印が組み込まれた呪符より、リリナの呪印のない呪符の方が高い効力を発揮する。
比べて、望の呪符はお粗末だ。一滴の雫から嵐でも起こりそうな水面。それこそ、術者の意図を越えて暴走しかねない。
念を籠めて効力に応じた紋様を記す。やっていることは同じなのにどうしてこうも違いが出るのか。魔女の凄さを改めて思い知るのである。
最後の一枚を素早く書き終えて、望は自分が作った三枚の呪符を小さな棚にしまった。そこには、彼が作った様々な用途の呪符が積み重なっている。
「今日の夜、悪いけど付き合ってもらうぜ」
限りなく低いが、封印が失敗する可能性はゼロではない。人のいない夜に行うのが基本だ。
「・・・・ん」
心ここにあらずといった様子でヒギナは喉を鳴らした。
「だから、今のうちに寝ておいた方が良いぞ。というか俺が寝ている間にまた部屋を荒されても困るから、ヒギナも寝てくれ」
「ん」
やはりの生返事に、やれやれ、と呆れながら彼はベッドに寝転ぶのだった。