半妖(1)
3LDKが、夢の御殿に見える。
隣の住人のいびきが聞こえてくる薄い壁に、黴の蔓延る浴槽。痛んだ畳が、座るたびに皮膚に食い込み、疾駆する黒き生命体Gの住処があると思われる押入れは、何かをしまう気がおきないほど汚れている。見た目と家賃のあまりの安さから期待してはいなかったのだが、ここまで酷いとは予想外であった。
とはいえ、背に腹は代えられない。望にとって最も大切なものは自身の健康や快適な生活ではなく、お金だ。この古びたアパート選んだ決め手は、格安の家賃だった。
やはり不衛生さを感じる台所で野菜を炒める。先日までは、白菜とピーマンだけの涙ぐましいそれだったが、今日は色とりどりの野菜がフライパンの上で躍っていた。リリナから得たお金のおかげで、しばらくは生きていけそうだ。
後ろ姿をじっと睨みつけてくる妖さえいなければ。
ひしひしと感じる視線に、手元が狂いそうになる。有り得ないだろうが、妖の首筋に施された紋様の効力が解けたら自分はどんな目に会うのだろうと考えると怖気が走るのだ。
炊飯器が、高い音を上げ、ご飯が炊けたことを知らせる。その音に驚いたようで、妖は望を視界から外し、黄金色の円らな瞳を丸くさせて炊飯器を眺め、近づいた。
「気になる?」
しかし望が話しかけると、すぐさま敵意を表す。まるで野良犬だな、と思いながら彼は炊飯器の蓋を開けて、杓文字で白米を混ぜる。
その様子を、妖は距離をとって見つめる。興味はあるようだが、望には近づきたくないようだった。
ちゃんと炊けていることを確認して、茶碗によそう。野菜炒めをおかずにして、このアツアツの白米を食べることこそが、彼にとっては一日を乗り越えた証であり、至福なのだ。
手を合わせ、いただきますと言葉にしてから野菜炒めに箸をつける。
妖が口を軽く開け、人間にはない、鋭利な白い牙を覗かせた。望に敵意を向けているわけではなく、美味しそうな匂いに対する自然の反応だ。
「・・・食べる?」
野菜炒めと白米から目を離すその動きはどこか辛そうであったが、やはり望の好意には応えない。
だが、全くコミュニケーションがとれないかといって諦めるわけにもいかない。その原因は皮肉にも、リリナの施した紋様にある。彼女は紋様の効力を、首輪付きリードと表現した。
首輪は、妖としての力を奪う効力と、人に対して直接的な害を及ぼせないようにする効力。リードは、望を中心として一定の距離以上離れられない効力である。いくら人に直接的な害を及ぼせないとはいえ、人の世界の常識を知らない妖を野放しにするわけにはいかない。そうリリナに言い包められて、彼は妖を縛る楔となっているのだ。
四六時中一緒にいなければいけない相手に、無視し続けられるのは心苦しい。それが例え、妖であっても。だから彼は出来るだけ友好的な態度で接しようと心がけるのだが、少女にしか見えない妖にその気はない様だ。
心が通い合えば離れられる距離が伸びるよ、と説明したリリナ。その唇の両端が軽く吊り上がっていたのを望は見逃さなかった。何か意図があるのか、それとも何も考えてないのか。少なくとも、彼女が楽しんでいることだけは確かだ。
やはり自分は不幸の星の下に生まれたのだと気分を落す彼の耳に、ゴソゴソと何かを探るような音が届いた。まさか、と冷や汗を流しながら、この部屋に相応しくない清潔感溢れる白いベッドをまず見る。それから安堵の息をついて、部屋を見回した。
台所の近く、炊飯器と電気ポットに挟まれた冷蔵庫の扉が開けられている。その前で妖が、生のニンジンを銜えて仁王立ちしていた。
「お前、何やってるんだ・・・!?」
「ヒギナ」
真っ二つに噛み砕かれたニンジンが、畳に落ちる。腰まで伸びる金色の長髪を揺らし、見下すような冷ややかな目で望を捉えた妖が初めて彼に発した言葉。
「ヒギナ?名前か?」
「そう」
それは、名前だった。
「じゃあ、ヒギナ。何で冷蔵庫から勝手にニンジンを取り出して、食べているんだ?」
「お腹が空いたから」
さも当然のようにそう言う。だが望は納得できない。
「ちゃんと聞いただろ?食べるかって」
「毒が入っているかもしれない」
「俺が食べていただろ」
「人間が手をつけたものなんて、口に入れたくもない」
床に落ちたニンジンを拾い上げ、口に放りこむ。全く悪びれないその態度、よりかはかけがえのない食糧を無断で食べられたことに望は怒りを覚えていた。
ジーパンのポケットから、長方形の紙を取り出す。それは、リリナが彼に渡した二つの呪符の内の一つである。ヒギナの首筋の紋様と同じ紋様がその呪符には描かれていた。
それをヒギナに見せつけると、彼女はビクリと体を震わせ首筋に手を当てる。
「それは・・・!」
「痛い目に合いたくなかったら、とっとと座って俺の作った野菜炒めを食うんだな」
首筋の紋様を通して妖に苦痛を与える呪符は一度使われている。ヒギナが彼の家にいるのは、距離の関係だけでなく、その呪符によるところが大きい。これがなければ彼女はずっと家の外にいただろう。
ヒギナの瞳が揺れる。逡巡し、卓袱台の上で食べて下さいと美味しそうな匂いを漂わせる野菜炒めを見る。それから渋々とその前に座り、躊躇いの後に箸を無視して直接口で喰らった。
「!」
「美味いだろ?」
口にし、固まるヒギナ。目を瞬かせながら野菜炒めを見つめ、それからどうだと言わんばかりに笑む望に顔を向ける。
「別に」
そうは言ったが、食すその勢いが衰えることは無い。あっという間に完食してしまったヒギナは、少々ばつが悪そうに顔を赤らめて俯いた。そんな彼女の前に望は、熱いお茶を差し出す。
「心配するなよ。毒なんて入れてないから」
鼻を鳴らして匂いを確かめるヒギナに、望は肩を竦めてお茶を勧める。怪訝そうに彼を見つめるヒギナの疑心はやはり晴れていないようだが、それでも彼女は黙ってお茶に口をつけた。
沈黙が訪れる。会話をすることに成功すると、却ってこの沈黙が重く感じられる。望としては、聞きたいことが多々あるのだが、どうにもまだ質問に応えてくれそうな感じではない。
何と話しかけようかと迷う彼だったが、意外にも先に話しかけたのはヒギナだった。野菜炒めの汁で濡れた桜色の小さな唇を開いて、彼女は望に問う。
「どうしてあの刀を見つけることが出来た?」
「あー」
頭を掻く。彼女の言葉の意味するところは理解できる。彼女が憑いていた刀、刃無しの妖刀は、魔女の住んでいるあのおんぼろ屋敷の様に、普通の人間の目に止まらないようにする結界でとある山奥のほら穴に隠されていた。
「いろいろあって、俺は不思議なモノやことに対する察知能力をもってしまったんだ。犬も歩けば棒に当たる、と言うが俺の場合は歩いていたら自然と不思議なモノや事に当たってしまうんだよ」
「・・・そう」
望はふぅ、と息を吐く。自分の力に関しては、あまり深く突っ込まれたく無いようだ。
「俺も聞くけど、どうしてヒギナはあの刀に憑いていたんだ?」
「答える義理はない」
「お前、俺に聞いておいて・・・」
あまり期待はしていなかったが、バッサリ切られると文句の一つでも言いたくなる。その心を抑え、食べ終えて空になった皿を台所に持って行き、洗い始める。
「あれで、無理やり聞きだしたりしないのか?」
あれ、とは呪符のことだろう。それを一度使った時、ヒギナは端正な顔立ちを苦痛で一杯に歪ませている。それはその効力が絶大なものであることを示すと共に、望の良心を傷つけるものであった。
「誰にだって、言いたくないことの一つ二つはあるだろ」
ヒギナは答えなかった。ただじっと、望の背中を見る。彼が料理を作っていた時の様な殺気はない。見下すような、冷ややかな目でもない。観察するような、探るような視線だった。
食器を洗い終えると、雨音が聞こえてきた。水道から流れる水の音で、今まで雨が降ってきたことに気付かなかったのだ。慌てて、ベランダに行き洗濯物を家の中に入れる。
そこで気がついた。彼は一人暮らしをしていて、性別は男である。当たり前のことだが、女物の服なんか持っていない。持っていたらとしたら変態だ。
そう、ヒギナの替えの服が無いのだ。彼女とどうやってコミュニケーションを取ろうか、とその事ばかりを考えてすっかり失念していた。恐らく彼女は全裸でも気にしないのだろうが、望はそうもいかない。また、もしアパートの住人や近所の人に全裸の少女と住んでいると知られたら、社会的に抹殺されてしまう。
かといって女物の服を買いに行くとなるとお金が必要になるし、買いに行くのも恥ずかしい。
「仕方ない」
家の中に洗濯ものを吊り終えて彼は飾り気のない携帯電話を取り出した。パソコンやテレビなどの電子機器は持っていない望だが、携帯電話だけは持っている。
登録件数の少ないアドレス帳から姐御と書かれた名前を選択し、発信するべくボタンを押そうとする指は、しかししばらくふらふらと宙で揺れていた。御近所で噂になる方が良いのか、それとも女物の服を下さいと頼んだ方がいいのか、究極の二択を決めかねる。
「仕方、ない。うん」
彼は決意し、ボタンを押して、その人物に電話を掛ける。六コール後、聞こえてきた声は快活だった。
「久し振りだな、舎弟二十七号。お前が私に電話を掛けてくるなんて、珍しいこともあるもんだ。先に言っておくが、お金は貸さないからな?」
「ああ、どうしようもなく奏さんだ」
高校の先輩であった音在奏の、音在奏である所以は電話越しからでもはっきりと伝わって来る。望はその明朗闊達な性格が少し苦手だ。好人物なのだが、相手にすると非常に疲れるのである。
「それで、どうしたんだ?」
「ええ、ちょっといろいろありまして・・・いらなくなった服とか、ないですか?」
「・・・・」
流石の奏も、二の次が告げないようだった。久し振りに会話する男の後輩から、女物の服を譲ってくれないかと頼まれれば、それも当然の反応だ。
「ええと・・・確かに私は昔から女の子にもてているが、生物学上は女だぞ?」
「ええ、知っています」
長い長い、息を吐く音。
「まぁ、まだ人生は長いさ。辛いこともあるだろうが、そう気を落すな」
そして切られる電話。完全に、痛い人扱いだ。
電話を掛け直す。だが、話し中であるツー、という音がずっと流れ続けるのみだ。どうやら着信拒否されたようだ。
膝を畳につき、項垂れる。かつてない恥辱に、魂が抜け出たかのようだ。
数十秒後、携帯が震える。恐る恐る画面を見て、それが奏からの着信であることを確認した望は、一回深呼吸をしてその電話に出た。
「も、もしもし」
「110番か119番かで迷ってな。どっちが好みか聞いておこうと思って掛け直したんだが・・・どっちが良い?」
「どっちも勘弁して下さい・・・」
全力で懇願する望。奏はふむ、と唸った。
「で、何で私の服が必要なんだ?売りに行く、とかだったら許さんぞ」
「貧乏な俺でも、そんなことはしませんよ」
「では何故・・・ま、まさか・・・」
とてつもなく嫌な予感がした。
「ま、まぁ二十七号もそれなりの御年頃だし、私にとやかく言う権利はないが・・・まぁ、何だ」
奏に似合わない熱っぽい声が望の頭を揺さぶる。実際、携帯電話から人の声がすることに驚き、興味津々といった様子で触ろうとするヒギナに頭を揺さぶられてはいるのだが。
「わ、私のより、もっと実用性が高いモノがあると思うのだが」
「実用性って・・・何を想像しているか分かりませんが、恐らくきっと多分絶対違います!」
息を荒げて否定する。奏は、ちょっとした冗談じゃないか、と可笑しそうに言って、続ける。
「分かったよ。もう着ることが出来なくなった服なら、あげても良いぞ」
「本当ですか!」
「ああ。二十七号には借りがあるしな。その借りを返せるなら、安いもんだ」
「ありがとうございます!」
それから会う日時を決めて、望は電話を切り、卓袱台の上に放る。すかさずヒギナはそれを手に取り耳に当て、それから小首を傾げた。
教えなくてはいけないことが、たくさんありそうだ。望はベッドの上に寝そべりながら、どう教えたものかと考え始める。その内に睡魔がやってきて、今日という日に疲弊しきっていた体はそれを従順に受け入れ、深い眠りにつくのだった。
「な、何が起こったんだ・・・!」
翌朝、冷たく清々しい空気と小鳥の囀りに起こされた望だったが、ベランダに通じるその窓を開けた覚えはなかった。もっとも、おかしいのは窓だけではない。部屋が、泥棒に入られたのかと勘違いしてしまうほどに荒らされていた。
畳に飛び散った様々な物。醤油差し、印鑑、手帳、単行本、など数えるときりがない。箪笥はどこもかしこも開けられ、美しく収納されていたはずの服が、ぐちゃぐちゃになっている。
その元凶と思われる妖の少女は、冷蔵庫の前で安らかな寝息をたてて眠っていた。
頬が痙攣する。ヒギナに激痛を与える呪符には妖用の結界が張られてあり、彼女がそれをどうにかすることはできない。だから、眠ってしまっても大丈夫だろうと睡魔に囁かれ、それを受け入れたのだが、甘かったようだ。
だが何より問題なのは、冷蔵庫の前で眠っているという事実だ。背筋を走る悪寒。彼は意を決し冷蔵庫の扉を開けた。
「・・・あれ?」
だが、冷蔵庫の中が荒らされたような形跡はなかった。どころか、食材が減っているわけでもない。
「ん・・・」
冷蔵庫が開閉される音で目が覚めたヒギナが、上半身を起こして、背を伸ばした。焦点の定まらない目を擦り、ぼんやりと辺りを眺める。そして近くに望がいることに気が付くと、畳を蹴り素早く後ろに下がって威嚇するように四つん這いになり、低く唸った。
「よくも部屋を荒らしてくれたな」
ヒギナに、一歩近づく。すると彼女は一歩後退する。それが二、三回ほど続けられたが、狭い部屋が彼女の退路を奪う。
逃げ道はない。そう悟った彼女は望に飛びかかった。が、そのすぐ前で壁があるかのように勢いを殺され地に着いてしまう。
「昨日リリナさんに言われただろ。人間に直接的な危害を及ぼすことはできないって」
伸ばされる手。ヒギナはぐっと強く目を瞑った。
額が望の指によって軽く弾かれる。だが、それだけだった。もっと強い衝撃か、或いは呪符による激痛か、とにかくその二つを身構えていた彼女にとって、それは予想外の衝撃だった。
「ちゃんと、いろいろ教えてやるよ。部屋を荒らさなくてもいいようにな」
「・・・ふん」
初めて彼女が、自分から顔を背けた。望は時計を見ながら荒らされた部屋を片付け始める。奏との約束の時間まで後二時間。それまでに部屋の片づけをと身支度をするのは中々困難だ。遅刻しても気にせず許してくれそうな人ではあるが、それは彼のプライドが許さない。
「・・・そういえばヒギナ、お前シャワーの使い方とか、分かるか?」
「シャワー?食べ物か?」
どうやらお風呂にお湯を張る時間も必要なようだった。