婚約破棄代行、承ります
「それでは、婚約破棄の意思を正式にお伝えいたします」
「ありがとうございます。ほんと、あの方のお顔など見たくもないですから、」
私がそういうと、業者の女性が一礼して部屋から出ていった。
それにしても、長かった。これで、私も自由になれるのか。ほんと、便利な世の中になったものだ。
(王子グラシエル目線)
王宮の応接室。
王子グラシエルの前に、一人の女性が座っていた。
黒い服に身を包み、手元には書類の入った鞄。表情は落ち着いており、王子を前にしても少しも動じていない。
「……何の話だ?」
「婚約破棄についてです。依頼人であるエレノーラ・ヴェルネ様は、グラシエル殿下との婚約を解消する意思を固められました。本日は、その正式な通告に参りました」
「は?」
王子は思わず聞き返した。
婚約破棄?
自分がエレノーラとの婚約を破棄するのではない。
エレノーラが、自分との婚約を破棄する?
しかも、本人ではなく見知らぬ女がやってきて?
「待て! エレノーラはどうした!」
「依頼人は本件について、私どもに一切の窓口業務を委任されております。今後のご連絡はすべて弊社宛てにお願いいたします」
「ふざけるな! 本人を連れてこい!」
「申し訳ございません。依頼人は殿下との直接の交渉を希望されておりません」
「私は王子だぞ!」
「承知しております。ですが、婚約破棄の意思は変わらないとのことです」
女性は淡々と書類を差し出した。
そこには、婚約解消の通知と、婚約に伴って発生していた契約の清算について記されていた。
「なお、婚約解消に伴う贈答品の返還、両家間の契約の確認、その他必要な手続きにつきましても、弊社が担当いたします」
「そんなもの、認めるわけがないだろう!」
「ご意見は承りました。正式な異議申し立てにつきましては、こちらの書面をご利用ください」
王子は絶句した。
目の前の女は、怒鳴っても、脅しても、まったく動じない。
まるで自分を、王子ではなく、ただの依頼案件として扱っているかのようだった。
「……そもそも、婚約破棄代行とは何なのだ!」
「ご説明いたします」
女性は鞄からパンフレットを取り出した。
婚約破棄代行。
婚約関係の解消を希望する依頼人に代わり、相手方への意思表示、連絡窓口の一本化、条件交渉、返還物の整理などを引き受けるサービスである。
「婚約関係において、当事者同士の話し合いが困難な場合にご利用いただいております」
「つまり……エレノーラは、私と話すことすら嫌になったというのか?」
「依頼人の心情について、私から申し上げることは差し控えます」
「くっ……!」
王子は初めて、自分が何をされたのか理解した。
婚約者から別れを告げられただけではない。
別れ話をすることすら拒否され、専門業者を通じて関係を終わらされたのだ。
「エレノーラに伝えろ! 私はこの婚約破棄を認めない!」
「かしこまりました。ご意見として記録いたします」
女性は一礼し、書類の控えを鞄にしまった。
「それでは、今後ともよろしくお願いいたします」
「よろしくなどするものか!」
王子の怒声を背に、女性は静かに応接室を退出した。
こうして、エレノーラとグラシエルの婚約破棄は、本人同士が顔を合わせることなく始まった。
そして王子は、まだ知らなかった。
この婚約破棄が、彼にとって長く、面倒で、そして何よりも屈辱的な手続きの始まりにすぎないことを。
翌日。
王子グラシエルは、エレノーラの屋敷を訪れた。
「エレノーラを出せ!」
玄関先で怒鳴る王子を、執事が困惑した顔で迎えた。
「申し訳ございません。お嬢様はご不在です」
「嘘をつくな! いるのだろう!」
「いえ、本日は婚約破棄代行業者との打ち合わせに出かけております」
「またあの女か!」
王子は歯ぎしりした。
昨日の代行業者に話を聞こうとしても、返ってくるのは「依頼人の意向により、すべて弊社を通じてご連絡ください」という言葉ばかり。
エレノーラ本人と話すことすらできない。
「いいか! 私は王子だぞ! 婚約者と話す権利くらいある!」
執事は困ったように首をかしげた。
「殿下は昨日、婚約破棄の通告を受けられたのではありませんか?」
「それがどうした!」
「婚約者ではなくなったのであれば、なおさらお嬢様のご意思を尊重すべきかと」
「貴様……!」
王子が一歩踏み出した、そのときだった。
「お客様、当家の使用人に対する威圧的な言動はお控えください」
いつの間にか、あの黒服の女性が玄関に立っていた。
「お前は!」
「婚約破棄代行業者の担当者です。本日は、依頼人への直接接触を控えていただくよう、改めてお願いに参りました」
「ふざけるな! エレノーラを出せと言っている!」
「ご要望は承りました。しかし、依頼人は殿下との直接の面会を希望されておりません」
「私が会いたいと言っているのだ!」
「はい。殿下のご希望と、依頼人のご希望が異なっていることは理解しております」
「だったら会わせろ!」
「お断りいたします」
女性は一歩も引かなかった。
「なっ……!」
「それでは、失礼いたします」
「待て! 話はまだ終わっていない!」
「今後のご連絡は書面にてお願いいたします」
女性は執事に一礼し、王子を残して屋敷の中へ入っていった。
「な、なんなのだ、あの女は……!」
王子は、玄関の前で立ち尽くすしかなかった。
その日の夕方、グラシエルは王宮へ戻った。
「父上! 母上! 大変なことになりました!」
「どうした、騒々しい」
国王は書類から顔を上げた。
「エレノーラが、私との婚約を破棄すると言い出したのです!」
「……そうか」
「そうか、ではありません! しかも、わけのわからない業者を雇って、私に会おうともしないのです!」
王妃が静かに尋ねた。
「あなたは、エレノーラ嬢に何をしたのですか?」
「何をしたも何も、私は何もしておりません!」
「本当に?」
「当然です!」
王妃は深いため息をついた。
「グラシエル。あなたは以前から、エレノーラ嬢が何を言っても聞こうとしませんでしたね」
「それは、私が王子だからです!」
「……その考え方が問題なのです」
国王は書類を机に置いた。
「実は、エレノーラ嬢のご両親からも連絡があった」
「なっ……!」
「婚約破棄の意思は固く、今後の連絡は代行業者を通してほしいとのことだ」
「父上まで、あの女の味方をするのですか!」
「味方も何も、婚約破棄を決めたのはエレノーラ嬢だ。本人が望まないのであれば、無理に婚約を続けさせることはできん」
「しかし!」
「グラシエル」
国王の声が低くなった。
「お前は、自分が何をしてきたのか、本当にわかっていないようだな」
王子は口を閉じた。
国王は続けた。
「エレノーラ嬢は、三年間、お前の婚約者として十分に務めを果たしてくれた。お前が約束を破っても、彼女は公の場でお前を辱めることはなかった。お前が他人に迷惑をかけても、彼女はできる限り後始末をしてくれた」
「それは婚約者として当然のことでしょう!」
「当然ではない!」
国王の怒声が響いた。
「お前は、誰かが自分のためにしてくれることを、すべて当然だと思っている!」
王妃も悲しそうに目を伏せた。
「私たちは、あなたがいつかそのことに気づいてくれると信じていました。けれど、あなたは最後まで変わらなかった」
「母上……」
「もう、エレノーラ嬢に迷惑をかけるのはやめなさい」
「しかし、私は……!」
「これ以上、婚約破棄代行業者から苦情が届くようであれば、王太子としての資質を改めて問わねばならない」
王子は、何も言い返せなかった。
初めて、両親までもが自分の味方ではないことを思い知らされたのだった。
それから一週間後。
王子のもとに、分厚い書類の束が届いた。
差出人は、もちろん婚約破棄代行業者である。
表紙には、こう記されていた。
『婚約解消に伴う清算事項一覧』
第一項。婚約指輪の返還。
第二項。婚約記念品の返還。
第三項。婚約者として出席した公的行事に関する費用の精算。
第四項。両家間で婚約を前提に締結された契約の見直し。
第五項。その他、婚約関係の解消に伴う諸手続き。
「……なんだ、これは」
王子はページをめくった。
めくっても、めくっても、書類が終わらない。
しかも、項目ごとに確認事項が細かく記されている。
「こんなもの、すぐに終わるだろう!」
王子は書類を机に叩きつけた。
しかし、その翌日。
代行業者から、追加の確認事項が届いた。
さらに翌日には、返還品の一覧表に不備があったとして、再提出を求められた。
その次の日には、両家の契約について、専門家を交えた協議の日程調整が始まった。
「いつになったら終わるのだ!」
王子は頭を抱えた。
これまで、エレノーラがどれほど細かな仕事を引き受けていたのか、彼は知らなかった。
贈答品の管理も、行事の調整も、両家の間の連絡も。
彼女は、それらをすべてこなしていたのだ。
そして今、その仕事がすべて自分のところへ戻ってきた。
「……エレノーラは、いつもこんなことをしていたのか?」
王子は初めて、彼女の存在を思い出した。
しかし、もう遅かった。
ついに我慢できなくなった王子は、代行業者の事務所へ乗り込んだ。
「責任者を出せ!」
受付の女性は、落ち着いた声で答えた。
「ご予約はございますか?」
「予約だと? 私は王子だぞ!」
「恐れ入りますが、当事務所では王族の方も一般のお客様と同じ手順でご案内しております」
「ふざけるな!」
「大声での威圧的な言動はお控えください。続く場合は、ご退室をお願いすることになります」
王子は怒りで顔を赤くした。
「私はエレノーラに会いたいだけなのだ!」
「そのご要望は、すでに何度も承っております」
「だったら会わせろ!」
「依頼人は面会を希望されておりません」
「なぜだ!」
受付の女性は、一瞬だけ困ったような表情を浮かべた。
「……それを、私どもにお尋ねになりますか?」
王子は言葉を失った。
彼女の言うとおりだった。
なぜエレノーラが会いたくないのか。
それは、彼自身が一番よく知っているはずだった。
「……私は、ただ」
「はい」
「ただ、もう一度話をしたいだけなのだ」
受付の女性は、静かに頭を下げた。
「そのお気持ちは、依頼人にお伝えいたします。ただし、面会をお約束することはできません」
王子は肩を落とした。
初めて、誰かに自分の願いを拒まれることが、こんなにも苦しいのだと知った。
(エレノーラ視点)
一か月後。
エレノーラのもとに、代行業者から最終報告書が届いた。
婚約破棄の通告は完了。
贈答品の返還も完了。
両家間の契約の見直しも完了。
残る事務手続きも、すべて終了した。
私は報告書を読み終え、ゆっくりと息を吐いた。
「これで、本当に終わりですね」
担当者は微笑んだ。
「はい。ご依頼いただき、ありがとうございました」
「こちらこそ。自分では、どうしても言い出せなかったものですから」
「そのためのサービスですから」
私は窓の外を眺めた。
もう、王子の機嫌をうかがう必要はない。
王子のために予定を変更する必要もない。
誰かの失敗を、自分の責任として引き受ける必要もない。
これからは、自分のために時間を使える。
「……あの、ひとつお聞きしても?」
「はい、何でしょう」
「婚約破棄代行を利用する方は、ほかにもいらっしゃるのですか?」
担当者は、少しだけ笑った。
「ええ。最近はお問い合わせが増えております」
「そうなのですか」
「婚約関係に限らず、人間関係を終わらせることに悩んでいる方は多いですから」
なるほど。
私は頷いた。
「では、今後も頑張ってくださいませ」
「ありがとうございます」
担当者が帰ったあと、私は報告書を机にしまった。
婚約破棄は、決して簡単なことではない。
けれど、終わらせることを決めた人間が、最後まで相手の機嫌を取る必要もないのだ。
私は立ち上がり、窓を開けた。
春の風が、部屋に吹き込んできた。
ようやく、私の人生が始まる。
そう思った。




