CRASH
金曜日の夜だった。
オフィスビルの明かりは、まだ半分以上が点いている。
拓海はエレベーターを降りると、肩に掛けていたノートパソコンのバッグを下ろし、大きく息を吐いた。
「また最後まで残ってたの?」
聞き慣れた声に振り返る。
自動販売機の前に沙織がいた。手には缶コーヒーが2本ある。
「そっちこそ」
「私はもう帰るところ。はい、お疲れさま」
差し出された1本を受け取る。
「ありがと」
「今日の結果、悔しかった?」
拓海の指がプルタブにかかったところで止まった。
今日行われたのは、会社が年に1度実施している新商品アイデアコンテストの最終プレゼンだった。
部署や職種を問わず社員が応募でき、採用されれば実際の商品化が検討される。
最終選考に残った5案には、拓海と沙織がそれぞれ個人で出した企画もあった。
採用されたのは、沙織の企画だった。
「悔しくないって言ったら嘘になる。でも、お前の企画のほうが良かったよ。最後のプレゼン聞いて、これは負けたなって思った」
「珍しい。拓海が素直に負けを認めるなんて」
「負けた上に嫌味まで言われるのか」
「褒めてるんだけど」
沙織が笑い、拓海もつられて笑った。
2人は同期入社だった。
営業企画部の拓海と、商品企画部の沙織。
初めて会ったのは7年前の4月、入社式の日だ。
式を終えた新入社員たちが研修室へ移動したとき、拓海の隣の席に沙織が座った。
『ここ、いいですか?』
『どうぞ』
『ありがとう。佐伯沙織です』
『水野拓海。よろしく』
最初は、それだけだった。
ところが午後のグループ研修で同じ班になり、印象はすぐに変わった。
よく笑う人から、遠慮なく意見を言う人へ。そして、簡単には引かない人へ。
拓海の提案に最初に真正面から反論したのも沙織だった。
腹が立った。
同時に、面白いとも思った。
配属先は別々になったが、2人の関係は途切れなかった。
沙織が考えた商品企画に拓海が販売側から意見を出し、拓海がまとめた市場分析に沙織が企画側から注文をつける。
仕事以外でも同期の飲み会ではよく話した。
気づけば周囲から「また2人でやってる」と笑われるようになった。
「何?」
沙織の声で拓海は我に返った。
「入社した頃のこと思い出してた」
「どうして急に?」
「お前、研修初日から遠慮なかったなと思って」
「拓海にだけは言われたくない。私の案に『面白いけど、誰が買うの?』って言ったでしょ」
「そんな言い方したっけ?」
「した。何、この人って思ったもん」
「最悪の第一印象だな」
「そうでもないよ。少なくとも、気になる人ではあったから」
拓海は沙織を見る。
「それ、どういう意味?」
「7年前の話。自分で考えて」
沙織はコーヒーを一口飲み、それ以上は教えてくれなかった。
翌週。
沙織の企画を商品化するためのプロジェクトチームが発表された。
「……ちょっと待って」
社内ポータルを見ていた沙織が、隣の拓海を見た。
商品化プロジェクトリーダー、水野拓海。
商品企画担当、佐伯沙織。
「何で拓海がリーダーなの?」
「その言い方、地味に傷つくな」
「そうじゃなくて。これ、私が出した企画でしょ?」
「分かってるよ。俺だって名前を見たときは驚いた」
コンテストで評価されたのは、あくまで沙織のアイデアだ。
しかし実際に商品として市場へ送り出すには、原価や価格、販売計画、営業部門との調整など、企画とは別の仕事が必要になる。
営業企画で複数の商品立ち上げに関わってきた拓海には、全体をまとめる役割が与えられた。
「商品そのものはお前が中心だよ。俺は営業や市場調査も含めて、商品化までの全体をまとめる」
「……私の企画なのに」
「そこは変わらないって」
沙織はまだ納得しきれない顔をしている。
「勝手に変えないでよ」
「必要なところは変える」
「ほら。そういうところ」
「始まる前から喧嘩するなって」
「誰のせいよ」
拓海は苦笑した。
そして、その予感は見事に当たった。
プロジェクトが動き始めると、2人は何度も衝突した。
沙織は採用された企画の魅力を守りたい。
拓海は市場調査や営業からの意見を反映し、実際に売れる商品へ仕上げたい。
目指す場所は同じなのに、そこへ向かう方法が違った。
「このパッケージは変えたくない。コンテストでも、商品の世界観が伝わるって評価された部分だから」
会議室で沙織が言う。
拓海は市場調査の資料を開いた。
「でもターゲット層への調査では、何の商品なのか分かりにくいって意見が多い。営業からも同じ指摘が来てる」
「だからって説明を増やしたら、他の商品と同じに見えるよ」
「売り場で手に取ってもらえなきゃ、その特徴を知ってもらうところまで行かないだろ」
「分かってる。でも拓海は売りやすさを優先しすぎ。私が作りたかったものから、どんどん離れてる」
「商品として成立させるのが俺の役割だからな」
「だったら、私の企画じゃなくてもよかったじゃない」
会議室が静かになった。
拓海も言い返しかけたが、周囲のメンバーの表情を見て思いとどまった。
「……10分休憩にしよう」
廊下へ出ると、少し遅れて沙織もやってきた。
「怒った?」
「少し」
「私も。でも、さっきのは言いすぎた。ごめん」
「俺も言い方が悪かった。お前の企画を別物にしたいわけじゃない」
「分かってる」
沙織は小さく息を吐いた。
「拓海だから、余計にムキになるのかも」
「何で?」
「認めてもらいたいから」
思いがけない言葉に、拓海は黙った。
「入社してからずっとそう。拓海が相手だと、負けたくないし、適当な仕事をしたくない。ちゃんと見てほしいって思う」
「それ、俺も同じかもしれない」
「え?」
「お前が相手だと、こっちも本気になる」
沙織は少し驚いたあと、照れたように笑った。
「じゃあ、似た者同士か」
「認めたくないけどな」
「私も」
2人は笑って会議室へ戻った。
プロジェクト開始から1か月。
試作品が完成した。
社内での評価は高く、2人も手応えを感じていた。
しかし外部モニター調査では、予想を大きく下回る結果が出た。
商品の特徴が伝わらない。
ターゲットが曖昧。
購入したいという回答も、想定を大きく下回った。
企画は一度白紙に戻された。
会議終了後も、沙織は席を立たなかった。
「帰らないのか?」
「拓海こそ」
「リーダーだからな」
「私は発案者だから」
沙織は資料を見つめたまま続けた。
「私のせいだね。拓海が変えようとしたところも、かなり押し切った」
「違う」
「でも――」
「お前1人の責任じゃない。最終判断したのは俺だ」
拓海は向かいの椅子に座った。
「俺たち、相手に負けないことばかり考えてたんじゃないか?」
沙織が顔を上げる。
「お前は企画を守ろうとして、俺は自分の判断が正しいって証明しようとした。相手の意見を聞く前に、否定する理由を探すようになってた」
「……悔しいけど、その通りかも」
「まだ悔しいのかよ」
「拓海に正論言われるのは悔しい」
「そこ?」
「そこ」
沙織が少しだけ笑った。
「やり直そう」
「白紙だよ?」
「だからいい。今度は俺の案でも、お前の案でもない。2人で作ろう」
沙織はしばらく拓海を見つめ、それから頷いた。
「うん。一緒に作ろう」
会社を出ると、夜の街には仕事を終えた人たちが行き交っていた。
駅へ向かって歩いていると、沙織がふいに口を開いた。
「私、入社式の日のこと、結構覚えてるんだ」
「さっきも話しただろ」
「研修で拓海に反論されて腹が立った。でも配属先が別だって知ったとき、ちょっと残念だった」
「それは初耳」
「それからも、拓海が結果を出すと悔しかった。でも誰かに褒められてると、少し嬉しかった」
沙織は前を向いたまま続ける。
「変だよね。ライバルなのに」
「俺も似たようなもんだよ。お前が社内表彰されたとき、本気で悔しかった。でも他の同期に負けるより、お前に負けるほうが納得できた」
「それ、褒めてる?」
「かなり」
「分かりにくいなあ」
「あと、お前が会議にいると面倒なのに、いないと物足りない」
「それは全然褒めてない」
沙織が笑う。
その横顔を見ながら、拓海はようやく気づいた。
ライバルだから気になっていたのではない。
気になっていたから、誰より負けたくなかった。
「沙織」
「何?」
「今から飯、行かないか?」
「打ち合わせ?」
「仕事の話は禁止」
沙織の足が止まった。
「それって……デート?」
「そのつもりで誘ってる」
今度は誤魔化さなかった。
沙織は少しだけ目を丸くし、それから笑った。
「入社して7年もかかったね」
「悪かった」
「私、結構待ったんだけど」
「……待ってたの?」
「そこまで言わせる?」
「いや。ごめん」
「だから、そこで謝らない」
沙織が拓海の隣へ戻ってくる。
「行こう。明日休みだし」
「仕事の話は禁止な」
「破ったほうが奢りね」
「それなら絶対勝つ」
「また勝ち負けにする」
肩がわずかに触れた。
これまで何度も同じ距離を歩いたはずなのに、今日は妙に近く感じる。
「拓海」
「ん?」
「私、最初に会った日の『気になる人』って、たぶんずっと変わってなかった」
拓海は思わず沙織を見る。
「それ、今言う?」
「さっきのお返し」
「じゃあ俺も言っていい?」
「何?」
「俺もだよ」
沙織は一瞬黙り、それから照れ隠しのように前を向いた。
「……遅い」
「7年だからな」
「長すぎ」
それでも、沙織は笑っていた。
7年前の入社式。
偶然隣に座ったところから始まった。
何度も競い、何度も衝突し、それでも互いから目を逸らさなかった。
ぶつかることは、壊れることではない。
衝突したからこそ、初めて見えるものもある。
2人の間で本当に壊す必要があったのは、ライバルという言葉で隠してきた気持ちだったのかもしれない。
それが今夜、ようやく音を立てて崩れた。
――CRASH。
「何食べる?」
沙織が聞く。
「何でもいい」
「それ一番困る答え」
「じゃあ沙織が決めて」
「私が決めたら文句言わない?」
「今日くらいは」
「明日からは言うんだ?」
「たぶん」
「やっぱり腹立つ」
そう言いながら、沙織は笑っていた。
拓海も笑う。
仕事では、これからもきっとぶつかる。
けれど今夜からは、隣にいるその人をライバルと呼ぶだけでは、もう少し足りなかった。




