お熱いのがお好き
抗争、虐殺、逃走劇。日常を切り裂く悪夢から走って走って必死に逃げて、恐怖と緊張で喉が焼けつくように渇いていた。
なんで俺がこんな目に、ただ見てしまっただけなのに。俺は関係ない、俺は何にもしてない。叫びたいのに声すら出ない。
遠くに見える人影――それは付き合って二年になる菜々花の後ろ姿に見えた――に手を伸ばすけれど、水面の波紋みたいに揺らいだ彼女の輪郭は、俺の指先が触れる寸前に崩れ落ちて消えてしまった。
スマホのアラームが鳴り響く。
重たい瞼を押し上げると、見慣れた六畳間の天井があった。カーテンの隙間から冬の冷たい光が差し込んでいる。
「……夢だ」
自分に実感させるために言葉にした。夢の中と同じくらい、喉が渇いている。
ろくでもない夢。そう思いながらアラームを止めるが、胸の奥には奇妙な不安が残っていた。
ああ、今日は十四日。惨劇の二月十四日だ。
だからといって夢の中でギャングに追われることはないだろうに、もっと甘い夢を見て目覚めたかった。
世間が浮き足立つはずのバレンタインデーにしては、なんとも不吉なスタートだ。
付き合い始めて二年の冬。去年の末から仕事が急に増えて、クリスマスも年越しも初詣も菜々花のために時間を割けず、ここ二週間ほどは連絡すらまともにできていなかった。
昨夜送った『明日ちょっと会える?』という明らかに下心のあるメッセージにもまだ既読がついていない。
――終わったかもな。
夢の余韻がネガティブな思考を加速させる。俺は間違ってもトニー・カーティスにはなれなくて、菜々花もマリリン・モンローではない。
この物語は何のオチがつくこともなく常に自然消滅する可能性があるのだった。
身支度を整えてアパートを出た。二月の寒風が容赦なくコートの隙間から忍び込んでくる。
駅前のコンビニに入ると、店内は赤やピンクの華やかなラッピングで埋め尽くされていた。
でかでかと掲げられた『HAPPY VALENTINE』のポップが今の俺にはちょっと熱烈すぎる。
逃げるようにレジ横のマシンに向かい、ホットのカフェモカを購入した。
きっと菜々花はつれない彼氏にチョコレートなんかくれなくて、でも自分で買うのも悲しいから、せめて目覚めのコーヒーのふりをしてカカオ豆を摂取する。
店を出て、かじかんだ両手で熱いカップを包み込む。一口飲めばココアの甘さとエスプレッソのほろ苦さが冷え切った体にじわりと染みた。
口の中に広がるチョコレートの香りが夢の味を上書きしていく。でもエスプレッソの苦さがずっと喉に残る。
いつもの東口の猫の下には、平日以上に恋人たちらしき姿が多い。そこに菜々花の姿は当然ながら見当たらなかった。
ポケットから取り出して薄目でスマホを見る。通知はない。
やっぱ、こないよな。
諦めてカフェモカを飲み干そうとカップを傾けた時だった。
「平坂くん!」
人混みを縫って聞き慣れた声が響いた。
一昨年のクリスマスに俺があげた大きめのマフラーに顔を埋め、菜々花が駆け寄ってくる。
「ごめん、寝坊しちゃって! 返信も寝落ちしてて起きてすぐ走ってきたか、ら……」
慌ててまくしたてたせいで冷たい空気が染みたのか、菜々花はぎゅっと目を閉じて息を整える。
「いいよ。俺もさっき着いたとこだし、っていうか、連絡できてなくて俺こそごめん」
目の前に菜々花がいる。ただそれだけなのに、付き合いたての頃みたいにとんでもなく感激してしまう。
菜々花は照れか寒さで頬を赤らめ、「じゃあこれでごめんのやりとりは終わりね」と笑った。
「はい、平坂くん。これあげる」
菜々花が鞄から取り出してきたのは、ラッピングもされてない、よりによって生ゴミみたいにナイロン袋に入れられた不揃いのチョコレートだった。
「……手作り?」
「そうだよ。ちゃんとかっこいい袋も買ってたのに、急いでたからさぁ」
「すげえ嬉しい。ありがと」
お互い素直に零れた言葉はまるで中学生じみた青臭さで、なんだか急に恥ずかしくなってきた。
外気に曝されて瞬く間にぬるくなってしまったカップに菜々花が目を留める。
「あ、カフェモカなの? 珍しいね、いつもブラックなのに」
「ん……まあな。ちょっと甘いものがほしかったんだ」
「ふーん? さては私のチョコが待ちきれなかったんでしょ」
「そんなとこだよ」
もしかしたら会えなくなるかもとびくびくしてたなんて、無粋なことを言う必要はないだろう。
残りのカフェモカを飲み干して、空になった紙カップをくしゃりと握る。駅に着いたら改札の向こうのゴミ箱に捨ててしまおう。
このほろ苦い後味が菜々花のチョコレートをもっと甘く感じさせてくれるに違いない。
「映画館と水族館、どっちにする? 前に話してたやつ、もう上映終わっちゃったと思うけど」
「そりゃ映画館! クリスマスのリベンジよ」
「バレンタインにまでホラーかよ」
「いいじゃない、今日ならカップル割もあるし」
笑いながら手を繋ぎ、並んで駅へ歩き出す。
波紋に揺らいだ今朝方のろくでもない夢は、熱い体温となって俺の手の中におさまった。




