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1LDKの吸血鬼  作者: 道永ひかり


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2/2

キャンドルとティー

冷え切った1LDKの室内に、カチリと鍵を閉める音が響く。

男はダウンジャケットを脱ぎ、寝室のクローゼットへと丁寧に吊るした。外ではただ、一刻も早く飢えを満たしたかった。それだけのことが、ようやく終わったのだ。


人心地ついた男は、リビングへ戻ると壁のスイッチに指をかけた。灯ったのは、眩しすぎる蛍光灯ではなく、部屋の隅々に配置された間接照明だ。計算された位置から放たれる暖色のライトが、こだわりの北欧家具を柔らかな陰影で浮き彫りにする。


「寒かった……」

ぽつりと、独り言が漏れた。


男は棚から小さなガラス瓶を取り出した。中にあるのは、お気に入りのアロマキャンドルだ。マッチを擦り、芯に火を灯す。

ゆらゆらと揺れる炎を見つめながら、男はかつての「夜」を思い出す。


かつて、夜を照らすのは獣脂タロウの蝋燭だった。牛や羊の脂肪を精製して作られたそれは、火を灯せば黒い煤が絶え間なく舞い、部屋中の壁や調度品を薄汚く汚した。何より、獣の脂が焼ける独特の生臭さが鼻を突き、吸血鬼としての鋭い嗅覚には耐え難い苦痛だった。芯の調節も難しく、放っておけば炎は大きく暴れ、不快な匂いと共に無残に溶け崩れていく。

その後、蜜蝋の蝋燭が普及したが、それは高価な贅沢品だった。貴族の館ならいざ知らず、日陰者である彼が手にするには少々ハードルが高い時代もあった。やがて十九世紀になり、石油からパラフィンワックスが抽出され、ようやく「夜」は少しだけ無臭で清潔なものになった。

それを考えれば、現代の、特に植物性ワックスでできたアロマキャンドルは魔法のような発明だ。

漂ってきたのは、鼻を突く脂臭さではなく、上品なベルガモットの香りだった。


ベルガモット。柑橘の爽やかさとフローラルな甘さを併せ持つその香りは、高ぶった神経を鎮め、抑うつを和らげる効能があるという。空腹による苛立ちを沈め、凍えた身体を「日常」へと引き戻すには、これ以上ない選択だった。煤も出ず、ただ穏やかに香りだけを解き放つ。かつての煤け、凍えていた不潔な夜を思えば、現代の技術がもたらしたこの小さな灯火は、至高の贅沢と言える。


男はそのままキッチンへ向かう。

彼は、この部屋にあるものに妥協をしていない。ソファの布地の質感から、カーテンの重み、床に敷いたラグの毛足の長さまで、数十年をかけて選び抜いたものばかりだ。

外に出ることが稀で、陽の光を避けて生きる彼にとって、この数坪の空間こそが世界のすべてだった。だからこそ、自分の機嫌を取るためにインテリアにこだわり始めるのは、彼にとって生存戦略に近い自然な流れだった。


棚の奥から、男が最も愛用しているティーセットを取り出す。

それは、ある名門ブランドが数十年前に発表した限定モデルの復刻版だ。繊細な金縁が施されたボーンチャイナは、暖色のライトを反射して宝石のように美しく輝く。

男は湯を沸かし、茶葉を躍らせた。

選んだのは、キャンドルの香りとも重なるアールグレイの茶葉だ。紅茶に含まれるテアニンは、脳のアルファ波を増大させ、深いリラックス状態を導く。さらに、適度なカフェインが、血を摂取したことで重くなった意識を、穏やかに覚醒させてくれる。鉄錆に似た血の残り香を、紅茶のポリフェノールが優しく拭い去っていく感覚が心地よい。


ソファに深く腰を下ろし、蒸気とともに立ち上がる香りを深く吸い込む。

どっしりとした座り心地のソファは、現代の人間工学に基づいて設計された最新のものだ。かつての古城にあった、見た目だけが立派で、一時間も座れば腰が悲鳴を上げる堅い椅子とは比べものにならない。

熱い紅茶を一口含み、男はほっと一息ついた。


長く生きていると、失われるものばかりに目が行きがちになる。だが、彼は違った。

煤まみれにならない灯り、長時間座っても腰を痛めない椅子、そして身体を芯から整えてくれる一杯の茶。

かつての暗く、不便で、臭いのきつかった夜を思えば、現代の「引きこもり生活」は驚くほど快適で、贅沢だ。

一人の夜は、どこまでも静かだ。

かつての仲間も、愛したかもしれない誰かも、今はもういない。

けれど、指先に伝わるカップの温もりや、部屋を満たすお気に入りの香りが、彼の空虚な時間を確かに満たしていた。

流行は移ろい、道具はより美しく、便利に進化していく。

「次は、もう少し照明の数を増やしてみてもいいかもしれないな」

次の「食事」までの二週間、この静かな箱庭でどう過ごすか。

男は揺れるキャンドルの炎を見つめながら、穏やかな孤独の中に身を沈めていった。

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