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1LDKの吸血鬼  作者: 道永ひかり


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吸血鬼

「午後4時30分になりました。

外で遊んでいる子どもたちは、おうちに帰りましょう」


防災無線のチャイムが、乾いた空気に溶けていく。

1LDKの賃貸マンション。窓を塞ぐ遮光カーテンの隙間から、わずかに冬の薄暗い気配が漏れ出す寝室で、男はゆっくりと身を起こした。


ボサボサの黒い短髪が、重たい瞼にかかる。見た目は25歳そこらの若者だが、その瞳には実年齢とは乖離した、ひどく濁った倦怠感が宿っていた。

男は無言のまま這い出し、寝室のクローゼットを開けると、最も厚手のダウンジャケットを引きずり出した。

キッチンを通り過ぎ、洗面台で軽く顔を洗う。

鏡に映る自分を直視することなく、男は先ほどのダウンジャケットを羽織り、フードを深く被った。

「……、……時間か」

低く、掠れた声が一度だけ漏れた。抗えない生理現象に、重い腰を上げるための諦めの独り言だった。


外に出ると、鋭い北風が容赦なく顔を打った。

白い息を吐きながら、男は早足で夜の街を歩く。

目的地までは徒歩15分。

街路樹の葉は落ち尽くし、乾燥したアスファルトを踏む靴音がやけに高く響く。

街灯の乏しい路地の先に、その建物は見えた。


『かしわばら動物病院』


看板のペンキは剥げかけ、漆喰の壁には血管のようなひび割れが幾筋も走っている。昭和の中頃から三代、およそ50年は続いているであろうその佇まいは、近代的な住宅街の中でそこだけが時間の流れから取り残されたかのようだ。


男は正面入口の重厚な木製ドアには目もくれず、建物の裏側へと回る。

従業員用の小さな鉄扉。

その扉を、指の背で三回、等間隔にノックする。

しばらくして、内側から鍵が外れる音がした。

扉が開き、現れたのは、30代ほどの男だった。

清潔な青色のスクラブを纏い、肩まである髪をハーフアップに束ねている。眼鏡のレンズが、外の冷気に触れて一瞬で白く曇った。

獣医の男は、曇った眼鏡を直すこともせず、フードの男を確認すると「ああ」と短く応じ、一度扉を閉めた。


数分後、再び開いた扉から、白い腕がにょきっと伸びてきた。

その手には、体温を宿したように生温かい、500mlの輸血バッグ。

男はそれを受け取ると、鉄扉の脇、コンクリートの地面にうずくまった。

底冷えする地面の冷たさも、今は気にならない。

輸血バッグの角に、鋭い犬歯を立てる。


『ぶちっ』


厚いプラスチックが裂け、鉄錆に似た匂いが鼻腔を突いた。

パンパンに膨らんでいたバッグが、男の嚥下に合わせて徐々に萎んでいく。

冷え切った内臓に、獣の熱い血が流れ込み、男の身体を内側から強引に起動させていく。


バッグを渡したあと、獣医はすぐに扉を閉めている。男がここで何をどう飲んでいるのか、男の牙がどのような形をしているのか、その獣医は一度として見たことがない。

それは、五十年前の先代から続く、この場所での暗黙のルールだった。


男は最後の一滴を喉に流し込むと、しゃがんだままの姿勢で、ぺしゃんこになった輸血バッグを鉄扉の横へと差し出した。

枯れ葉を散らした植木鉢。その縁に、空のバッグをそっと立てかける。丸める手間さえ惜しむような、無機質な動作だった。男がここを去った後、人知れず処分される手筈になっている。礼を言うことも、別れの挨拶をすることもない。


男はゆっくりと腰を上げ、再び夜の街へと歩き出した。

いつの間にか、あれほど鋭かった北風が止んでいる。

無音の住宅街。街路樹の枝も揺れず、凍てついた空気だけが重く停滞していた。

行きと同じ道を、今度は少しだけ歩幅を狭めて歩く。

胃の腑からじわりと広がる獣の体温が、指先や足先の痺れを微かに和らげていた。

生きるために、他者の熱を借りる。その事実を噛み締めるほどの実感はない。ただ、二週間に一度訪れるこの飢えを、どうにか凌いだ。それだけの感覚だ。


男はダウンジャケットのフードを掴み、さらに深く被り直す。

明日もまた、あのチャイムが鳴れば目が覚めるのだろう。

自分の影が、街灯の光に引き伸ばされては消えていくのを、誰にも見せないように、ただ黙々と自宅の1LDKへと足を運び続けた。

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