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家の隣に魔王が住んでいる!  作者: 白鈴サキ
Version4 イベントは突然訪れる
31/33

Ver.4.4.0 覚えてないとは言わせない

 送別会後の週明け。

 私は月曜日の倦怠感と戦いながらも、先週に残してしまっていた仕事に取り掛かろうとしていた。


「柊、ちょっと」

 

 すると早速、勇崎さんからお呼び出し。


「は、はいっ……!」

 

 心臓がドキリと跳ね上がる。

 「また、怒られるのかな」とかそういった類のドキリではない。逆に今はそっちの方が良かったかもしれない。なんでこんなことで……と疑いたくなった。

 私は自分の気持ちに戸惑いながらも勇崎さんの席へと向かった。


「なんでしょうか……?」


 様子を窺うように声をかけると勇崎さんは手を止めて、くるりと椅子を半回転させた。

 勇崎さんの表情はいつも通りの無。何一つ変わらぬポーカーフェイスである。

 

「この得意先の修正を頼む。あと、武藤が戻ってきたら指摘しておいてほしい。こことここに間違いがある」


「しょ、承知いたしました……」


「この後しばらく居ないから、頼んだぞ」


 一方で私は、動揺を隠さなければ、と無理やり笑顔を作っていた。


 どうしてこんなことになっているのか。

 理由といいますか、原因といいますか。こうなっているのは自分のせいといいますか……。


 勇崎さんが″柊″と呼んでいる。

 あの勇崎さんが。

 私のことを。

 呼び捨てで。


 理由は覚えている。微かに覚えては……いる。

 なぜ勇崎さんが″柊″と呼んでいるのか。

 それは――




 私が送別会の時にベロベロに酔っぱらって言っちゃったからなんだけども……!

 

 うわあああ!ないないっ!ありえないっ……!!

 あの時の私!何言っちゃってくれてんのよー!!

 ああ、今すぐにでも家に帰りたい。帰って布団に包まりたい。恥ずかしすぎる。穴があったら入りたい。忘れ去られる頃まで入ってたい。

 あの時――勇崎さんと仲良く……というか親しく?なりたいって思ったのは本当のことなんだけど……。

 でも、いくらなんでもあれは攻めすぎた発言では……?

 私、もう二度とお酒を飲まない方が良いのではっ!?

 なんでか分からないけど、勇崎さんは普通に受け入れちゃってるし。なんなら呼びづらさとか感じないし。さも「昔から呼んでましたけど?」みたいな余裕があるし……。

 今更、「やっぱあれはなしで……」と言ったところでお怒りを買うに決まってる。

 ここは穏便に、穏便に……。


「……ああ!そういえば勇崎さん、午後から会議入ってましたもんね!?」


 焦りすぎて声が上擦る。

 考えないようにと思えば思うほど考えてしまう。なんて人間は難儀だろう。

 それでも私はやりとりに集中しようと、意識を無理くり正そうとする。

 

「……あれ、でもそれって私も出席じゃなかったですか?たしか武藤って昼過ぎに帰ってくるはずですよね?私も会えないですよ?」


 うんうん、一度仕事モードに切り替えてしまいさえすればあとはなんとかなりそうだ。

 今日の予定を頭に入れておいてよかった……。

 

「ああ、その事なんだが――」


 勇崎さんは画面を指差しながら言った。


「″柊″には来週の会議に出てもらおうと思って、予定を変えたところだ」


「――ぁ」


 だめだだめだ、だめだ……っ!

 呼び捨ての衝撃が強すぎて、内容が全く頭の中に入ってこない……!

 絶対にそんなことはないのに、やたらと″ひいらぎ″の部分だけが強調されて聞こえてくるのはなぜ!?

 勇崎さんが大事なことを言っているのに、肝心の私の頭の中は大渋滞どころか交通止め。

 何も言葉が入ってこない。

 仕事に!身が!入らない……!!

 

 武藤が何でしたっけ?

 請求書は新しく作るんでしたっけ?

 会議は再来週の参加で合ってましたっけーーー!?


「――らぎ」


 なんで、私……心の中でこんなに息切れを起こしているんだろう……。

 ずっと言われ続ければそのうち慣れるかもしれないのに。


「――いらぎ」


「……」


 慣れる……のか?慣れる時はくるんだろうか?

 その前に私の心臓が持ちませんけど――!?


「柊、聞こえてるのか?」


「……」

 

「柊」


「――はっ!!」


 いけない……完っ全に上の空だった……。

 不思議そうに見上げる勇崎さんの顔を前にして、私は「すみません」と謝り倒した。そりゃもう、何度腰を曲げたか分からないほどには。

 

「……どうした?」


 どうしたもこうしたも……!

 自ら作った沼にズブズブと嵌っていってるんですよ。もう手遅れです。抜け出せません。しかも継続ダメージ付き。毒の沼地かも知れません。

 

 どうしよう。なんて答えようか。

 意味もなく呆けていた、なんて怒られるにもほどがある。

 

「い、いや~……呼び捨てってなかなか慣れないなぁ~、なんて……」

 

 良い言い訳が思いつかなかった私は思い切って白状した。それと、本当のことを言わない方が怒られそうな雰囲気を醸し出していたから白状した。

 ……白状したというのに。

 

「まさかとは思うが……覚えてない、なんてことはないだろうな?」


 勇崎さんはギロリと目を光らせながら顔を顰めた。

 ほら、やっぱり。どのルートを選んでもバッドエンドのやつ!

 轟轟と燃え滾る炎がバックに見えたのはどうか私の幻であってほしい。

 

「と、とんでもない!覚えていますとも……!」

 

「……本当か?」


「は、はい!もちろんです……!」


 勇崎さんは私を見上げているからか、自然と上目遣いになっているが、私は「可愛い〜」などとは思えず、ただひたすら怖かった。

 腕を組みながら座る姿は、まさに玉座にて勇者を迎え撃つ魔王そのもの。

 このまま立ち上がられて頭突きでもされるのではないかというくらいの気迫がある。

 魔王渾身の頭突き……考えただけで恐ろしい。 

 

「……まあいい。これ、今日中に」


「は、はーい……」


 勇崎さんは呆れるようにため息を吐いたあと、クリアファイルに挟まれた二枚の書類をさっと渡してきた。

 私はそれを受け取ると、逃げるようにそそくさと自分の席へと戻った。

 




「――せんぱい、柊先輩」


「――はっ!」


 隣から小さな声が聞こえてきて、そこでやっと私の意識は帰還した。

 もうだめかもしれない……。知らず知らずのうちにまたぼーっとしていた。これで今日、何度目なんだろう。お茶を盛大に溢すわ、取引先と間違えて他部署に電話をかけるわ、作ったデータは保存を忘れて吹き飛ばすわ……。


「うわ……」

 

 追い討ちをかけるように目の前に広げられた大事な書類には、いつの間にか見慣れない文字や記号が書き連ねられていた。さらによく目を凝らして見てみると、シャーペンの細い線がそこら中に走っていた。

 真面目に帰った方が良いのかもしれない……。

 げんなりしながら横を振り向くと、はるちゃんが心配そうに体を寄せていた。

 内緒話をするように口に手を当てていたので、私はそっと耳を近づけた。


「勇崎さんとなにかあったんですか……?」


「なっ……!」


 は、はるちゃん――!?唐突すぎやしませんか!?

 小さな声から聞こえて来た突然の爆弾発言に、私は勢いよく上半身を仰け反る。椅子が今まで見たことがないくらい撓った。


「どっ……え、なに……急に、どうしたの……?」

 

 大きな音を鳴らしてしまったが幸いにも今の時間は会議や外出中の人が多く、周りに人は居なかった。


「……その反応を見るに絶対、なにかありましたよね……?」


 はるちゃんはまるで全部見ていたかのような眼差しで私を見てくる。

 濁すように私は答えた。


「あったような……なかったような……」


 私は明らかに目が泳いでいた。そんな私の反応を見て、はるちゃんはずいっと迫ってきた。


「勇崎さんが先輩の事を呼び捨てにしていて、何事かと思ってたんです。でも、今ので確信しちゃいました!勇崎さんは先週まで普通に呼んでいた……だけど、今日は違います。つまり――送別会で事件が発生したと考える他なりません……!」


「じ、事件……!?」


 事件とはまた大事な。

 けれど名探偵はるちゃんによる推理はぴったりと合っている。恐るべし。

 

「事件……ではない……けど、はるちゃんの推理は合ってるというか、なんというか……」


 事件というより、私が起こした事故のようなものだけど。


「やっぱり……!」


 なぜだかはるちゃんは両手を組み、キラキラと瞳を輝かせていた。

 

「詳しく詳細を……!」


 良い大人が酔っ払って起こした出来事だった……なんて、恥ずかしくて言いにくい。

 だけど私は、はるちゃんから送られてくる熱い眼差しから目を逸らすことができず、


「えーと、じゃあ……とても恥ずかしいんだけど……私がやらかしたという前提で聞いてください……」


 周りに人が居ないことをいいことに送別会の出来事を一から説明した。

 菅野さんの出来事があって酔い散らかしたこと。そのまま酔った勢いで勇崎さんに「呼び捨てで呼んでほしい」となどと言ってしまったこと。

 たしか、あの時の私は「勢いで言ってるわけではない」と思っていた……が、あれは勢い以外の何者でもない。

 一通り話を終えるとはるちゃんは驚いた顔をしていた。


「先輩、結構……攻めましたね」


「私もそこまで言うつもりじゃなかったんだけど……」


 顔が熱くなっているのが分かる。思い出すだけで恥ずかしい。


「あっ、会議終わりましたね」


 はるちゃんと一緒に扉の方を見ていると、会議に出ていた人たちが続々と部屋に戻ってきていた。

「私たちも仕事に戻ろう」とはるちゃんに話しかけようとしたところ、彼女の視線が私の後ろにいっていることに気が付く。


 まさか、まさかね……?

「噂をすれば……」みたいな展開、期待していませんからね……!?

 恐る恐る後ろを見上げてみる。

 そこには――


「よっ。サボりか?」


 ジャケットを肩に掛け、軽快な笑みを浮かべた武藤が立っていた。


「なんだ、武藤か……」


「″なんだ″ってなんだよ、″なんだ″って」

 

 良かった〜……!

 勇崎さんじゃなかった。本当にに焦った。心臓止まるかと思った……。

 大体こういう時、勇崎さんがぬるっと現れたりするから、変に勘ぐってしまった。そろそろこの癖を直したい……。


「こっちの話。それより……武藤にだけは言われたくない」


「おいおい……まるで俺がいつもサボってるみたいな言い方じゃねぇか」


「そうでしょ。この間なんか下の階行ったまま、数十分は戻ってこなかったし」


「あー……あれは情シスに用があったからで――」


「嘘。佐々木さんから情シスの人と雑談してるの見たって聞いた」


「マジかよ。あれは、その……ほら、話に華が咲いたっつうかさ……まあ、そう言いなさんなよ」


「上手いこと逃げてくれちゃって……」


「そういう柊だって、なんか様子がおかしいって聞いたぞ?心ここにあらず……みたいな?」


「……いつ?誰から?」


「佐々木さん。さっき、そこの階段のとこで」


「佐々木さん……!どっちの味方なの……!」


 そういえば、はるちゃんと話している時に佐々木さんの姿を見たような気がする。あのふわふわおっとりとした雰囲気は佐々木さんに違いない。奥の方で作業をしていたみたいだけど、まさか見られていたとは……。


「ってかなんだよそれ。落書きにしちゃあ、クオリティ低すぎねえ?」


「ちょっと……!これは見なくていいから!」


 武藤が苦笑いを浮かべながら目の前の書類を指さしてきたので、私はこれ以上つつかれない様に裏返した。その傍ではるちゃんがくすくすと笑いをこぼしていた。

 武藤が帰ってくるだけでここは随分と賑やかになる。たまにうるさいのがキズだけど。


「おおー、武藤くんおかえりー。どうだった?」


「佐藤さん〜……それが聞いてくださいよ~。向こうの手違いで俺が行った時には――」


 佐藤さんハンカチで顔をぬぐいながらが戻ってきた。額から何本もの汗が伝っている。そういえば今日の会議室は冷房が効きづらいことで不人気の場所だと聞いたことがある。なんでこんな時期にわざわざそんな会議室を選んだんだろう……。蒸し暑い部屋の中で大人数が集まる……なんて、想像しただけで体調が悪くなりそうだ。

 そういえば……本当はこの会議に私も参加するはずだったけど、勇崎さんが日程を変えたんだっけ。


「あ〜それは大変だったね……。まあ、よくあることだし、武藤くんのせいじゃないから。あんまり気にしない方がいいよ〜」


「佐藤さんっ……!なんて、優しいんすか……俺泣いちゃいますよ!?」


「あはは、武藤くんは大袈裟だなぁ」


 ――で。

 佐藤さんが戻ってきたということは。

 やはりこの人も戻ってくるのではなかろうか。


 似た色のワイシャツを着た人たちで混み合っている出入り口付近。その中から私の目は無意識に探し出そうとしていた。

 眼鏡をかけていて、背が高くて。ちょっと不愛想な彼の姿を。

 視線をよく凝らすと例の人はすぐそばまで戻って来ていて、その姿を捉えた途端、私の肩は小さく跳ねた。


「戻ったのか」


「ま――勇崎さん、ただいまっす」


「また言いかけただろ」


 相変わらず、武藤の″麻央ちゃん″呼びには敏感だ。

 勇崎さんは持ち運び用のノートパソコンをそっと机の上に置き、席に着いた。


「まあまあ、減るもんでもないし。許してくださいよ」


「お前なぁ……」 


 武藤の予定を確認してみると今日はこのまま内勤と書かれてある。この調子だと定時までずっと騒がしくなりそうだ。巻き込まれる前にさっさと残りの仕事を片付けてしまおう。

 しばらく真っ暗になっていた画面をマウスで動かしていると――


「ああ、そうだ――」


 勇崎さんが何かを言いかけて立ち上がった。私に深い影が落とされる。

 勇崎さんはじっと私の様子を見た後、ぽつりと言った。


「柊……武藤に伝えてくれたか?」


 その瞬間――ここら一帯に雷が落ちたかのような衝撃が走る。


「ん〜?」


 佐藤さんは首を傾げ、

 

「……」

 

 武藤はその隣で考え込み、


「……!」


 はるちゃんは声には出さずとも両手で顔を覆い、ほんのりと頬を赤らめていた。


「ああ……えーと、」

 

 ただ、勇崎さんは私に任せていたことを確認しただけだというのに。


「そのー……」

 

 ああ、まずい……。非常にまずい。とにかくまずい。

 顔がみるみるうちに熱くなっていく。みんなの反応が意識していなかった私を侵略してくる。

 勇崎さんは黙ったまま、私をまっすぐ見下ろしていた。

 そして、

 

「伝えてくれたか?」


 とこの空気を押し切るように続けた。


「ま、まだです……」

 

 あ、圧がすごい……。

 私は思わず萎縮してしまう。

 しばらく見ていなかったけど、これは――


「この後また会議がある」

 

 久しぶりに魔王モードが発動している。


「あとは頼んだからな」

 

「深堀されない様に振舞え」とその鋭い目つきで訴えかけてくる。

 私が無言で何度も頷くと、勇崎さんは再び席に着き、次の会議の準備を始めた。

 こ、怖い……。怖すぎる……!

 勇崎さんから魔王の称号が取れることは、この先一生無いのかもしれない。

 私は傍で突っ立ったままの武藤に急いで声をかける。

 

「武藤、ちょっとこっち来て……!早く……!」


 間近で話しかけているというのに、武藤は何故だか気付いてくれない。何か考えているのか、顎に手を添え、真剣な顔をしてただ床を見つめていた。

 もう……!こんな時に一体何考えてるのよ……!

 痺れを切らした私は、武藤の腕の裾を引っ張った。

 

「……ん?」


「ここ、間違ってるからやり直して欲しいんだけど」


「おー、本当だ。悪い、すぐに作り直すわ」


 あっさりと資料を受け取った武藤はすぐに席へと戻っていった。やけに大人しくなったけど、何かあったんだろうか。


「……あ!」


 今度ははるちゃんが時計を確認しながら驚いていた。彼女は筆記用具やノートを持ち出すと慌ただしく席を立った。


「すっかり忘れてました!私、今から社内研修なので行ってきます……!」


「あぁ、そういえばそんなのあったね~。いってらっしゃい~」


 佐藤さんは軽く手を振り、私も「行ってらっしゃい」とはるちゃんを見送った。

 そういえば今日、若手向けのコンプラ研修もあったんだっけ。どおりで会議室が取り合いになっていたわけだ。時間も長そうだし、残りの仕事は私が引き受けておこう。

 

「途中まで作成してそうなやつは……あ、あった」


 私ははるちゃんの席に置かれていた書類を取り、仕事に取り掛かろうとしたが、すぐにこの人の手によって止められた。


「柊」


 また勇崎さんが私を呼んでいる。今回は周りに気づかれないくらい小さな声だった。

 なんでこそこそと話しかけてきたんだろう?

 まさかとは思うけど、武藤や佐藤さんに聞かれないためだったりする?


「はい?」


 今度は何の用なんだろう。

 

「修正、頼んでたやつ」


「……あ、ああ!すみません、すぐに渡します!」


 なんだ、さっき頼まれてた案件のことか。てっきり、また怒られるかと思っちゃった……。

 私は急いで伏せてあった書類を取り、席を立った。

 

「これで大丈夫ですかね?」


 勇崎さんは無言で資料を受け取った。


 ――ところが。

 紙面に目を通すやいなや、急激に顔を顰めだしたのだ。

 私はその様子を黙って見ていた。

 

「何だこれは」


 勇崎さんは紙から視線を動かさない。こちらに確認さえしてくれない。

 やばい……絶対、魔王の何かに触れた。でもそれがなんなのか全くもって分からない。

 私は嫌な予感がして、勇崎さんの後ろから中を覗き込んだ。

 するとそこには――


「あっ!」


 太いものから細いものまで、ところどころ強弱をつけながら端から端へと繋がれた線の数々。丸い点々。もはや一種の作品とも思える不規則な絵が一面に描かれていた。

 我ながら芸術点が高い――って、違ーう!

 消すの忘れてたーー!!

 

「柊……」


「すみません、ほんっとうにすみません……!今すぐ消します。跡形もなく消します……!この世から無くします!!」


 私は居ても立っても居られず、勇崎さんの手元から引っこ抜く形で半ば強引に資料を奪い取り、猛スピードで引き出しから消しゴムを取り出した。


「わざとじゃないです、わざとじゃ……!本っ当にすみません……!」

 

 ああ、今日はなんて日なんだ。生きてきて数十年、こんなに気持ちが乱高下する日なんて今までに無かった。人生初の嬉しくない体験だ。


「全然消えてくれないし……!」

 

 そして、こういう時に限ってやらかしてしまうのも私なのだ。


 

 ビリッ


 

「あっ」


 紙のど真ん中。横一直線に一筋の切れ筋が走る。

 そのままで止まってくれたら良かったものの、消しゴムにかけられた力は留まることを知らず。

 その後もビリビリと破れていった。


「……」


 終わった……。端っこだけならまだなんとかなった。だけどすでに真ん中まで破れてしまっている。テープでどうにかしようとも、誤魔化せないほどだ。

 そして最悪なことに魔王の耳は誰よりも察知することに長けている。早くも私の過ちに気付かれてしまった。


「嫌な音が聞こえてきたんだが」

 

 ラック越しに勇崎さんの様子を窺うと、呆れ果てて目元を隠していた。

 もうここまで来たら笑うしかない。


「あはは〜……やっちゃいました~……」


 変な汗が止まらない。

 勇崎さんは無理やり笑う私をじっと捉え続けていた。


「――本っっっ当にすみません……!!」


「……」


 視線が痛い。痛すぎる……!何かを置いて遮りたい……!!

 すでにわたしのHPは0どころではない。


「今日って残業……オッケー、ですか……?」


「別に構わないが……」


「完っ璧に仕上げさせて頂きます」


 勇崎さんはやれやれと頭を振ると次の会議に向かうため、執務室から出ていった。


 一方で――

 私は残り少ない時間との戦いが始まる。

 果たして定時内に終わらせることはできるのか。

 はたまた残業となってしまうのか。

 結果は――



 

 カインさん、ごめんなさい。

 私、今日も残業になりそうです。

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