Ver.4.1.0 酒は飲んでもなんとやら①
七月末の金曜日の夜。
都内の居酒屋にて――
「それでは新たな門出を祝して――」
「乾杯~!」
部長の一言により、大小様々なグラスが宙へと掲げられた。続いて「お疲れさまです~」という一言が添えられて、あちこちでカチンとグラスが鳴る。
今夜は営業部に長年勤めていた人が来月末で退職するということで、職場から少し歩いた場所にある居酒屋で送別会が開かれていた。
座敷の部屋に木目調の長テーブルが二台。藤色の柔らかな座布団が所狭しと並べられ、漆を塗られた木製の柱の横には味のある墨絵が金縁で縁取られた大きな額縁とともに飾られていた。
部屋の中は二十人もの大所帯。店の中には私たちと同じく会社の集まりなのかスーツ姿の団体や、四人掛けのテーブル席には大学生も何組か居た。
「課長そりゃあないですよ〜」
「わっはっは!悪いねぇ〜」
まだ始まって三十分も経っていないというのに、一部の人はすでに出来上がり始めている。
社内に居る時はむっとした表情で近寄りがたいと有名な課長も、今や主役の肩をバシバシと叩き、顔を赤くして大きな声を出し笑っていた。
「梨本課長、チョーご機嫌っすね」
「珍しいな」
武藤はにんまりとした顔で課長を見続けたあと「良いモン見れた」と嬉しそうにジョッキを持ち上げた。
その武藤の左隣に座っている勇崎さんは、同じ方向を見つめた後、小さなグラスに注がれたビールを口に付け、静かに傾けていた。
「いや〜なかなか無いっすよ。勇崎さん見たことあります?」
「ない」
「ですよね~。いつも怒ってんのかなんなのか判断つかないっスもん」
二人が楽しそうに会話を交えている隣で――
「はるちゃん~……」
私は小皿に盛られた前菜を見つめ、がっくりと肩を落としていた。
数十人程度の飲み会であれば何度か参加したことがあるけれど、今日のような大人数の場に来るのが初めてで、私は気持ちがそわそわとして落ち着かなかった。
それに、私の左隣には呑気に笑っている武藤が居るだけで、心強い味方――はるちゃんは今日、この場には居ない。はるちゃんと佐藤さんは用事があるとのことで送別会は欠席だそうだ。私たちのチームからは勇崎さん、武藤、私の三人が参加となった。
私は契約社員という立場上、この場のアウェイ感が否めなかった。
続々と関わりの少ない人たちが挨拶回りにと、近くの席に座り、談笑を始める。
「柊さん、楽しんでる?」
「楽しんでます〜」
「本当に〜?もっと飲んだら?」
「あはは……そのうち頼みます〜」
「柊さんって今いくつなの?」
「今年で二十八の年ですね」
「え、同世代じゃん!今度飲みに行こうよ!」
「ぜひぜひー」
入れ替わり立ち代わり――いろんな役職の人が訪れてくる。
やっと人が来なくなった頃には、少々の疲れを感じはじめていて、ようやく一息つけるようになった私は、息をゆっくりと吐き出した。
「はぁ……」
温かい緑茶が身に染みる。
やっぱり飲み会という文化は何度参加しても慣れることはない。楽しいけれど同時に神経もすり減っている気がする。
小規模の飲み会であればそんなこともないんだけど。……勇崎さんの歓迎会は別として。
小皿に盛られたままだった前菜を一口食べると、空腹だったおなかの中にするすると入っていった。
この送別会を機に仲良くなる人もいるかもだし、もっと気楽にいた方が良いのかも。
そんなことを思いながら、手つかずだった料理に目を向けていると――
「課長、次は私が――」
あまり耳に入ってほしくなかった声が私の元へと届いた。
ぞわぞわと神経が逆立ち、顔が強張る。
この声は――あの人に違いない。
「ああ、君か!すまない」
「いえいえ」
視線のずっと奥、目を凝らしてみると――ここから少し離れた上座近くの席には、口角を少し上げ、ヘコヘコと頭を下げる菅野さんの姿があった。菅野さんはビール瓶を両手で添え、酔っ払っている課長にお酒を注いでいた。
「菅野くん、最近よく頑張ってるらしいなぁ!」
「そんな!私なんかまだまだですよ」
謎に勇崎さんを責め立てていたあの件の後、私の中で菅野さんの好感度は急降下。
嘘臭い笑顔をべったりと貼り付け、相手の機嫌を伺うような姿に思わず「うわぁ……」と本音がだだ漏れる。
どこが頑張っているんだか。「こちらは大変迷惑でした」と、課長に一言申してやりたい。
幸いにも、菅野さんの席は私たちの近くではく、離れていたのでまだ良かったものの、菅野さんがこの場に居るということに少しモヤっとする。予想はできていたし、同じ部だから仕方のないことなんだけど……。実際に存在を認識すると、嫌悪感が勝ってしまう。
私と同じく、その様子を見つめている人物がいることに気づき視線をずらすと――菅野さんが元いた席の近くで、物腰の柔らかそうな若い男性がニコニコと笑顔を浮かべていた。
えーと、あの人はたしか……下野さんって武藤が言ってたっけ。
菅野さんの部下で、一緒になって勇崎さんのことを嘲笑っていた本人でもある。だから私は顔を覚えていた。
「本当にあの人が勇崎さんのことを言っていたんだろうか」とつい疑ってしまいそうになるくらい、一見おっとりとしている。
ただの太鼓持ちなのか、裏の顔がある人なのか、野心のある人なのか……一番苦手なタイプかもしれない。
「柊……そんなに熱い視線、誰に向けてんの?」
「――はっ!?な……なに言ってんの!」
突然、声を掛けられて声が裏返る。勢いよく横を振り向くと、武藤がにたにたとしたり顔で私のことを見ていた。
「なに言ってるもなにも……ずっとあそこ見てるけど?」
私が長いこと菅野さんの方を見ていたせいなのか、武藤はその後も「たしか、あの方向にいるのは――」とわざとらしく遠くを見晴らしだしたので、私は慌てて武藤の視界を手で振り塞いだ。
「ちょ、ちょっと……!向けてない向けてない!」
「あはは!冗談だって」
「もう……」
あっけらかんと笑う武藤の横で私は平常を装うが、内心はドキドキと騒いでいた。
武藤がこんな風に揶揄う時は決まって確信しているときだ。絶対、視線の先に誰がいたのかを分かってて言っている。
「……まあ、言いたいことは分からなくもないけど」
「やっぱり分かってたし……」
「はは、まあな」
菅野さんが課長に話しかけている姿を見ながら、しばしの沈黙が続いた。
二人してもくもくと料理を食べ進めていると、突然思い出したかのように声を上げたのは武藤の方だった。
「なぁ、柊」
「どうしたの?」
「嫌な思い出はこれで流すのが一番よ」
「なんなの急に……」
これの正体は言うまでもなく、視線が語っていた。武藤の目の前にはまだ半分ほど残っているビールジョッキがどんと構えている。武藤は取手を掴むと勢いよくジョッキを傾けた。
喉元から飲みっぷりの良い音が聞こえてくる。
「うん、美味い!」
ジョッキが再び机に置かれた時には、すっかり中は空っぽになっていた。
その飲みっぷりに私はあんぐりと口を開けたまま若干引いていると、武藤は私にしか聞こえないくらいの小さな声で呟いた。
「……ちなみに、俺も許してはねえよ」
「……分かってるよ」
「でも、今は忘れてようぜ」
眩しいくらいの笑顔を向けられ、私は「うん」と頷くことしかできなかった。
気持ちの切り替えがうまいんだろうなぁ。
武藤のこういうところは素直に尊敬できる。まるで他は……みたいな言い方だけど、今は置いといて……。
ポジティブで物事を前向きに捉えられていて、これはこれと割り切ることができている。
それに比べて私は――まだあの時の嫌な気持ちを引きずったままで、菅野さん全否定モードに入っているという……。
別にそれ自体は悪いことではないと思うんだけど、姿を見ただけで嫌な気持ちになったり、せっかくの場が楽しくなくなってしまうのはなんだか勿体無い気もする。
武藤の言う通り、気持ちは頑張って割り切って今を楽しんだ方が自分のためにも良いのかも知れない。
「……それにしても、さっきから飲みすぎ」
「そうか?」
武藤は上唇のうえに真っ白な泡をべっとりとつけながらとぼけている。
なんで気づかないんだろう。
「何笑ってるんだよ」
「別に〜」
私が笑いを堪えながら武藤を見上げていると、ふと、どこかから視線を感じた。
「ん……?」
なんか……見られてる……?
その視線は武藤の奥から来ているような気がして、私は体を少し横にずらした。
すると――
「あ……」
なんと、勇崎さんがこちらを見ていた。
私と勇崎さんはその後、しっかりと目が合った。
「……」
あれ……。さっきまで席を外しておられませんでしたっけ……。いつの間に戻ってきてたんですか?もしかして、さっきの会話……聞いてました?
そんな心配が脳裏を駆け巡り、頭が真っ白になる。しかし勇崎さんはなんのことだかさっぱり分かっておらず、「何の話だ?」と無表情のまま問いかけてきた。
とりあえず、聞かれてなかったことに関しては一安心。
けれど、返答に迷ってしまう。
「え えーと……」
――「お前にだけは言われたくない」
あの日、勇崎さんはミスの多い菅野さんのチームへ注意をしに行ったただけだというのに、聞こえてきたのは菅野さんの驚くべき一言だった。
結局、どんな話の流れで出てきた言葉なのか、私と武藤は分かっていない。
けれど、この話を勇崎さんに振るつもりはない。あの時の出来事をもう思い出してほしくなかったから。
「その……」
どう誤魔化そうかといくら考えてもすぐに良い案は出てこない。とうとう間が持たなくなってきて、視線を外そうとしたその時――
「勇崎さんは気にしなくっていいっすよ」
武藤がへらっと笑い、背筋を伸ばした。私と勇崎さんの視線はそのがっしりとした体によって遮られた。
「分かった」
勇崎さんは少し納得していなさそうだったが、前へ向き直るとスマートフォンを触り始めた。
私はほっと胸を撫でおろし、武藤に向かって両手を合わせると「助かった!」と合図を送った。
武藤から手招きをされて、なんだろう?と体を傾けると武藤はコソコソと耳打ちをしてきた。
「周りが煩くて良かったな。麻央ちゃん、変なところで察しが良いから」
「ほんとにね……」
二人してふうと息を吐いた後、
「んなことより……ほら、なんか飲むか?」
武藤は空いたグラスを見て、メニュー表を私の方へと向けてきた。
「あー……うん。ありがとう」
この店は結構、お酒に力入れている店なのか、豊富な種類のアルコール飲料が一覧として載っていた。
ビールにチュウハイ、ハイボール。よく見る居酒屋のメニュー意外にも各地の有名な日本酒、ワインも多く取り揃えていた。
たくさんあるメニューの中で私が目についたものといえば――
「じゃあ……この、桃の水割りで!」
この店のイチオシ商品、桃の果実酒。壁にもポスターが貼られてあるし、メニューにもここの名物だと書かれている。
乾杯に慣れないビールを頼んだみたはいいものの、やはり私にはまだ早かった。苦味に慣れず、美味しさも掴めぬまま、ちびちびと飲み進める羽目になった。最初に苦い思いをした分、今はとにかく甘くてフルーティーなものが飲みたい。
「絶対それ頼むと思った。……勇崎さんは?なんか頼みます?」
「俺は――」
勇崎さんは一瞬、考えた後、
「まだいい」
とコップに残っていたビールを見つめていた。
「はいはいっと。すみませーん!他に何か頼む人います?」
武藤が周りに注文を促すと、格テーブルから「俺はビール」「私も」と声が上がった。




