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家の隣に魔王が住んでいる!  作者: 白鈴サキ
Version3 それぞれの変化
15/33

Ver.3.2.0 忘れられない出来事

 はるちゃんとの楽しいお昼休憩を終えて、食後の眠気を乗り越えた午後の時間。ちらりと時計を見やる。おやつタイムもとうに過ぎさり、時刻は4時ちょうどを指していた。

 無我夢中で仕事を捌いていたらもうこんな時間だ。私の手元に残っている仕事は昨日、武藤から預かった注文書のみとなった。あと1時間半を乗り越えれば、無事に定時を迎えることができる。

 今日中にすべて片付けることができそうだ。私はそう確信すると鼻歌まじりに注文書を手に取った。



「数量は……と」

 


 滑らかにペン先を走らせる。余裕ができたからなのか、先ほどこなしていた時よりもスピードはゆったりと遅くなっていた。

 最近頑張ってたから今日くらいゆっくりしても大丈夫でしょう。

 今日は帰れそうだな〜、なんて呑気なことを考えながらあくびをしていたら、それを見透かしていたかのように対面から声がかかった。



「柊さん、少し良いか」


「……はい」


 

 魔王様からのお呼び出しだ。肩がびくっと跳ね上がる。

 気を抜いているところを見られてしまったかとひやっとした空気が背筋をなぞる。

 私は緊張感を走らせながら魔王の元へと向かった。

 

 

「どうしました?」



 パソコンに向かっていた魔王に声をかけると椅子を回転させ、ぴんと張られた数枚の資料は読みやすいように私の方向へと向けられた。

 私は向けられた資料よりもデスクの上に放置された栄養ドリンクの空き瓶の数に目がいってしまったが、すかさず魔王に視線をずらした。

 


「……これ。他部署からすぐに準備してほしいって連絡があった。急ぎで頼む」


 

 どうやらあくびの件で呼び出されたわけではないらしい。

 私は心の中でほっと胸を撫で下ろし、資料を受け取った。


 

「なんですか、これ?」


 

 ”急ぎで頼む”――経験からして嫌な予感がする。

 顔に紙を近づけ、たじろぐ目線を無理やり動かして中身に目を通した。文字と矢印のみが書かれた簡易的なマニュアルのようなものだと見てとれる。

 さらに目を通してみる。

 『紙をそれぞれ印刷し、そこからセットを組んでホッチキスで止める。AグループとBグループにはそれぞれこの数をセットで――』



「……ん!?」


 具体的な作業工程やセット数が書かれていたはずだった。

 一見、単純作業のように見えたが、それはページの上部のみだった。視線を追った先、ページの下部には気の遠くなるような恐ろしい数字が書かれていた。


 

「に、二百……!?」



 驚きのあまり、上擦った声が出る。ご丁寧に太枠で縁取られた200セットという数字。どこで凝ってるのと思わず謎の突っ込みが出る。

 


「研修で使う資料らしいが直前でミスが分かってやり直し。今日はその担当者が休みでいないから手伝ってくれ、だそうだ」

 

 

 嫌な予感は見事に的中してしまった。まさか、これを今からやれというのですか。


 

「……」


 

 研修の日程は明日の日付が書かれている。どうやらこれが急ぎの原因らしい。

 見間違えではないのかとよく目を凝らしてみるが、目の前の数字は変わるはずもなく……。



「今日中にこの量……」


 

 さあっと血の気が引いていく。先程まで定時上がりを想定して浮かれ気分だったのに、急下降。一気に地の底まで沈みきってしまう。

 

 これでは残業確定ではないか。

 今日はカインさんと約束があったのに、こんな時間からだと約束の時間に間に合うかすら怪しい。

 そもそも、こんな直前になって発覚したのはそちらのミスでは!?もっと前もってチェックしておけばこんなことにはならなかったはず。チーム内のミスならまだしも、あまり関わりのない部署の尻拭いをさせられることになるとは……。



「……」



 もう帰りたい……。任された以上、私に逃げ道なんてないも同然なんだけど。

 考えれば考えるほど沸々と怒りが湧いてくる。ぐっと指先に力がこもり、紙にしわが入る。



「どうした?」

 


 黙ったまま立ち尽くす私の様子をおかしいと思ったのか、魔王が窺うように声をかけてきた。

 いやいや、魔王は関係ないのだから……悪いのはこんな直前になって押し付けてきたその他部署とやらなのだから。

 どこにも向けられない怒りの矛先を納めて、気づかれないように冷静な自分をさっと装った。


 

「……いえ」

 

「急で悪いが、いま手が離せないから頼む」


「頑張ります……」


「俺も片付いたら手伝う」


「ありがとうございます……」



 魔王の席を後にして、足取りが重いまま自分の席に戻った。たった数歩の距離なのにそれさえも億劫に感じる。

 今のやりとりを聞いていたはるちゃんが「私も手伝いましょうか?」と気を遣ってくれた。しかし彼女が持っている案件の量や、先ほどの雑談の中で仕事終わりに予定があると聞いていたことを思い出して、今日はその気持ちに感謝しつつ丁寧にお断りをした。

 魔王も先ほど「手伝う」と言ってくれてはいたが、彼の状態を考えると手伝ってもらうのは申し訳なく思う。

 というのもここ最近、彼は上層部から営業とはまったく関係のない仕事まで振られて、忙しない状態が続いている。下っぱの私にはどんな仕事を振られているのかまではわからないけれど。

 綺麗に整えられたのデスクの上には手つかずの資料がこんもりと積まれており、先ほども確認したが量は一向に減っていないように思えた。そんな中、他部署からの依頼とはいえ、関係のない仕事を手伝ってもらって時間を割いてもらうのは私が嫌だ。

 武藤も佐藤さんも今日は一日中外回りで帰社予定はなく、直帰とスケジュールには書かれている。

 

 

 ここは私一人でやりきるしかない。

 はあと謎のため息を吐いた後、考えていても何も変わらないと沈んだ気持ちを覆い隠すように取り繕った。

 さっさと取り掛かって少しでも終わる時間を早くしよう……。

 呼び出される前に手を付けていた案件をあとにして、資料と再び向き合う。

 渡された資料のうち、4枚は資料の原本で一番前に依頼内容が書かれた紙が付けられていた。



「それぞれをコピーして、それからセットするだけね……コピー機ってどこだったっけ」



 ペーパーレス化が進み、業務として使用することがなかったコピー機。入社して以降初めて、置かれてある場所に向かおうとしている。

 座席表とともに描かれたフロアマップを確認する。コピー機はこの部屋の隅に追いやられていた。




 

 6月に入り、日の入り時間もいつの間にか長くなった。大きな窓辺から夕陽がさんさんと入り込んでいる広い執務室内をとぼとぼと横断する。

 営業部のある島からあまり離れることがなかったため、総務部や経理部が並ぶ執務室内の奥に位置する場所は、なんだか新鮮に思えた。営業部は外回りで人数が少ない時以外はがやがやとしていることが多いがここら一帯は真逆で、必要最低限の会話とマウスのクリック音が鳴っているだけだった。


 

「へ〜、こんな感じなんだ」



 仕事の邪魔にならないよう、聞こえない程度にぼそっと呟く。入社してもう何年も経つというのに、新入社員のようにきょろきょろとあたりを見渡していた。

 真っ白で傷ひとつない綺麗なデスクに続いて並ぶ、年代物の鈍色のデスク。椅子だけはとうの昔に処分されているようで使っている人はもう居らず、物置と化しているのかデスクの上には仕事で使う参考書やボックスが乱雑に置かれていた。

 本社は創業当時から一度も移転させたことがないらしく、ところどころその歴史を感じさせる部分がある。内装だけは一部リノベーションしたようでシミのない真っ白な壁紙は、この空間に置かれた歴史ある物との違和感を見事に調和させている。

 キラキラオフィス――とは程遠いが、この職場に長年在籍しているのもあってか、私はかなりこの場所に愛着がでてきている。


 入社した当時のことなどを思い出していると、目的の場所に辿り着いた。

 鍵のついたキャビネットに囲まれながら、これまた古そうなコピー機が2台、仲良く並んでいる。私は片方の緑のボタンをそっと押し込む。騒がしい音とともに電源が立ち上がった。


 

「絶対紙、足りないだろうなぁ……」


 

 コピー機のA4と書かれた引き出しを開けると、すでに印刷用紙は底を尽きかけていた。

 次使う人のために補充しておいてくれたっていいのに。

 今の私は無茶な依頼が飛び込んできたことにより、やるせなさが常に留まっている。こんな些細なことですら引っかかってしまう。



「えーと、補充用は……」



 ぐるっと振り返る。ひとつだけ鍵のかかっていないキャビネットを発見し、なんとなくここにあるだろうと勝手に開けた。

 A4用紙の束がどっさりと蓄えられていた。分厚い束を数冊持ち上げ、コピー機の上に移動させる。ガラガラになっている引き出しに印刷用紙をたっぷりと補充した。



「これでよし!」


 

 1枚目の資料をセットし、印刷をかけると静かに待機していたコピー機がゴウンゴウンと古めかしい音を立てながら小刻みに揺れ始める。


 

「200枚かぁ……」


 


 印刷された紙がこれでもかという勢いで押し出されてくる。やっと一歩踏み出したところで、まだまだ終わりの見えない作業に再び大きなため息が出た。

 いつ帰れるのやら……。




 

「この量をもっていかないといけないのか……」


 

 最後の200枚を取り出し、コピー機の上ですでに出来上がっている十字に積み立てていた資料の山にずっしりと乗せた。席とここを行き来するのも面倒で近くの席を借りて作業しようと思ったが、今日に限って空いている席がひとつもない。

 はあとまた小さなため息がでる。

 さすがに800枚すべてを一度に運ぶのは無茶だと判断し、半分の400枚を掴み、両腕に乗せた。ずっしりとした重みが腕にくる。

 大量の紙を抱えてすれ違う人とぶつかったりしないように、周囲を気にしながら慎重に歩みを進めた。





「……ふう」

 

 

 やっとのことで次席に着く。

 まだ前半戦だというのに普段あまり運動をしていないせいなのか、重たいものを短時間持ち上げていただけで腕がじんじんと痛む。

 もう一回、同じことをしなければならないと思うとただでさえやる気がないのに、さらに削がれる。

 


「帰りたい……」



 


 

*********




 


「つ、疲れた~」

 

 

 残りの400枚も運び終えることができた。

 目の前に広がる綺麗とは言えない資料の山々。

 これからひたすらこの大量の紙たちをホッチキスと共に下山せねばならない。



「いけない、忘れてた!」



 一息つこうと椅子に腰かけようとするが、印刷し終わったあとに用紙を補充することをうっかり忘れていたことを思い出す。

 ――次使う人のために補充しておいてくれたっていいのに。

 自分が感じたことを他の人からも思われないために、急いで席から立ちあがり再びコピー機の元へと向かった。

 




「楽しみにしてたのになぁ」

 

 

 道中、いったんの区切りがついたからなのか、私の気は少しだけ緩んで雑念がよぎり始めていた。

 

 業務とは関係のないこととは思ってはいるものの、今日楽しみにしていたことを台無しにされて、気持ちが沈まずにはいられない。

 悲しい引き金を自ら引いてしまう。

 今日は夜から動画配信サイトでラスクエの公式生放送がある。開発者やゲストを招き、楽し気な関係者のトークやゲームの情報、これからのスケジュールなどが発表される場でファンにとっては最新情報をリアルタイムで目の当たりにできる唯一の場所。

 それを今夜、カインさんと見ようという話をしていたのだ。まさかこんな思いもよらない仕事が舞い込んでくるとは……。

 昨日、[明日は20時集合で!]としっかり約束を取り付けてしまった。SNSで繋がってもいなければ、連絡先も知らないためカインさんへ連絡することができない。

 帰ったらすぐにログインして謝ろう……。今は仕事に集中して忘れていよう。

 

 そんなことを考えていたら、罰があたったのか視界が前のめりになっていた。



「――っ!?」



 急な出来事に声が詰まる。違和感のある右足。地に着いていない感覚がある。左足は踵が浮き上がり、つま先だけが床と接していた。

 転んだ、と理解するのにさほど時間はかからなかった。

 私の時だけがスローモーションになったかのように過ぎていく。

 ……これが走馬灯ってやつ?それともQTE?

 どうやったら助かりますか!!



「わっ!」


 

 小さな面積だけでバランスを取り戻すことなど不可能に近く、私の体はそのまま宙へと放り出された。

 ピンと張られた糸が切れて緩む。体は力無く重力に抑え込まれていく。

 重心が前へ前へと傾いて、受け身を取ろうと咄嗟に両腕を前に突き出すが、いまさら遅いような気もしてきた。

 


「――っ!」


 

 ぎゅっと目を瞑る。

 どうか軽症ですみますように――そう願うことしかできない。

 ぎゅっと空気に押さえつけられたような違和感。

 衝撃に備えて全身に力を籠めた。




 

「……」 


 

 あれから何秒経ったのだろう。

 覚悟を決めて受け止めるはずだった衝撃は、いまも体中を駆け巡らない。

 それよりも痛みを感じるどころか、お腹周りからじんわりと暖かい温度が伝わってくる。

 倒れる直前に感じた違和感がそれと似ていたような気がした。


 どういうこと……?

 状況を確認するように震える瞼をそっとこじ開け、強張った体の緊張を解いた。

 衝撃に備えていたはずの私の体は、目を閉じる前の瞬間のまま、ピタリと停止していた。



「あ、れ……?」



 視界の隅っこに物置と化していた古いデスクの角がちらちらと移りこむ。

 当たったわけでもないのにもしものことが過ぎって、顔が青ざめる。

 あっぶな……。危うくあれにぶつけるところだった……。


 視線を下へと移動させると、数センチだけ着いている足の先にこんもりとした膨らみが見えた。どうやら剥がれかけたカーペットの浮き出た部分に気付かないで、その段差に足を取られてしまったらしい。 


 

 ……で、この謎のぬくもりは?

 


「……」



 私がその正体を認識するよりも前に、背中越しに小さく息を吐く音が聞こえてきた。

 視線を足先から僅かに上へずらす。

 真っ白なシャツの綺麗に捲られた袖から、すらっとした頼もしい腕が私の腹部を支えるように回されていた。

 これ以上倒れないようにと、ぐっと力が込められているのが分かる。

 

 え、えーと……私はめちゃくちゃ迷惑をかけているのでは……?

 足元を床の色とは到底思えない、白が乱雑に配色されている。

 私を支えてくれている腕の下には、その人が手に持っていたと思われる資料が床に散乱していた。


 

「す、すみません!!」



 迷惑どころの話じゃなかった!仕事の邪魔までしてるよ!!

 浮いていた片足を地につけ、ぼーっとしていた体をしゃきっと起こすと回されていた腕がそっと抜け、私の元から離れた。近くにあったぬくもりが消える。

 ありとあらゆる方面で迷惑をかけてしまっていることに慌てふためく。

 振り返るや否や、その勢いを落とすことなく助けてくれた方に向けて深く腰を折った。

 仕事の邪魔やお手数をかけてしまったという申し訳なさと、すっ転んだ姿を見られていたという事実が恥ずかしさが熱となり、体をじわじわと蝕んでくる。



「……」


 

 助けてくれた人物からの返答はなく、無言の時間が流れる。私は顔を上げることが出来ない。

 この場に似合わない、柔らかな香りが鼻を通り抜けている。

 どうしよう。穴があったらいますぐにでも入りたい。

 このままずっとこの時間が続いたらどうしよう……。

 


「……はぁ」


 

 安堵が混じったようなため息が聞こえてきて、私はおどおどと顔を上げる。

 

 

「気をつけろ」



 目が合うと助けてくれた人は短くそう告げる。

 そして驚きのあまり引き攣った笑顔を向ける私の顔を見つめて、呆れともいえる表情を向けていた。



「ど!?えっ……えっ!?」


 

 どうして、あなたが、こんなところに。

 声に出すつもりはなかったが、勝手に喉から出ていた。



「ゆ、勇崎さん……!?」



 しどろもどろに発言する私を見て、「なんだ」と言わんばかりに冷たい視線が送られ続けているが、私は出来事を整理するので精一杯だった。

 とりあえず間抜けすぎるので、あんぐりと開いたままの口を閉じた。



「えっと、その……」


 

 先ほどの状況を指差し確認する。きっと魔王にはおかしなやつだと思われているに違いない。

 当の本人は私を支えたせいで縒れてしまった袖を捲り直すと、何事もなかったかのようにその場で屈み始めた。落ちた資料を拾い集めようとしている。



「わー!いいですいいです!!」


 

 私はさすがに拾わせるわけにはいかないと思い、魔王よりも先に床に散らばった資料を素早くかき集め、さっと拾い上げた。

 急に動いたせいでぜえはあと息が切れる。



「勇崎さん……ありがとう、ございます」


「気にするな」



 魔王は私から資料を受け取ると、そっと視線を外してそのままコピー機へと向かって行ってしまった。

 ホワイトムスク系の優しい香りがその場を包むように漂っている中、私はその場で立ち尽くす。


 

 「……」

 

 

 胸の前でぎゅっと拳を握る。

 魔王が私を助けてくれた。魔王のおかげで私は怪我をせずにすんだのだ。

 


 なぜ私はあんなにも動揺したんだろう。

 私は足早に去ってしまった魔王の後姿を見つめながら、彼が支えてくれていたスカートのウエストラインにそっと触れた。

 ほのかにあたたかい。

 ――その瞬間、心臓が外へ飛び出していきそうなほど大きく跳ね上がった。


 

 「〜っ!」

 

 

 いまだかつてないほどの速さで、私の胸は高鳴りを抑えられないでいる。

 慣れない距離、近くで感じた体温、かすかな息遣い、ふんわりと香った匂い――普段と変わらないように見えて焦りとともに覗かせた、安心したかのような表情。

 いつもと違うふたりの距離感。

 まずい。……とは言っても何がまずいのか分からない。

 

 思い返す度に妙に意識が別の方向へと向かっていく。

 声にならないまま、熱くなった頬に手を添わせた。

 この熱の正体は……?

 

 頭をうんと捻る。

 いや、絶対気のせい……だよね?そんなわけないよね?

 これは躓いた拍子にびっくりしたせいだ。あと恥ずかしかったし。きっとそうだ。

  

 

 コピーを取っている彼の背中をじっと見つめながら、否定を続ける。

 私からの視線を感じているのか、たまに振り向こうとするので急いで逸らす。

 今、目を合わせちゃいけない。きっと見せられない顔をしているから。

 

 首を横に振るとぽろぽろとそれらの考えが頭から抜け落ちていくような気がして、私は自問自答を繰り返す。

 普段とは違う距離に戸惑っただけ。

 感じることのないはずのあたたかさに触れて驚いただけ。

 近くで聞くことのなかった声に耐性がなかっただけ。

 自分ん家の匂いじゃないから慣れてなかっただけ。



「いやいや……」



 胸を撫で下ろし、落ち着かせるように深く深呼吸をする。

 最後にふうと息を吐ききると、高鳴っていた心臓は次第に落ち着きを取り戻していった。

 ほら、なんでもない。

 気のせいだ。



「ないない……」



 ちょっとドキドキしたなんて。

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