第85話 魔族の天敵
「殺してやる……」
目を覚ましたエストは、一度大きく息を吐いてアリアを抱きかかえる。
しっかりとした足取りでゴブリンの死体の上を歩き、少し離れたシスティリアの前で降ろした。
その表情は変わらないが、蒼の瞳に炎が揺らめく。
静かに、淡々と。
しかし一歩ずつ強く踏み込んで魔族の前に立つと、信じられないといった様子でエストの瞳を覗く。
『どうやって……どうやってワタシの魔法から抜け出した! 人間程度に破られる魔法じゃない!』
「ずっと。ずっと聞こえてるんだよ。システィの恐怖も、アリアお姉ちゃんの言葉も。苦しくなるぐらいお前は強いけど、笑えるぐらい曖昧な魔術だった」
己がしたことも、されたことも、全てエストは見えていた。
抵抗しようにも体は動かず、大切な姉をこの手で貫いたとき、どうしようもない屈辱感に全てが憎いとすら感じたのだ。
闇魔術とは極めて危険な精神干渉の属性であると共に、明確な心の苦しみを知らない魔族にとって、穴の多い精神の牢獄を作っていた。
「どれだけ苦しかったか、お前にわかるか? 悔しくて悔しくて歯を食い縛ろうにも、体は言うことを効かない。叫んでも、もがいても、無駄に終わる恐怖。わからないよね? ……だから、経験させてあげる」
なんでもない氷球の単魔法陣が現れる。
その背後に、また同じ魔法陣が一つ。そこで与えられた構成要素は絶妙に変えられているものの、消費魔力は全く同じだった。
ガチリ。
魔法陣と魔法陣が結合する感覚が伝わる。
そして、結合した魔法陣にと同じ氷球が何十と数を重ねていくと、八十もの魔術が重ね合わされる。
「守るために使うよ──氷球」
小さな魔法陣が光を放つ。
ただの初級氷魔術だ。
多少の殺傷能力はあるものの、それ一つでは大した威力は出せない。
しかし。
《《相乗魔法陣》》によって造られた氷の球は、その姿を変えて顕現する。
何気なく使われた魔術は初級という言葉とは裏腹に、眼前の魔族を飲み込んで氷を伸ばし、前方にある全ての物を飲み込んでいく。
一瞬の出来事だ。
緑の高原。
麓で色付く森。
雪の帽子を被る山脈。
その全てが、氷に飲み込まれたのは。
「な、なによ……これ」
「エストの……切り札だね。私も知らない。エストと、エストの師匠だけの、禁断の魔術」
システィリアに手当てを受けるアリアは、苦しそうにそう言った。
この魔法陣だけは世に出してはならず、家族を守るためでなければ、頭の片隅からも排除する最強最悪の魔法陣。
氷漬けになった魔族は一切の身動きが取れず、氷の世界に閉じ込められた。
そしてエストは膝をつく。
残った魔力の大半を今の魔術に使ったせいで、軽度の魔力欠乏症を発症したのだ。目眩と倦怠感、少々の吐き気を催し、なんとか杖を支えに立ち上がる。
「はぁ、はぁ……これで、終わ──り」
二人に振り向いた瞬間、エストの腹から鋭い爪が伸びていた。
ようやく、終わると思っていたのに。
街を守れたはずなのに。
奥歯を噛んで首だけで背後を確認すると、実に清々しい笑みを浮かべた心掠のマニフが右腕を突き出していた。
『坊や、ご主人様に逆らうとは良い度胸ね。死を持って償わせてあげる』
ペロリと右手の血を舐めた魔族が、輪郭の無い魔法陣を出す。
洞窟の中で使われたものと違い、明確な殺意が宿っていた。
エストは杖から手を離し、地面に伏した。
限界である。これ以上はもう、戦えない。
いくら魔女に魔術を教わろうと、龍人族の姉に鍛えてもらおうと、獣人の仲間から知識を共有されようと、今のエストにはこれが限界だった。
腹から流れ出ていく血が熱く、体が冷えていく。
なんとか顔を壁の方に向けたエストは、上でちょこんと立っている小さな鳥──ネフにかけていた土魔術を解いた。
ネフの名札が砕けると、街の方へと羽ばたいていく。
『心壊の呪禁』
魔法陣から真っ黒な腕が伸びた。
人の胴を握れそうなほど大きな手は、飢えた人間のように空を何度も掴み、エストの背中の上に座す。
親指と小指でエストの頭をつまみ上げると、小さな呻き声が聞こえた。
そして溶けるようにその手が黒い霧になった瞬間──魔法陣ごと姿を消した。
「よく持ちこたえた、少年。賞賛に値する」
エストの前に、黒い髪の青年が立っていた。
浅くフードを被った、ローブ姿の魔術師である。
やっとの思いで顔を上げると、なぜかエストと同じ杖を持っており、杖先には半透明な魔法陣が浮かんでいた。
青年は魔族に向かい合い、昔話をするように言った。
「久しいな、マニフ。その魔力量からして、まだ人を食っていないと見える」
『ど、どうしてお前が……嘘、嘘よ。嘘嘘嘘ウソ!!』
「怯えなくていい。それより、ゴブリンの死体が邪魔だな。殺す前に掃除といこう」
トン、と石突きを地面に打つと、海のように広がっていたゴブリンの死体が血溜まりだけを残して消えた。
その光景を見ていたアリアとシスティリアは絶句し、アリアに限っては安堵の息を吐いていた。
「九百年ぶりだな。五賢族はまだ生きているか?」
そう言いながら杖を構えると、パッと切り取ったように魔族の腕が消失する。
悲鳴を上げながら後退りしても、逃げ場はない。
青年はジリジリと詰め寄り、感情の無い瞳を覗かせた。
魔族は恐怖に支配され、無数の魔法陣を空に出す。
その青年の顔がとても恐ろしく、忌々しく、魔族にとっては悪魔とも呼ぶべき人間の姿だった。
『……リューゼニス! お前は死んだはず!』
「それは誰だ? 俺の名前はジオだ。ただ、まぁ……昔はそう呼ばれていたかもしれないな。遠い昔の話だが」
二人の話している最中、エストは必死に止血を試みる。
体内に流れる魔力を調節し、流れ出る血を食い止めようと、その形を変えていく。
今のエストに、魔術を使う余裕は無い。
生きるためにもがき、システィリアより先に死んではいけないという言葉が呪いのように魔力を動かす。
浅く息をしながら、少しずつ血を止めていく。
魔力で作った目の小さな網を組み、貫かれた腹を塞ぐ。
「最後に慈悲をくれてやる。言い残すことはあるか?」
『お前さえ居なければ……お前さえ居なければぁぁ!! 死ねぇぇぇぇ!!!!』
「……はぁ。これだから魔族は」
無数の魔法陣から赤黒い炎の剣が射出される。
しかし、青年は軽く杖を振ると、その全てが虚空に消えた。
そしてエストの方へ向かって歩き、片手で担ぎ上げた瞬間──
魔族を貫くように、炎の剣が現れた。
消えた時の勢いをそのままに、魔族は全身を自ら生み出した剣で焼き焦がしていく。
一瞬にしてその姿が散ると、焼け焦げたドレスの一部がゴブリンの血溜まりに溶ける。
「……シス、ティ……」
「喋るな。死ぬぞ」
静かに気を失ったエストを担いだまま、ジオと名乗る青年は二人に言った。
「一ツ星、お前はそこの少女を鍛えろ。少女、お前は白狼族だな? ならば強くなれ。今の一ツ星はまだ幼い。成長の早い白狼族なら、今の一ツ星と同等には強くなるはずだ」
「……うへぇ、分かった」
「あ、アンタは……誰なのよ」
「後で一ツ星に聞け」
それだけ言うと踵を返し、青年はエストの杖を虚空に消した。
「待ってよ! エストをどうするつもり!?」
「お前と同じだ。徹底的に鍛え上げる」
青年の足元に半透明な魔法陣が出現すると、パッと姿を消した。
あまりにも滑らかに姿を消すもので、システィリアはその後も誰も居ない高原に向かって叫び続けた。
「なによ……なんなのよ!」
ただ叫ぶことしかできない己にイラつき、応急処置を済ませたアリアに宥められていた。大切な人を連れ去られた以上、両者の気持ちは通じている。
ある程度落ち着きを取り戻したところであの青年は誰かを聞くと、システィリアは口を開けたまま固まった。
「あの人の名前はジオ。世界でたった一人の──」
──三ツ星冒険者。
エストやアリアでさえ倒せなかった魔族を軽々と倒した青年、ジオ。
しかし、アリアが語る彼の姿は、《《表向き》》の姿でしかない。
彼の真相を知るのは、今のところただ一人。
古の魔女エルミリア。エストの師匠である。




