第81話 迫り来る軍勢
レッカ帝国最南端の街、ガルネト。
ユエル神国とを隔てる山脈で仕切られた北側が、帝国の領土である。
商人や冒険者が数多く生活し、山の中腹を貫くようにできたダンジョンは、帝国でも屈指の難易度を誇っている。
そんな危険地帯を前に、土のベッドで眠る旅人が二人。
今日はエストの方からシスティリアにくっついており、寝息を立てる口元には水色の耳があった。
「ん…………はむ」
「ふおぉぉあああああああっ!!!!」
寝相で耳の先を咥えた瞬間、システィリアが飛び起きた。
全身に鳥肌が立ち、顔が赤い。痙攣するように動く耳を抑えながら、少しずつ覚醒するエストを睨んだ。
「……ネフ? 声変わりした?」
「あ、アンタねぇ! アタシの耳を食べようとしないでよ! ビックリしたでしょ!?」
「…………システィか」
「残念そうにするなバカ!」
まだ朝日も昇っていないので、エストはもう一度寝ようとする。
すると、すかさずシスティリアは彼の顔の上に水球を浮かべ、重力に委ねた。
だがしかし、魔力を感知していたエストは見ることなく魔法陣を乗っ取り、顔に落ちる寸前にシスティリアの顔へ飛ばした。
「ぶへぁっ! この……変態!」
そう叫んだ彼女がベッドから降りようとすると、エストは手を掴んで引き止め、もう少し一緒に寝ようと誘うが、それどころじゃない彼女は断った。
もう一度水魔術で顔を洗うと、森で拾っていた枝と炭で歯を磨き、朝食の準備を始める。
朝からワイバーンの肉を使って料理をしていると、朝日が昇って山の腹を照らしていく。
「エスト、朝よ。起きなさい」
「……ネフが起こして」
『ピィー! ピピィ!』
すっかりネフの鳴き声が目覚ましになっているエストは、その声を聞いてから起き上がった。
ちょうど料理が終わったシスティリアが配膳を終えると、エストはベッドの上をぽんぽんと叩く。
不機嫌そうに彼女が横に座ると、寝癖のついた尻尾と髪を整えてもらった。
機嫌を良くしたシスティリアは、エストの手をとって食卓に連れて行く。
静かな朝は少し冷たく、温かい。
豪勢な朝ご飯を食べた二人は、遂にガルネトへと向けて歩き出した。
「見て。あの穴がダンジョンらしいわ」
「洞窟型異界式? あれが活性化したダンジョンか。意外と普通」
「そりゃ中に入らないと分かんないわよ」
「……放置しちゃダメ?」
「ダメよ。アタシたちは仕事で来てるの。シャキッとしなさい」
「あ、ベリーだ。採ってくる」
高原を縦に分けるように、一本の川が流れている。
その川のそばに、ネフが好きなベリーが実をつけていた。
相変わらずマイペースな彼の姿を追うと、システィリアの尻尾がぞわりと毛を逆立てる。
「……なに?」
本能的な異変を感じ取り、山の中腹──ダンジョンの入口へ体を向けた。
しかし何か分かるわけでもなく、ただじっと見つめている。彼女にとって、初めての経験だった。気配のような何かに怯えたのは。
今も意識を向けてしまうほど、強烈な殺気。
あの穴で何が起きているのか。想像もできずに居る。
「システィ。あの程度で怯んでたら、この先どうしようもないよ」
「……アンタも感じた、のよね?」
「うん。ワイバーンより強い魔物が居る。それも遥かに強い。多分、僕だけだと死ぬと思う」
「アンタがそこまで言うほど?」
「だって、足が震えてる。こんなのお姉ちゃんと戦う時しか経験ないよ」
全力の殺気を浴びせながら打ち合うアリアは、エストにとって怖い記憶として残されている。しかし、そのおかげで強くなれた。
そんなアリアを彷彿とさせる殺気が、穴の方から向けられた。
エストのこめかみに冷や汗が伝い、ローブで拭う。
善戦すら許されるかどうか。
依頼としての『調査』は出来ても、『対処』は失敗するとしか思えないのだ。
改めてダンジョンの穴を見ると、何かが蠢いているのが見えた。
エストは魔力感知を広げ……乾いた笑いが出た。
「ゴブリンとオークの川が、街に向かって流れてる」
絶望的な報告を受けて、システィリアはエストの裾を引っ張った。
その目には『助けに行こう』と書いてある気がして、大きく頷く。
全力で走らないように注意しながら向かうと、街の門に着いた時、大量の馬車がガルネトを発った。
激しく鳴らされた警鐘から、街を放棄する勢いで避難していることが分かる。
続々と出て行く馬車を見送ると、二人はガルネトの冒険者ギルドへ走り出す。
「戦える人しか残ってないはずよ!」
「あの数はどうにかできるものじゃない。数万とか数十万の規模。誰も残ってないと思う」
だから川だと言ったんだと主張するが、ギルドに入った時、存外にも冒険者は残っていた。しかし、BとCランクが合わせて三十人程度だけであり、それ未満の冒険者は馬車で避難させられた。
やっぱりと思うエストに、システィリアは悲しそうな表情でエストの陰に隠れた。
「増援か? 人数とランクは?」
「僕はB、彼女はC。二人だけ」
「……そうか」
深刻そうな顔で聞いてきたのは、ここガルネトの冒険者ギルドのマスターである。焼け石に水にも程があると、冒険者らの表情は暗い。
「それじゃ、行ってくるね」
「……エスト?」
「戦うよ。上級魔術を覚えたなら、守るために使うしかない。早くしないと、街が消えちゃうし」
話している暇は無い。
残された時間で一匹でも多く魔物を倒さないと、街が飲み込まれてしまう。
守るために魔術を使う。中級だろうが上級だろうが、使う魔術に制限はかけない。
杖を片手にエストが走り出すと、数秒遅れてシスティリアも走った。
……冒険者の面々は、未だに動かない。
衛兵の居ない外壁の階段を上がって見えた景色は、まさに魔物と川と呼ぶに相応しいものだった。
既に何万ものゴブリンやオークが転がり落ちるように穴から溢れ出し、互いに踏み潰し合うことで山の斜面が赤く染っている。
悪臭が立ち込め、システィリアの表情が歪む。
「増援、来ると思う?」
「……無理じゃないかしら」
「そっか。じゃあ僕たちで全部倒そう」
「──は? 今なんて言った?」
「僕たちで全部倒す。やるしかないんだ」
背嚢を置き、ネフを降ろしたエストは杖を構えた。
今も尚溢れ出す穴を見るに、上級魔術で一網打尽にするよりも、初級と中級で少しずつ数を減らす方が効率が良い。
周囲の空気が冷たくなるほど意識を集中させると、穴の上空に大量の白い単魔法陣が現れた。
全てが氷針を改変したものであり、氷の丸太を転がすことで効率的に圧死させるつもりなのだ。
何十、何百とある魔法陣が輝くと、横向きになった氷の丸太が現れ、ゴロゴロと音を立ててゴブリンを轢き殺していく。
これまで以上に山を赤く染めていき、グロテスクな紅葉が始まった。
「もうそれだけでいいんじゃないの?」
「よく見て。所々に居るオークに壊されてる。これで倒せるのは一割程度。大半は生き残る」
溢れ出た魔物はダンジョンで生まれたにも関わらず、中々の知性を持っている。
オークが自らの体で壁を作ると、氷を受け止めてから破壊するといった連携を見せた。
街の外壁より麓側では、まだ大量のゴブリンが群れを成し、鋭い爪を立ててよじ登ろうとする姿が見える。
「穴が塞げない。魔力が吸われる」
「……ジリ貧ってヤツね」
「仕方ない、ここからは手作業でも削ろう。システィ、氷鎧を使う。壁に近い奴から倒して」
「分かったわ。アンタはどうするの?」
「ちょっと奥の方を削る」
トン、と杖を突くと、二人を透明な鎧が覆う。
抜剣したシスティリアが外壁から飛び降りると、一振りで数体のゴブリンをまとめて斬り払った。
エストは強化した風域で緩やかに着地し、うじゃうじゃと寄ってくるゴブリンを無視して歩き出す。
針のような爪が無数に振るわれるが、氷でできた鎧に傷を付けることも出来ず空振りに終わる。しまいには空振った爪が他のゴブリンを傷つけ、エストが何もしていないのにゴブリンの血が流れている。
しばらく魔物の川を上っていくと、わずかに標高が高くなった。
振り返れば、溢れ出た魔物は川ではなく海のようになっており、活性化により街が滅んだ理由を実感する。
「流石に多い。回禄燼滅」
改変され、薄く伸ばされた赤い多重魔法陣が海底に現れた。陣の直径は四百メートルを超えており、中腹のオークを倒す前に、下に溜まったゴブリンを処理する火の上級魔術だ。
まとわりつくゴブリンに杖を薙ぎ払って手元を確保すると、なんでもないようにその魔法陣が輝いた。
刹那、魔法陣の上に立っていた数千を超えるゴブリンが焼失する。
「酷い臭いだ。ごめんねシスティ」
獣人の鼻では苦しいであろう魔物の臭い。
ただでさえ悪臭を放つゴブリンが無数に存在するのだ。相当の我慢をしているに違いない。
申し訳ない気持ちを抱きながら何度も上級魔術を使っていると、不意にエストの体がぶっ飛んだ。
落ち着いて空中から見つめる先には、エストが作った氷をバットに、振り抜いた姿勢を維持するエルダーオークが居た。
「うわ、結構居る。これに人でやるの?」
斜面から氷の柱を出し、その上に乗った。
上から魔物の川を見ると、基本をゴブリンとしてオークの壁、そしてエルダーオーク同様に上位種であろうゴブリンが何十体も目に付いた。
自身の魔力量から見ても、全部を倒せるとは思えない。
それに、殺気の正体である魔物はまだ、姿を見せていない。
節約か、対処か。
後のことを考えるほど、今が危うくなる。
「対処かな。最悪システィを連れて逃げよう」
エストは全域に渡って白い多重魔法陣を大量に出現させると、大きく息を吐いて集中する。常に最悪を想定した動きをしないと生き残れない。そう考えての行動だった。
上級氷魔術、絶対零度を発動させようとした瞬間────ガルネトの門が開いた。
咄嗟に魔法陣を消して振り返ると、門の前に居たゴブリン達が、一直線に消し飛んでいく。
割れた海が戻るようにゴブリンが動くが、またもや凄まじい勢いで肉片を撒き散らし、赤い光が輝く。
醜いゴブリンが散っていく中、エストは見た。
赤く煌めく炎のような髪。
戦闘態勢に入ると見える、縦に伸びた龍の瞳。
軽くしなやかな動きで、重く鋭い一撃を呼吸のように繰り出す剣技。
返り血を浴びてもなお美しい姿。
十年の時を共にした、最愛の姉。
「アリア……お姉ちゃん?」




