第5話 魔術禁止令
雪が溶け、季節は春になった。
今日も今日とてエストは魔道書を読んでいる。
椅子に座り、魔女や先人の魔術師が残した軌跡を辿っているのだ。
「して、エストよ。お主、友達は欲しくないか?」
「要らない。友達より知識がほしい」
「ぐぬぅぅうおあああぁっ!!」
「ご主人大ダメージ。ワンパンけーおー」
今のエストには、本の内容の方が重要だった。
それは、魔術が使えないダンジョンがあること。
厳密には、魔力の移動が出来ない部屋があること。
これは、そんな部屋に入った際、魔術師がとれる最善の行動を実験したレポートだった。
「師匠は魔術が使えなくなったら、どうする?」
「ん〜、そんな状況にならないのう」
「どうして?」
「お主が読んでおるの、魔封じの部屋であろう? わらわ、それくらいなら空間を動かせるから意味が無いのじゃ」
「……空間を。なるほど」
エストは薄々気付いていた。
魔女はこの空間すら操れる、と。
それはこの屋敷の構造にも表れ、逆に分からない方がおかしいと思うほどに。
ゆえに、理解できる。
空間を滅茶苦茶にするんだろうなと。
「あ、エストに体力作り、必要じゃないの〜?」
「そうじゃのう。魔道書を運んだりしておるから、ある程度は筋肉も付いてるじゃろうが……鍛えておいて損は無いしの」
アリアの提案であるソレは、大事なことだった。
実は魔術師には、並の剣士よりも体力が求められる。
それは怪我をしても魔術を使うだけの精神力を鍛えるためであり、そもそも怪我をしないためである。
アリアは龍人族の怪力といいう種族特性が。
魔女は圧倒的な魔力があった。
しかしエストには、どちらも無い。
並より魔力はあるだろうが、休憩無しで魔術を連発出来るかと言えば、答えはノーだ。
つまり、本格的な魔術師になるための鍛錬が必要だった。
「エスト、これから三ヶ月は魔術禁止じゃ」
「……え?」
「無論、魔力操作は続けるのじゃ。魔力の常時知覚は言わば生命活動。それを怠れば魔術師として死ぬと思え。では、これより体力作りを開始する」
「あ……え、魔術が使えない」
現在、エストの体表を魔女の魔力が覆っている。
そうすることで、体外に出ようとした魔力をジャックしているのだ。
エストには到底真似出来ない技術である。
それを理解して、エストは本を閉じた。
「アリアの指示に従い、体力を付けるのじゃ。安心せい、怪我することが無いよう、わらわが常に見守っておるでの」
「う、うん」
「大丈夫じゃ。怖くな〜い、怖くな〜い」
魔女に抱きしめられ、背中をポンポンされる。
特に怖くはなかったが、不思議と安心感に包まれた。
ドアを開けると、トレーニングメニューを考えたメイドが待機していた。
「まずは〜、腹筋五回と腕立て五回。それから〜、疲れるまで走る」
「わかった」
「簡単だと思った〜? ふふ、現実は厳しいよ〜」
アリアが何を言っているのか分からないが。
しかしやればいいとのことで、エストは腹筋を始めた。
柔らかな草に、軽い体重が乗っかった。
三角に曲げた足を軸に、体を起こす。
「ぜ〜ろ」
おかしい。
今、絶対に一回はカウントされたはずだ。
そう思い、エストはもう一度体を起こすと──
「ぜ〜ろ」
「……なぜ?」
「正しく筋肉が動いてないよ〜。はい、足掴んであげるから、お腹に意識してやってみて〜」
アリアに足首を掴んでもらい、腹に意識を向ける。
そして腹筋を中心に体を起こすと、エストは凄まじい疲労感に苛まれた。
「い〜ち」
──あ、地獄だ。
そう理解するのに、一秒も要らなかった。
龍人族であるアリアには、筋肉の動きが視える。
それこそが龍人族が最強と言われた所以のひとつであり、トレーニングコーチとして最も優れていることの証である。
エストは必死に食らいつくしかなく。
アリアは愛を持って厳しくした。
「ご〜お。はい、腹筋終わり〜」
「はぁ、はぁ、はぁ……しんどい」
「次は〜、腕立て伏せ〜」
既に満身創痍であった。
運動不足も良いところのエストには、正しい腹筋五回はほぼ全ての体力を使う。
そして無情にも、次のプログラムに移った。
アリアは優しく甘えさせてあげたい。
しかし、それではエストのためにならない。
優しさと甘さを履き違えてはダメだと思い、このトレーニングだけは厳しく接した。
「はい、ご〜お。最後はランニング〜」
エストは大人しく、最初にやり方を聞いた。
その甲斐あってか、早々に地獄を切り抜けた。
しかしまだ、地獄が残っていた。
疲れるまで走る。
そう、これだけ曖昧だった。
今から何が始まるのか。
不安に胸を潰されていると、アリアは屋敷に向かって手を振った。
「ご主じ〜ん、ゾンビ君だして〜」
「──出したのじゃ〜」
刹那、ドロドロに溶けた人間のような何かがアリアの背後に現れた。
エストがあまりの悍ましさに固まっていると、パンっ、と手を叩いたアリア。
「ってことで、ゾンビ君から逃げてね〜」
「う、うっそ〜ん」
「ほんと〜ん。時間は~、十分逃げられたらご褒美ね〜。範囲はこの敷地だけ。出ようとしても結界で出られないから、頑張ってね〜」
エストの精一杯のギャグは、悲しく返された。
そして、ゾンビ君による鬼ごっこが始まる。
既にヘトヘトだというのに、いきなり走らされるのだ。
少し走ってからゾンビ君の様子を見ていると、一定のペースで歩いているようだった。
「これなら余裕……じゃ、ないよね」
一分が経つと、ゾンビ君の足が早くなった。
そう、徐々に苦しくなる方式だ。
はじめは休憩になるかもしれないが、時間が経つにつれて全速力をキープしなければならない。
その後は限界を超えて早く走らなければならなくなり──
初日の記録は……三分五秒だった。
「はいしゅ〜りょ〜。よく頑張ったね」
ゾンビ君にタッチされると、すぐに座り込んだ。
肩で息をするエストに、返事をする余裕は無い。
体が、内臓が、細胞が空気を欲している。
そう思うほど、息が切れていた。
もし、今魔術を使えと言われたら?
そう思った瞬間、エストは理解したのだ。
あぁ、魔術師は誰よりも体力が要るな、と。
この日から、地獄のトレーニングが始まった。
今まで甘えたツケとでもいうのか、一切の容赦がなくなった。
しかし、帰ったら魔女が甘やかしてくれるのだ。
一緒にお風呂に入り、上がったら魔道書を読む。
ただ、エストは子どもということもあり。
風呂を上がると、すぐに睡魔に襲われるのだ。
そのお陰で寝る前のジャンケンは中止され、二人で交互に一緒に寝ることになった。
エストは体力を得る。
二人は一日おきにエストと寝られる。
互いにwin-winな三ヶ月が続くのだ。