第8章の26 姫を守るもの
少し重めです。
時は少し遡る。各国の王が代わり、魔界との協定が結ばれた直後のことである。
癒慰は息を吐いて、王座の横にあるサイドテーブルに報告書を置いた。日々やらなければならないことが山積している。
王座の間は絢爛豪華で時折気後れしてしまう。癒慰にはあまりなじみのない場所だった。
最後にこの場所を見たのはいつだったかと考えて、あぁと自虐的な笑みを浮かべた。
(私が闇の子と分かった時だわ)
兄弟と喧嘩したのがきっかけだった。髪が黒ずんだところを見られた癒慰は、母親と一緒にこの場に引きずり出され、牢への幽閉を言い渡された。確か、表向きは辺境の領地で療養だったか。
“闇の子だと!? そんなものがこの一族に生まれていいものか!”
生々しい声が脳裏によみがえる。王座から立ち上がり、蔑んだ目を向けた父親。少し前までは、一緒に食事をしたり話をしたりしていたのに、その豹変が恐ろしかった。
癒慰は引きずり込まれそうになる意識を一度止め、立ち上がった。離れたところで書類を処理している宰相に、散歩してくると伝えて部屋から出る。
庭で花でも見れば、気分が晴れるかもと庭園を目指した。すれ違う官や侍女は礼を取り、癒慰は手を振って返す。
ふと窓の外を見ると、庭園にある東屋が目に入った。ギリシャ神殿のような柱が使われ、色も柔らかな白色だ。
その風景は幼き頃の記憶を引き上げる。妾の子だと腹違いの兄妹から苛められ、泣いて逃げ込んだ場所だった。
“身分が低いくせに、同じ王族と思わないで”
“こいつの母親は卑しいんだ”
“さっさと出て行けよ”
子どもは大人が隠している言葉を、いとも簡単に口にする。癒慰はぐっと唇を噛み、拳を握って耐えていた。
癒慰の母は正妃に行儀見習いの侍女として仕えていた男爵位の娘だった。身分は低いながらも貴族だったため、母は側妃として迎えられたのだ。
だが正妃は快く思わず、風当たりはきつかった。気の弱い母は滅多に自室から出ず、時折恨めしそうな目で癒慰を見ていたのだ。
癒慰は庭園に足を踏み入れ、近くのベンチに座る。頬を撫でる風、木々が揺れ木の葉がさざめく音に、鼻孔をくすぐる花の香り。
強張った心が解きほぐされていく。
(だめね……早く忘れないといけないのに)
忘れるどころか、どんどん思い出してしまう。
今は表立って癒慰を悪く言う人はいない。むしろ、とても好意的だった。
“人間界で過ごされたからか、民の気持ちがよくお分かりになりますね”
“植物をそれほど上手く操れるとは、さすが闇の子ですな”
折を見てかけられる言葉に、癒慰は困惑しながらも笑顔で礼を返す。
この二日で侍女や宰相と話した内容を繋ぎ合わせると、侍女はあの日以降に入った者が多く、官も暴動や政変で大きく入れ替わったらしい。保守派が消え、比較的革新的な考えをする者たちが増えた結果、闇の子にも寛容な土壌が出来上がった。
そして宰相も当時は領地視察に出向いており、城にはあまりいなかったそうだ。
つまり、今癒慰の周りには、当時の癒慰の状況を知るものはいないに等しかった。彼らの認識は側妃の娘で、体の弱い側妃とともに領地で療養していたことになっている。
そのズレは癒慰にとっても都合がいいのだが、なぜか心の奥にわだかまりが残っていた。そのもやもやは、鉛のように重く沈んでいる。
覚悟をして帰って来たはずなのに、これぐらいで気落ちしてしまうのかと、情けなくなってくる。
「癒慰様?」
ふいに横から声を掛けられ、肩が跳ねた。顔を声がした方に向けると、一人の青年が立っていた。
栗色の髪は短く、ほどよい筋肉がついている。軽装なので、見学者がここまで迷い込んだのかもしれない。
「突然お声がけして申し訳ありません。もしやと思いまして」
彼は緊張しているのか、表情は硬い。癒慰はにこりと笑って答えた。
「そうよ」
彼の表情がパッと華やぐ。数秒言葉を探すそぶりを見せ、あのっと言葉を続けた。
「お花は、お好きですか?」
「好きよ。いいお庭だわ」
「はい……私も、きれいだと思います」
視線の合わない青年に、王族と話すとなれば当然かと癒慰は割り切り、腰を上げた。あまり長居もできない。
「楽しんでいってくださいね」
笑顔を作ってから、その場を後にする。
(仕事をしよう。そしたら、余計なことを考えなくていいもの)
そして、王としての仕事と勉強の日々が始まった。癒慰は継承順位が低かったため、政治などの勉強はしていない。それを補いながら、書類の決裁を進めていく。
皆の期待する眼差しに応えようと、懸命に取り組んだ。
早くもに来て一週間が経ち、癒慰はの休日を過ごしていた。今日は午後から零華が遊びに来ることになっている。
侍女とおしゃべりをしながら、お茶とお菓子を選ぶ。侍女の服は可愛いメイド服で、癒慰がデザインしたそれは好評で、流行の兆しを見せていた。
そしてお茶の時間となり、異空間に繋がるドアのベルが鳴った。
「はーい」
癒慰がそのドアを開けると、水色の流線模様が美しいドレスを着た零華が立っていた。装飾は少なく、シンプルなデザインだ。
「お邪魔しますね」
「おいしいお菓子用意したよ」
癒慰は零華を招き入れ、自慢の庭園へと案内する。
対する癒慰のドレスはピンク色で、フリルもふんだんに使われていた。
庭園は部屋からも見える位置にあり、最も花がきれいに見える位置に、テーブルと椅子、日よけの大きな傘を用意していた。
「本当にきれいですね」
目の前に広がる色とりどりの花に、零華は目を見開いた。水の国にも庭園はあるが、規模が違う。加えて水の国は噴水や滝が目を引くが、ここの庭園は花が主役だった。
二人が椅子に座ると侍女がお茶を淹れる。
「なんだか新鮮ですね。いつも癒慰ちゃんが淹れていましたから」
「そうね。みんな上手だから、つい任せちゃうわ」
癒慰はお茶を淹れ終わった侍女に下がるよう指示し、庭園には二人だけになった。
「おいしいですね」
「でしょ」
二人はお茶を一口飲んで、ふぅと息をつく。気の置けない仲間と一緒にいると、自然と肩の力も抜ける。
「癒慰ちゃん、どうですか? 少しは慣れましたか?」
「うん、少しずつね。みんな優しくて、親切にしてくれるわ。まずは勉強からだけど」
その答えに零華は目を細め、微笑を浮かべた。
「零華ちゃんは?」
「伯母様とのやり取りに神経を使いますね。狡猾に引退しようとなさるので」
癒慰はくすくすと小さく笑った。伯母の顔は知らないが、零華と対等に渡り合えるほどの人物なら、会ってみたい。
「けど、楽しいんでしょ?」
迷惑そうに話す割にはいきいきとしていて、零華は、まぁ……と小さな声で認めた。
「そういえば、昨日秀斗君が来ましたね」
「私のところには一昨日来たよ」
まるで隣の家のように、彼は気軽にやってくる。
「暇なんですかって、嫌味を言ったら、暇だって笑ってましたね」
「らしいね。あの国、王都しか街ないんだもんね」
草原を愛する遊牧民族ならではだ。つまり、複数の街を持ち全国から報告や決済の書類が上がってくる他国と違い、仕事量が格段に少ないのだ。
「その代わり、草原の族長たちとの関係づくりは大変そうですけどね。あの国は、後宮がありますから」
いじわるそうな笑みを浮かべる零華の顔には、女性関係で苦しみなさいと書かれていた。
「後宮!? あれ、実在するの?」
人間界での歴史や、物語に出てくる陰謀渦巻く後宮。男女と権力と血で物語られる愛憎劇は好きだが、現実となると話は別だ。秀斗に同情してしまう。
「人間界や物語のように権力関係はないそうですけどね。あの国は、権力という名の束縛より自由を取る国民性ですから」
ゆえに、人口の五分の一ほどしか街に定住していないのだ。
「部族の娘が送られてくるんですって。何十人も」
零華は完全に他人事で、おいしいオレンジの風味が効いたクッキーを口に運んだ。
「……それ、秀斗君知ってるの?」
「さあ。私は言ってませんし、いつかは知るんじゃないですか?」
その場にいられないのが残念ですと眉根を下げる零華に、言葉の刃の切れ味が上がっていると内心慄く。
水の国には、零華の切れ味を磨く人がいるのだろう。
そして話は、互いが初めて魔術界に来た時のことになる。癒慰は零華の話を聞いて、血は争えないと苦笑を浮かべた。
零華は癒慰の話に、発想がいいと笑う。何より無駄な争いが無くてよかったと、目元を和ませた。
「でも、そのわりには元気がないように見えますよ?」
槍で突くような言葉に、ドキリと癒慰の心臓が跳ね、そろっと零華の顔を伺う。表情は微笑んでいるが、目が本気だ。
これは言い逃れを考えても無駄だと諦めて、癒慰は気にかかっていることを話した。
今癒慰と関わりのある人たちのこと。彼らが知っている過去が異なること。
ぽつぽつと吐き出すように話せば、心が軽くなって来た。淹れなおしたお茶が入るカップを見ながら話していた癒慰は、話が進むにつれ零華の顔がひきつるのに気づかない。
「気にしても仕方ないし、知られたくもないんだけどね。なんか、もやもやしちゃって。けど、話したらすっきりしたわ」
ありがとうと、顔をあげた癒慰の表情が固まった。まずいと、頭の中に警鐘がなる。
零華は笑っていた。それはそれは冷たく、背後に猛吹雪が見える。
「あ、あのね。別に大丈夫だからね?」
「大丈夫? いえ、そんな辛そうな顔をさせただけでも、罪です」
「ちょっと、零華ちゃん? なんで立つの? ねぇ、過激になってない?」
零華は怖い笑顔のまま立ち上がり、城の中へと入っていく。その後を癒慰も着いていくが、この方向は嫌な予感しかしない。
「ねえ、そっち行ってもおもしろいものはないよ?」
「いえ、少しご挨拶をしたい人がいるので」
ずんずんと迷いなく進んでいく零華。その方向には、ソートがいる執務室がある。
「零華ちゃん……場所、分かってるの?」
あまりにもためらいなく進むので、恐る恐る訊いてみた。
「えぇ。各国の公開可能な部屋は知っています。見取り図が城にありましたし」
各国を訪問する際、緊急時のためにと覚えさせられたのだ。早速役に立ったと、悔しいが伯母に感謝する。
「……そ、そう」
執務室の前に立つ護衛が、二人に気づいてドアを開けた。癒慰はせめて被害を最小限に抑えようと、護衛に下がるよう伝え人払いをした。
執務室の中では、ソートが書類の整理をしていたようだ。二人に気が付くと立ち上がり、朗らかな笑みを浮かべる。
「こんにちは、零華様。いかがされました?」
「ご挨拶をと思いまして。座ってお話でもしませんか?」
「えぇ、もちろんですとも」
三人は執務室の角にある、応接用のソファーに腰を掛ける。ソートは癒慰と零華の向かいに座っている。
「癒慰ちゃんは私の大事なお友達ですので、心配なんです。困ってないか」
うふふふと笑う零華から、冷気が流れてくる。
ソートもそれを感じたのか、和やかなお話ではないと表情を引き締めた。
「何か、ございましたか?」
ソートは零華の隣でうつむいている自分の主君に視線を向けた。
「いえ、少し気にかかったんです。ソートさんは、癒慰ちゃんの小さい頃をどう知っているのか」
ソートは零華に視線を戻し、質問の意図を掴みきれないまま自らの認識を話した。
「側妃様の下にお生まれになり、城で過ごされていました。側妃様が体調を崩されたため、ご生家のある領地で療養されていたと記憶していますが」
「えぇ。それが、表向きのストーリーなのでしょうね」
「それはどういうことですか!?」
暗にそれは違うと否定され、ソートは身を乗り出した。
「想像してみてください。側妃といえども身分は低い。その子どもが、正妃の子どもたちからどのような扱いを受けるのか」
一つの可能性を導いたのか、ソートの表情が強張った。そこに畳みかけるように零華は言葉を続ける。
「そして、純血主義だった前王が、闇の子に対してどのような態度を取るのか」
純血主義は貴族や王族を優位とする考えで、真血や闇の子は蛇蝎の如く嫌われていた。
この辺りは伯母からの情報だ。彼女は昔から他国によく出向き、交渉をしていたため情報網は恐ろしいほど広い。
「ですが、前王様は癒慰様にも気をかけておられておられました」
「それは、闇の子だと分かる前でしょう?」
「しかし……。城の者は何も」
その時、ソートは領地の視察で城にはいなかった。だが、報告には何も上がっていない。
「緘口令でも引かれたんでしょうね。癒慰ちゃんがどこにいたのかわかりますか? 地下牢ですよ、この城の」
「まさか! 本当なんですか!?」
ソートの顔は青ざめ、驚愕の表情で癒慰を見る。癒慰はただ小さく頷くしかできなかった。自分で言わなければいけないのに、舌は乾き言葉は滑り落ちる。
「まさか、以前見つかった白骨は……」
「側妃様でしょうね。お花畑なのは、庭園ぐらいにしてください。癒慰ちゃんがここで王になるのは、生半可なものではないのですよ」
ソートは震える手を押さえつけて、癒慰に向きなおった。それは慙愧に堪えない表情で、手を白くなるほど握りこんでいた。
「癒慰様……私達は、何と愚かだったのでしょう。貴女を苦しめてばかりで……謝罪なんてものでは、どう償うこともできません! 私は、どうすれば貴女に償うことができますか!」
そう切迫した表情で乞うソートに、癒慰はぐっと唇を噛みしめて首を横に振る。いつしか、癒慰の瞳には涙が溢れていた。それがさらに、ソートの心を締め付ける。
「いい……いいの」
「いいわけないでしょう。いるだけで辛いなら、私の国に来てください。無理をしてまで王になる必要はないんですから」
零華が癒慰のためを思って言ってくれているのは分かる。それでも、癒慰は零華の膝の上に手を置いて、しっかりと首を横に振った。
「大丈夫、私が王になりたいの。確かに、いい思い出はあまりないけれど、この国を好きになりたい。辛い目に合わないような国にしたいの」
涙に濡れた瞳を、まっすぐ零華に向ける。それを受け、零華は甘いわねと目元を和ませた。
「本当に優しいですね。ソートさん、次癒慰ちゃんを泣かせたら、攫っていきますから」
「そんなことはさせません。必ず、癒慰様が幸せになれるような国にします」
零華の宣戦布告を、ソートが正面から受けた。火花を散らす二人に、癒慰は自然と笑みがこぼれる。
「二人とも、ありがとう。本当はね、ソートに知っててほしかったの。昔のこと……本当は、闇が怖くて、臆病なのが私だから」
皆が褒める自分は、自分ではない気がして、それが悲しみに拍車をかけていた。
「癒慰様……」
ソートは跪き、深く頭を垂れた。
「癒慰様が、この国に生まれてよかったと思えるよう。私たちが全身全霊でお支えします。もしお心が曇ることがあれば、すぐにおっしゃってください」
「ソート、座って。その気持ちだけで十分だから。これからもよろしくね」
涙の跡はあるが、いつもの笑みが戻った癒慰を見て、零華は私の仕事はここまでと立ち上がった。
「後は、二人でゆっくりお話でもしてくださいな」
「零華ちゃん、帰るの?」
「はい。夜には貴族との晩餐会があるので、準備があるんです」
面倒くさそうな零華を送り、また今度と別れた。異空間へと入っていった友人を見送り、癒慰は静かに息を吐く。
すっかり心の錘は消えていた。
そしてその夜、お酒を飲みながらソートに今までの話をし、彼は号泣した。
翌日、癒慰が王座に座ると、ソートが装飾のついた剣を持って近づいてくる。
「専属の騎士を選抜いたしました。武術の腕、家柄と申し分ない男です。任命の儀を行いたいので、お願いできますか」
「え、えぇ」
癒慰は口の中で騎士と呟く。物語の中ならキュンとするが、現実となるとピンとこない。
そんな癒慰を待たず、宰相の合図で扉が開いた。軽装の鎧を身に纏った青年が入ってきて、王座の前で片膝をつく。
(あれ……どっかで見たような)
少し見えた顔はすでに伏せられ、今一つ記憶と結びつかない。城の兵士の誰かだろうか。
癒慰は考えるのを止めて、先ほど教えられた口上を述べる。
「ここに、この者を私の騎士に命ずる。いつ、いかなる時も私の傍を離れず、その命を捧げなさい」
「はい。謹んでお受けいたします」
宰相が剣を持って近づき、彼に手渡す。彼は両手を頭上にあげて恭しくそれを受け取った。
「顔を上げなさい。名乗ることを許します」
「はい。私、土守樹は、この命がある限り陛下をお守りすることを誓います」
(あ、庭園で会った人だわ)
顔を上げた青年は人のよさそうな顔をしており、顔立ちも整っていた。
「よろしくお願いしますね」
癒慰は微笑んで彼を迎える。癒慰の日常は、新たな騎士が増え、少しずつ動き出すのだった。