71 [新明星]
カフェ浪漫主義を出てから私は虚子庵に寄り、これから[第二芸術論]等に影響される世の論調への対処を聞いてみた。
先生は、
「世の中はいつの時代もそんな物ですよ。議論が出るだけ活気があって良いでしょう。」
と笑っている。
まあ放って置いても虚子一門はびくともしないだろうが、若者達は新しい物に飛び付き易い。
また
「我々の定形詩は自由と言う言葉に弱い。そこは少し考えてみましょう。」
とも言っていた。
短歌や詩の方でも虚子先生の「深は新なり」のような名言が出れば、我々の強力な武器となるのだが………
我が庵に帰ってその辺を考えてみると、やはりこちらも大衆を引き付ける標語のような物を打ち出すべきだと思うが、なかなか良い言葉は浮かばなかった。
そして十一月となり、いよいよ新憲法が発布された。
元より知ってはいたが、アメリカ製らしく高らかに自由を謳う憲法だ。
K氏やO氏に取っては容赦なく古き良き文化を葬り去れる自由なのだ。
また来年は出版界は盛況になるものの、菊池君らの公職追放もある。
庵であれこれ思い悩んでいると道雄君が顔を出し、例の日本の古典句歌の英訳本が出たと報告してきた。
その本では俳句はHaiku、短歌はTankaとなったそうだ。
………それだ!
未来での日本人もカタカナ物に弱かったのだ。
それを先取りしてやろう。
ハイク、タンカ!
ニューポエム、ニュークラシック!
さっそくそのカタカナを使い各新聞雑誌に載せる[季刊明星]の宣伝文を書き、道雄君の本の紹介と共に頼んでおこう。
またアメリカでのハイク、タンカの評判を次号に小林君に書いて貰い、各文芸誌にも載せて貰うのだ。
要はイメージ戦略だから、真っ当な意味など無くても良い。
ついでに西條君の流行歌の歌詞もニューポエムとして小林君の欄で紹介してもらおう。
西條八十作詞の曲は戦後昭和に次から次へ大ヒットする。
元から彼は大正を代表する本格詩人だったから、我々の雑誌に起用する事に誰も否やは無いだろう。
その数日後に京都から吉井さんと保田君が鎌倉にやって来た。
秋の歌会を鎌倉でやるのと、[季刊明星]の一周年で今後の事を話し合うためだった。
残念ながら谷崎君は来られないが[細雪]が完成したら箱根の別荘に移る予定だそうで、その後ならたびたび鎌倉に顔を見せるだろう。
保田君は深秋の鎌倉の風情が気に入り、京の雅より鎌倉の幽玄の方が自分には合うかもしれないと、何首も詠んでいた。
この夜の歌会には川端君と三島君も詠み人で参加し、合評の時も熱心に発言していた。
[山かげを立ちのぼりゆくゆふ烟 わが日の本のくらしなりけり] 與重郎
地味な仕立てながら、人々の暮しへの永遠の祈りが山かげの烟に託されている。
[秋寂のくれなゐ深き池の面の 落葉分け行く水鳥の跡] 新之助
保田君がこれこそ正に中世鎌倉を象徴する幽玄体の絶唱と持ち上げてくれた。
吉井さんや三島君も盛んに頷いている。
三島君は皇子将軍として鎌倉に下向し鎌倉に和歌の美苑を作り上げた宗尊親王の小説を書き始めていて、その為の高雅な歌会の取材は最重要だと真剣に取り組み質問も多かった。
翌日は[季刊明星]の面々がカフェ浪漫主義に集まり、二年目以降の方針を話し合う事になっている。
佐藤君と虚子先生以外は全員集まった。
主な議題として月刊誌に移行するかどうかと、これまで同人誌としていたのを商業誌にするかの二点だ。
永井君が一年目の発行状況と収支を報告してくれた。
これまでの資金は全て私が出資している。
一号はもろの赤字だったが三号からは部数も飛躍的に伸び黒字化できた。
各書店での評判は上々で、月刊誌としてもやって行けるようだ。
そこで皆の意見を聞くと、月刊にしても商業誌にはせず同人誌のままが良いと決まった。
皆他の所では売筋の物を書かされているので、ここだけは自分の好きな物を書ける雑誌にしたいのだ。
赤字が出たら全員で負担する事にもなった。
この面々は皆人気作家だからその程度の負担は大丈夫だろう。
当面私が赤字分を補填するつもりだったが、ここは皆の心意気を有り難く頂戴しよう。
皆かつて与謝野さん達がやっていた[明星]への強い憧れがあるのだ。
そして月刊化するのを期して誌名を[新明星]とするのも決まった。
編集は大変になるが、引き続き永井君が請負ってくれた。
実は彼も来年公職追放を受けて文芸春秋社の取締役を首になるので丁度良いのだ。
公職追放と言っても雇われ仕事や個人の仕事をするには何の支障も無い。
次には永井君からレギュラー陣の他にゲストの企画を設け、その第一弾として翻訳詩と世界の詩歌を紹介するのはどうかと提案があった。
月刊誌にするには新たな企画がもう二つ三つ欲しい所だから、皆その案には大賛成でここは堀口君の出番だ。
他にも随筆がもう一つ欲しいので、一年単位の連載として先ずは永井君が書く事になった。
また来年からは大佛君が中心となり鎌倉文庫から[苦楽]と言う文芸誌が出る。
詩句歌が主力の[新明星]と、小説随筆中心の[苦楽]で上手く住み分け、互いに協力出来そうだ。
川端君と久米君の[人間]はまあ………短命に終る運命だが、戦後の混乱期を凌ぐ役割は十分に果たすのだから立派だった。
もう一つ付け加えておくと、三島君が構想中の意欲作[幽玄の皇子]は我々の[新明星]で発表したいそうだ。
最後は私が締めろと言うので、今後の日本の大衆化と西洋化に関わらず[新明星]は高雅さと神聖さを決して失わないとぶち上げると、店の他の客まで巻込み盛大な拍手で終わった。
大衆文化と本格芸術は別に敵対関係にある訳ではない。
未来での私はゲームやアニメも好きだったし、同時に古典詩歌も好きだった。
問題は敗戦後にそれを混同して古い物は全て駄目と攻撃し、そこに新たに自分達が取って代わり日本文化を牛耳ろうとする愚かな輩なのだ。
そしてそれらに先導され何となく日本の伝統美を捨てて行く一般大衆だ。
先日会ったK氏も何となく敗戦後の時流に乗って、西洋に比べれば日本文化は第二芸術だ、などと戯言を言い出したら世間に受けた程度の輩だった。
彼は俳句や日本の文芸を否定した後も調子に乗り、日本画は精々が床の間芸術程度の卑小な物で西洋の大美術館には到底敵わないと言い出す始末だ。
しかし画壇の中にもその言葉の尻馬に乗って、上に取って代わろうとする連中は幾らでもいる。
何度も言うが、新しく良い物が出て来るのは大歓迎だが、その為に千年の伝統文化を捨て去る国が何処にあると言うのか。
アメリカ人であるダンカン大佐でさえそんな愚かな事はさせないだろう。
私がいた未来の日本はそこを大きく間違った。
[新明星]の冬の号が出た。
執筆陣の頑張りで良い作品が揃い、三島君や小林君の評論も軌道に乗って来た。
定期購入も増え月刊化の広告も読者の期待を大きく膨らませた。
月刊化は次の一月号からだが、冬の号が出たのが十二月始めだから編集の永井君は大忙しで、見かねた菊池君が文芸春秋社から臨時の助っ人を送ってくれた。
またこの号から発行部数が一万になった。
文芸誌として一万部なら大雑誌と言える。
戦後僅か四ヶ月で他に先んじて発刊した事も大きいが、何より内容の充実が物を言っている。
錚々たる詩句歌人達が競い合い日本文化の精粋を目指しているのだから、当然と言えば当然だった。
また各方面からの注目度も高まっている。
今後の日本文化はどうなってしまうのかと疑心暗鬼だった人々が、この雑誌の成功を見て自国の文化に対する自信を取り戻しているのだ。
色々なジャンルでその影響は出て来ており、あちこちで戦災前の活気を今一度と力を入れ出した。
我が鎌倉に次いだのはやはり京都で、伝統の祇園の都踊りを復活させるようだ。
丸焼けになった東京の復興にはまだまだ時間が掛かる。
先ずは京都が頑張ってくれないと。
これには吉井さんも大いに協力して、新しい踊りの為の長唄を作詞すると張り切っている。
鎌倉では水原君の俳句誌[馬酔木]の若手が勢い付いていて、俳壇の注目を一身に集めていた。
また虚子先生もそれを応援しているのだが、俳壇ジャーナリズムの方では秋桜子一門が虚子に喧嘩を売ったような書き方で話題になっていた。
これには二人共俳句が世間の話題に上るのは悪い事では無いと苦笑するばかりだ。
そしていよいよ我々の真の戦いが始まる昭和二十二年となった。




