68 戦無き春
[季刊明星]の第二号は創刊号にも増して好評を博した。
菊池君の文芸酒春秋社の協力で今後の用紙の目処も立ったため、この二号から発行部数を三倍の三千冊に増やしたにも関わらず発売一週間で完売した。
その上に今回からは婦人向け雑誌の書評欄でも大きく取り上げられ、その影響か我々の他にも後世で言う詩的生活の薦めのような記事も増えて来た。
茶画詩庵の日記のような川端君の随筆と、何と言っても三島君の日本美に満ちた高雅な暮しの考察が、これまでの文芸雑誌には無かった視点で目新しかったのだと思う。
他の執筆者の詩句歌も春季号と言う事もあり、より日本の自然美や伝統生活の美しさに集中していた。
女性読者にとっては簡素な中にも美しい衣食住を題材にした詩歌が、今の苦しい時代に身近な希望の光と映ったのだろう。
人々が戦争が終わって初めての春を愛しむ気持ちになってくれれば我々も嬉しい。
これで私も安心して花の京都に古書画収集の旅に行ける。
前もって吉井さんが例の大津の店や京都周辺の店を下見してくれていた。
手紙ではすでに江戸初期の歌論書の井蛙集初版を入手したと言っていたから、下見と言うより自分の趣味で回っているような物だ。
鎌倉から川端君と古美術商の井上君が同行し、昨年よりはいささか安定して運行している東海道線に乗り込んだ。
車中で井上君に聞くと今は古伊万里の金蘭手が進駐軍に人気があり、鎌倉の店もそれで結構繁盛している様子だった。
日本人客はまだまだ少なく、他の古美術品はどこの店でもほとんど売れていないそうだ。
しかし彼もまた戦後盛んに旧家から放出されている品々は、今こそ仕入の好期と見て我々に同行して来たのだ。
また今年以降は戦後インフレが更に加速するから、二三年後を睨んで思い切って買い貯めるつもりだと言う。
まあ、彼も大体私と同じ目論見だ。
ただ出来れば彼には欧米に流出してしまう前に、日本の古美術品を少しでも救って欲しい。
京都では吉井さんが出迎えてくれ、馴染みの祇園白川の茶屋に落ち着いた。
京都では今年に入って目敏い欧米のバイヤーが目立つようになり、だいぶ荒らされているようだった。
古美術店の方でもこの円安インフレ下ではドルで支払ってくれる客は大歓迎なので、英語が出来る学生を臨時に雇ってでも商談をしているそうだ。
我々は始めから欧米人好みの色鮮やかな屏風絵や金蒔絵、色絵陶磁器などは諦めている。
狙いは和歌俳句類の古筆と中世から江戸時代の古書だ。
それらの欧米人には読めず興味も引かないような物なら、まだ手付かずに大量に残っていると言う。
取り敢えず吉井さんの話を参考に明日から回る店の予定だけ立てて、今宵はこれから谷崎君と保田君も交えて春宵の歌会だ。
彼等も久方の花の歌会をとても楽しみにしているようだ。
井上君も見学させてくれと加わっている。
そして宵近くなって茶屋を訪れた谷崎君、保田君と共に祇園円山から高台寺清水寺へと吟行に出た。
円山公園の枝垂桜はまだ三分咲きくらいだったが、夕霞の東山を背景に幽玄な姿を見せていた。
高台寺は人も少なく、静かな佇まいの中に満開の桜が風も無く散っている。
川端君はその光景をしきりにメモしていて、今度取組む京都を舞台にした小説の美しい場面が楽しみだ。
清水寺はかなりの人出で戦争が終わり春を待ち望んだ人々の安堵と喜びに満ちていた。
東京のような瘴気邪念に囚われた人も見当たらず、皆花散る宵の風雅を楽しんでいる。
美しい花や自然はそれだけで人の邪念を晴らす効果があるのだろう。
戻り道の二年坂から見下ろせば宵闇に包まれた古都の家並の朧灯は、泣けるほど懐かしい日本の心の風景だった。
私はまた亡き与謝野さんの名歌
[清水へ祇園をよぎる花月夜 今宵会ふ人皆美しき]
を思い出していた。
美しい詩歌もまた人の心を清浄にする効果があるのだ。
その後は茶屋に帰って楽しい歌会だ。
吉井さんが張り切り色々と準備してくれていた。
この茶屋もまた吉井さんの名作
[かにかくに祇園はこひし寝るときも 枕の下を水のながるる]
で有名になった店だ。
皆用意された短冊に今宵の詠歌を書いて行く。
谷崎君は仕上げにもう少し時間をくれと言って、水音が聴こえる縁側に一人出て行った。
川端君はまだ忙しくメモを書き込んでいる。
きっと良い情景が掴めたのだろう。
吉井さんと井上君は紫木蓮を入れた床飾りの古伊賀壺が、室町か桃山かと話している。
掛軸は頼山陽の春詩七絶だ。
やがて谷崎君の短冊も出揃い、川端君が詠み人となり歌会が始まった。
戦が終わり始めての春の感慨深さに、皆良い歌が出来たようだ。
[夢さめてうつつの花のすさましさ なにに流せし涙なりけむ] 與重郎
「“夢”が戦時中の事を指していると思えば、確かに現の桜の美しさはひとしお身に沁みますね。」
「花の凄まじさ、が効いているよ。」
「何に流せし、と哀しみを特定しなかった所が良かった。」
[たたかひに破れし國も春なれや 四條五條の人のゆきかひ] 潤一郎
「これは良くわかるよ。京はそうあるべきなんだ。」
「何せ応仁の乱も含めて幾多の戦乱に生き残って来た都だからね。」
「“なれや”に想いが込もっていて良いですね。」
[しづけさも幾年ぶりの春ならむ 目閉ぢ膝抱き夕雲雀聴く] 勇
「さっきの歌に比べれば地味だけれど、その分深い想いが伝わって来るな。」
「戦争の勝ち負けに関係なく春は昔ながらの春だね。」
「“夕雲雀”の懐かしさが古き良き故国を暗示しているんだ。」
[濃く淡く紅驕り咲き溢れ 鈴の音にさへ散るや幾片] 新之助
………………
「………私にはこんな歌は詠めないよ。他の三首は全て人間の想いを歌っているがね、これは天上の歌だ。戦争に左右される想いなぞ俗情に見えてくる程の高みにある。」
「美しいね!ただひたすら美しいだけだ。それでこそ神聖なる花だな。」
「咲き溢れる桜と鈴の音だけしか無い、戦争も貧窮も無い純粋美の世界か。離俗精神とはここまで行ける物かね。」
「そうだね。日本の桜は永遠に神々しくあるべきだと気付かされたよ。」
「これが姫神に愛でられし歌人の歌なんですね………」
これまで皆の評を聴くばかりだった川端君も褒めてくれた。
今の川端君は玉依姫の近くで暮らしているから、聖なる物に対する意識も高くなっている。
今回の春の京都でもきっと良い取材が出来るだろう。
白川べりの散花が朧灯に舞う日本が最も愛おしく見える宵に、皆それぞれ歌への想いを深め合えた忘れ難い歌会となった。
翌日はまず午前中に鴨東の古書店を回り、本居宣長の古今集遠眼鏡の江戸版と中世歌論書の古写本数冊などを仕入れた。
午後からは谷崎君と保田君も来て、前にも行った大津の古美術店に向かった。
吉井さんがかなりの量の古筆があると言うので皆わくわくしている。
店に着くと早速古書画を展示してある二階へ通された。
流石に平安時代の古筆は無かったが鎌倉室町時代の物がかなりの数あり、これだけあれば今日来た面々で奪い合う事もなく各自好きなだけ選べるだろう。
店主が開けた幾つもの古い文箱から出てきたのは、今回私が最も期待していた中世和歌の直筆色紙短冊の山だった。
その中でも特に私の目を引いたのは飛鳥井雅縁、雅世、雅親、雅康らの二十枚ほどが揃った和歌短冊帳だった。
彼等は透音さんの御先祖で、新続古今集の頃に活躍した歌人の家系だ。
また書の方も一流で後世に続く宋雅流を打ち立てた家なのだ。
本来は蹴鞠の家柄だったが当時の歌壇でもその歌は抜きん出ていたため、後花園天皇から直接に勅撰和歌集の選者に任じられた程だった。
透音さんの縁もあるし、これは逃せない。
私はまずこの飛鳥井家の古筆は全て購入する事にした。
保田君は古筆良栄の極め札付きの後鳥羽院の御宸筆を見つけてにこにこ顔だ。
彼は戦前に後鳥羽院の和歌に関する本を書いている程だから、これは嬉しいだろう。
戦前なら御宸筆はとてもこんな価格では無かったのだが、昭和天皇の人間宣言の直後で店も弱気の値付けだった。
尤も仕入れ値はもっと買い叩いたろうから、店に損は無いはずだ。
川端君はなかなか良さそうな一休禅師の書軸を睨んでいる。
料紙は間違いなく室町紙だからたぶん真筆だ。
そこであちこち見回っていた井上君が店主には聞こえない声で話し掛けて来た。
「関西方面では中世物が意外に安値ですね。」
「ああ、京都人は応仁の乱の恨みを今だに忘れない土地柄だから、武家文化の人気は低いんだよ。」
「あの隅に並べてある室町仏画なんか、関東での業者価格の半値以下ですよ。」
「元々仏教美術は奈良平安時代か精々鎌倉時代はないと、学者達でさえ目を向けないからね。」
「我が地元鎌倉では禅宗方面の水墨仏画は多いのですが、彩色仏画はどうなんでしょう?」
「鎌倉でも禅宗以外の寺院は沢山あるし、一般の美術愛好家には室町の彩色仏画は値段も手頃で人気が出そうだね。」
「そうですか!では今回私は中世の仏教美術に絞って仕入れましょう。」
もう少し後年なら関西と関東の価格の差に目を付けての取引も当たり前になるが、この頃は全国規模の業者間での情報のやり取りもあまり無かった。
それに我が鎌倉は中世の都だから、地元の店としては中世文化に注力するのはごく当然だろう。
「うん、それが良いと思うよ!もし売れ損なったら私が引き取ってあげるから。」
私には生涯半額で売ってくれる約束だから、私にとっても悪くない話だ。
これで大正浪漫のカフェ浪漫主義に対し、茶画詩庵の中世江戸文化も充実する。
店主は室町と踏んでいるがおそらく鎌倉後期作の優美な如意輪観音図と室町の五大明王図を私が買い、残りの室町仏画十数枚を井上君が仕入れた。
この後ますます進む戦後インフレで数年間寝かせられれば、井上君も大儲け出来る。
今の食糧難さえ終われば他の物に遅れて美術品も急激に値上がりし、そうなった時にはこれら全てが我々には手が届かない物になってしまうのだ。
誤字報告をいただき、内容を修正致しました。ご報告ありがとうございました。




