62 東京大空襲
昭和十九年初冬に朝鮮半島へ出征していた井上君が無事に帰って来た。
何やら軍の隠匿物資の内地への輸送がてらの帰還だったらしい。
ただ彼と一緒に「海軍嘱託 菅原道雄様」宛で大きな木箱の荷が届いた。
兵舎の食糧食器類の調達購入の傍ら、また李朝古陶磁を集められたようだ。
まあ当地ではまだ雑器扱いされていた物だから、誰も咎めはしないだろう。
しかし井上君が思ったより早く除隊出来て助かった。
これであと三ヶ月後に迫った東京大空襲の前に、少しでも今東京にある古書画類を救出できる。
その井上君が帰国後一週間ほど休んだ後に茶画詩庵にやって来た。
「留守中には親父の店の面倒を見ていただいて有難う御座いました。」
「出征ご苦労様でした。無事で何よりだよ!」
「軍務は現地での食糧調達が主だったので楽でしたよ。朝鮮語が話せる者は重宝がられましてね。感染病だけは怖かったですが、ご指導頂いた予防法で乗り切れました。」
「道雄君宛に送って来た荷物はこっちに保管してあるよ。」
二人して納屋の隠し倉庫に行き、その大きな木箱を開けた。
中には李朝古陶磁の逸品が詰まっていた。
「兵舎の食堂で使う物のついでに集めたんですよ。二級品は本当に食堂で使っていたので、決して嘘ではありませんからね。はっはっは!」
「さすがに抜目無い商魂、お見事だよ!」
日本の茶道では珍重される雨漏手や井戸手の茶碗も、現地では古く汚れた雑器としか見て居ないので、少し足を伸ばして地方回りが出来るならこの程度は容易に集まるようだった。
「現地ではこのくらいしか楽しみがありませんでしたから。」
「さすが数年間かけて集めた中から選び抜いた逸品揃いだね!」
「まあ、このご時世ですから当分店では売れないでしょうが、それなら自分達で使って楽しめますからね。師匠と道雄君にはお好きな物を一つずつお選び下さい。」
「良いのかい?有難う。では遠慮なく私はこの三島手茶碗、道雄君は海軍さんとの付き合いで酒の味を覚えたから酒器を貰っておこう。」
「朝比奈さんのアドバイスが無ければ朝鮮語も覚えなかったろうし、無事に帰って来られたのも師匠のお陰です。こちらこそ有難う御座いました!」
座敷に戻って彼に茶菓を出し、今後の事について打合せした。
「戻って早速で悪いんだが年内にも東京方面の店を手分けして回って、目ぼしい書画を集めたいんだよ。空襲も段々と酷くなってくるから、出来るだけ急ぎたい。」
「どうせ今は私の店の方も暇ですしそれは構いませんが、獲物は何ですか?」
「主に明治大正の書画だ。歴史に残る名句名歌の軸短冊は特に優先したい。」
東京大空襲で焼けてしまう多くの生命財産はもとより、文化財の全てを救うのは不可能だった。
知人達はじめ彼らの伝も頼って私も出来るだけは疎開を呼び掛けて来たが、資金も乏しい一個人の出来る事は限られている。
日本文化全体の事を考えれば京都は無事に残るので、主に東京中心の文化で私の資金で救える物と考えると、明治大正の短歌俳句の名作の直筆物だけでも幾つかは救いたい。
「わかりました。知り合いの業者に問合わせて見ますよ。」
「うん、宜しく頼むよ。」
資金は戦時インフレにより元の数倍の価値となっている手元の金塊の一部を換金すれば何とかなる。
もっとも戦後はさらに酷いインフレとなるので金塊はその時まで取って置くべきなのだが、焼けてしまった物は戦後ではいくら金を積んでも手に入らないのだ。
我々は次の週から東京通いを始めた。
年末までに購入出来た物は詩句歌の軸色紙短冊類で三十ほどに画軸が二十ほどで、中には蒲原先生や薄田泣菫の詩、亡き与謝野晶子さんの名歌の短冊は六枚も揃った。
この時代はそれら後世に残る名作も並作も価格は変わらずまだ安価で、良い物だけを選んで買い揃えられた。
今売りに出ている中で残ったのはやや高価な絵画類や江戸以前の書画で焼けてしまうのが惜しい物で、それらをリストにして優先順位を決める事にした。
残念だがやはり江戸時代以前の物は捨て、大正浪漫の物を救う事にしよう。
青木茂の油絵や竹久夢二の直筆画軸など数点、そしてあの萩原朔太郎君の色紙三枚も新たに見つけ、今は亡き人達のそれらの作品を購入して予算が尽きた。
もう少し予算を注ぎ込んで焼けてしまう作品をもっと救おうかと何度も思ったが、戦後に備えて泣く泣く見捨てざるを得なかったのだ。
年が明けていよいよ昭和二十年の一月、私は疎開先にいる知人達に励ましの手紙を書きまくった。
日本の敗色が濃厚になるとしても人々の暮らしや文化が無くなる訳では無いからと、文芸に精を出すよう伝えていた。
郵便や配送業務がまだ健在なうちに、蒲原先生と虚子先生には猫八幡も送った。
相模灘から入り横浜東京方面を襲撃するB29の爆音が頻繁に聞こえる。
その度に私は霊鳥朱雀に鎌倉守護を祈った。
これまで東京の知人に会うたびに疎開を勧めて来たが、あまり声高に言うと悪名高き報国婦人会や憲兵に非国民とされ捕まる恐れもあった。
私には精々地元鎌倉を守る事しか出来ないのが歯痒かった。
鎌倉を直接目標とした爆撃計画は無いと知っているものの、編隊からはぐれた機や帰りがけに余った爆弾を落として行く爆撃機もあるのだから安心は出来ないのだ。
そして三月十日、東京大空襲の日が来てしまった。
この夜の米軍爆撃機の大編隊は房総半島西寄りの東京湾沿いに進入し、当日の強風を計算に入れた焼夷弾の爆撃で東京の東半分を焦土と化したのだった。
死者十数万人、被災者三百五十万人に上る人類史上最悪の無差別爆撃であった。
私は透音さん竜さんと共に外に出て、遥か北の夜空に昇る巨大な瘴気を見つめていた。
念の為に三人の浄気を合わせ、鎌倉上空を霞雲で覆い敵機から見え辛くしている。
そして深夜二時過ぎて爆撃機の編隊が過ぎ去った気配を確認するまで全員無言だった。
その後も爆撃は各地方都市にまで及び甚大な被害を出すのだが、神国日本が負ける訳が無いと豪語していた輩は一億総玉砕と叫びますます狂気に走って行く。
我々はそんな世情に抗い意地でも茶画詩庵の平常営業を続けていた。
細々と来店してくれる常連客達は
「ここだけは国がどんな事になっても静かで美しくあり続けてくれ!」
と、応援してくれる。
鎌倉が梅雨に入った頃も私はそんな店の状況も含めて、届くかどうかもわからない手紙を各地の文士や詩人達に送っていた。
八月の敗戦後の秋には雑誌の原稿を集めなければならない。
皆が気落ちする暇も無く、戦後の日本文化復興の気概を持って欲しいのだ。
文士文人なら芭蕉の
[夏草や兵どもが夢の跡]
は当然知っているだろう。
[国破れて山河有り]
まで言うと検閲に引っ掛かる恐れがあるので手紙には「芭蕉の夏草の句を想え」としか書けないが、きっと皆わかってくれるはずだ。
そして八月の長崎広島への原爆投下、ポツダム宣言受諾の玉音放送となった。
玉音放送は私も聞いた。
八月十五日の正午に行われたそのラジオ放送は大変聞き取り難く、茶画詩庵の皆も私に意味を聞いてようやく理解するような物だった。
そして意外な事にその放送直後、常連客が続々茶画詩庵に詰め掛けた。
何故か皆
「こんな時こそ猫八幡の笑顔だ!」
とやって来たようだ。
この日ばかりは材料の残量を気にする事もやめて猫八幡を大量に焼いた。
やはり客の中には私に放送の意味を質問する人もいたが、彼らも予想は付いていた様子で取り乱す人も無く落ち着いていた。
そんな鎌倉人の強かな姿を見て我々もとても勇気付けられた。
夕方には疎開せずに鎌倉に残っていた文士達が集まって来た。
大佛君や川端君にとってはこの敗戦も想定内の事だったろうから、さっそく戦後の事を話し合っている。
そうだよ、今後は君達若者の時代が来るのだから、張り切ってやってくれ!
彼らより年配の久米君達はさすがに元気がなかったが、竜さんがぱっぱを掛けていた。
その夜は皆に簡素ながらも量だけはたっぷりと夕食を振舞い、滋養を付けてもらった。
食糧難はこの後昭和二十一年まで続くが、茶画詩庵の備蓄はそれを見込んで十分の量がある。
鎌倉文士連中にも腹が減ったら遠慮なくここに来るように伝えてあったのだ。
手違いで投稿が遅れ、申し訳ありませんでした。
次回からは通常通り火曜か水曜の投稿となります。




