59 日米開戦
道雄君の兵役が無事に終わった。
今後は嘱託で臨時の英文翻訳を引き受ける代わりに少し早めの除隊となったそうだ。
ただ英語通訳の需要はたぶん米軍が横須賀に駐留する敗戦後の方が忙しくなるだろう。
何れにしても日米開戦前に彼の兵役が終わったのは私もほっとした。
そして横須賀海軍からの御土産だと言って、どこからか押収したらしいラングのフェアリーブックス全二十数巻を貸し出してくれたようだ。
このシリーズは内容は勿論の事、英国ビクトリア朝の装丁技術の粋を尽くした書籍史に残る美麗本なのだ。
これには竜さんも喜び、毎日夢中で読んでいる。
きっと彼の精霊物語にも良い刺激があるだろう。
道雄君も今後は暇を見てその翻訳に取り掛かると言っている。
今後次第に暗くなって行く世情の中で、夢中になれる物が有るのは幸せな事だ。
茶画詩庵の方も今は源蔵さんと文さんがいるので人手は足りているが、戦後へ向けて鎌倉の文化を守るためにも道雄君が居てくれれば大いに助かる。
この年の暮れには遂に太平洋戦争に突入した。
年明けの鎌倉の世相は暗くなるどころか、初戦に勝利した流れか八幡宮の初詣も大いに賑わったのだ。
ただし物資の統制は徐々に厳しくなって来て、春には輸入食材を筆頭に珈琲豆や砂糖も入手難となる。
納屋の秘密の地下倉庫には数年分の備蓄があるものの、これから店ではたっぷり砂糖を使う菓子は世をはばかって日々の数量を限定すべきだろう。
物資統制に備えて開発したこがね雀に使う金時芋は、すでに庵の菜園で栽培を始めている。
茶画詩庵は出来れば終戦まで休店せずに続けて行きたいと思っているのだ。
そのかわり浪漫亭の方は鶏肉と酒類の入荷が途切れれば無理せず休店日を増やして行く。
主だった従業員の給金は最低限の保障はしてやりたいので、何か別の仕事や小商でも考えよう。
秋までの鎌倉の暮しは別段変わった事も無く、人心も落ち着いていた。
しかし生活必需品や食料品は不足しがちで、その分甘味に飢えた客が茶画詩庵に開店から押寄せ、数量限定の菓子は午前中で品切れとなっている。
戦時経済は緊縮するよりむしろ消費も生産も拡大して税収を増やすべきなのだが、政治経済に無知な軍部が主導権を握っていては流通管理もままならず、農業が凶作でも無いのに食糧不足に陥る始末だ。
実は茶画詩庵は節約すれば戦後の経済混乱時の分までの備蓄量があるので数量制限もまだ不要なのだが、当局に目を付けられるのを避けるためには原料不足に見せかけておくべきだ。
文士達にも戦時色は濃くなり、出版用紙の配給確保のために菊池君を中心に文芸報国会が作られ戦地への慰問や視察を繰り返している。
久米君や大佛君もすでに外地視察へ行って来たのだ。
否が応でも日本人なら戦争に加担せざるを得ない。
まあただこの頃の多くの国民は詳しい状況も知らず、後世のスポーツの日本代表チームを応援するような能天気さだった。
また鎌倉駅前にも憲兵詰所が置かれたのだが、鎌倉には軍や政府のお偉方とその家族も多いので憲兵もそう大きな顔は出来ないだろう。
こうして昭和十七年の鎌倉は比較的に落ち着いて過ぎていった。
翌昭和十八年は各地の戦線が硬直し、国内は諸処の事情が一気に悪化して行った。
先ず配給食料の不足と物価の高騰が国民の生活を直撃した。
各町内まで報国婦人会なるものが出来て、隣近所が相互監視し合う風潮となってしまった。
文芸雑誌まで愛国を謳わないと紙の配給を減らされ、詩歌人の多くも愛国精神を詠んだ。
私は京都の吉井さんや信州の室生君達にも、手紙でそれとなく時局国情より自分本来の詩歌を忘れるなと書き送ってはいるものの最低限は国策に協力せざるを得ない。
そして五月には遂に与謝野晶子さんが亡くなり、相次いで萩原朔太郎君も亡くなった。
未来の知識でわかってはいたものの、直接知合いとなった偉大な詩歌人の死は心から悲しい。
我が楽園の女神達にも彼らの死を報国し、竜さんらと共に茶菓を供え献句を捧げた。
竜さんも私も表立っては行けないので葬儀には道雄君に庵を代表して行ってもらい、その代わりに茶画詩庵に集まれる者達で供養の歌会詩宴を催す事にした。
吉井さんも与謝野さんの葬儀の後に鎌倉に寄ってくれ、楽しかった頃の句歌対決の話などで一晩語り明かした。
[梅雨の間の龍神の谷轟きて 月に滴る巌の高枝] 新之助
その晩に詠んだ私のこの歌を吉井さんが
「鉄幹さんが龍神で晶子さんが月前の滴りか。こんな荘重な歌で讃えられれば、二人共さぞあの世で喜んでいるだろうよ!」
と評してくれた。
夫君の鉄幹さんには遂にお目にかかれなかったが、晶子さんには過分な友誼を頂き店にも良く来てくれていたから、楽しかった文雅の想い出は尽きない。
与謝野晶子さんは私にとっては日本の和歌短歌史上の最高峰の一人だ。
そして大正の浪漫派詩歌の文字通りの明星だった。
その後の席では文芸や芸術は政治政局に関わるべきでは無いと言う話題になり、私が行き過ぎた国家神道の強制は日本の伝統文化に取って返って有害だと説くと、吉井さんはしばらく黙考した後にきっとその通りだろうと頷く。
京都への帰り際には私と竜さんに是非京都に来い、向こうで仲良くしている谷崎潤一郎も呼ぶからと、来春桜の頃の京都での再会を約束した。
この年の冬にはいよいよ浪漫亭の方が肉類酒類の仕入れがままならなくなり、営業を週二日の水曜と土曜に縮小せざるを得なくなった。
一方茶画詩庵は皆甘い物を食べると気持ちが安らぐと逆に客が増える有様で、こがね雀の売れ行きが凄い事になっていて、来年分の芋の生産を田端さんの畑を借りて増産しなければならない程だった。
こがね雀だけは戦時インフレでも値上げせず、多少の赤字は覚悟でやっているのも好評の一因だが、浪漫亭の休店で余った人手を畑に回して雇用が続けられれば、店員にも客にも喜ばれるだろう。
あくる昭和十九年には本土空襲も始まるので、鎌倉もいよいよ閉塞感が強まって来る。
虚子先生も夏には小諸へ疎開してしまう。
私は鎌倉は空襲を受けない事を知っているが、確か横須賀や横浜を襲った爆撃機が余った爆弾を数発落として行った事もあったのだ。
疎開出来る人はそうした方が食糧事情も都市部より余程良い。
茶画詩庵の竜さんや道雄君には一応疎開を勧めてみたが、女神の加護から離れたくないと笑って断られた。
俗世と離れた女神の浄域での読書と著述三昧の日々が、彼らに取っても掛け替えの無い物になっているのだ。
そして翌年春弥生、私と竜さんは吉井さんと約束した京都へ向かった。
吉井さんも一時越中の方へ疎開していたのを、この日のために京都へ出て来てくれる。
鴨東の桜の咲き始めた路を清水から祇園白川までゆっくり歩き、待ち合わせた川べりの茶屋に落ち着いた。
[清水へ祇園をよぎる花月夜 今宵会ふ人みな美しき] 与謝野晶子
道々竜さんも今は亡き与謝野さんのこの名歌を思い浮かべただろう。
小さいながら格式のある店で、座敷には石川丈山の書が掛けてあった。
さっそく吉井さんが谷崎潤一郎と保田與重郎を我々に引き合わせてくれる。
谷崎君は吉井さんから竜さんの事をうすうす聞いていたようで驚かなかったが、保田君は大いに驚いていた。
彼は芥川龍之介の大ファンで、若い頃には一度会った事があったのだ。
「さて、二人は朝比奈君とは初対面だったかね?」
「保田です。朝比奈さんの事は吉井さんから始終聞かされていますよ。」
「そうそう、女神に愛でられし歌人だとね!」
「朝比奈です。私もお二人の本は良く読ませて貰っていますよ。」
保田君は日本浪漫派の頭目として知られているが、実は谷崎君と並んで隠れた和歌の名手なのだ。
また祝詞や万葉集の研究と共に芭蕉の俳諧にも詳しい。
戦後に出されたそれぞれの歌集家集は、真の日本文化を知る者だけが持つ高雅さに溢れている。
そこで竜さんが余計な一言を挟んだ。
「朝比奈君はさっきの桜を見てさっそく一首詠んでいたよな。名刺代わりにここで披露してくれよ!」
「ああ!久し振りに朝比奈君の歌を聞けるとは私も嬉しいね!」
吉井さんまで乗ってしまった。
「では仕方ない、即吟ですがご笑覧ください。」
私は茶屋に筆墨を借り、持っていた懐紙に一首書き付けた。
[濃く淡く紅驕る春の日は 鈴の音にさへ散るや幾片]
………………
「おお、これは中世幽玄体じゃないか!しかも玲瓏綺羅たるものだよ!!」
以前に保田君は中世歌人の藤原俊成女をべた褒めしていたから、それに似たこの歌風はすぐに気に入ってくれたのだろう。
「美しい…只美しいねえ………君は吉井さんの言う通りの歌仙だな。」
谷崎君は言うまでも無く世に知れた耽美派だ。
「また朝比奈君は一段と腕を上げたな。京風の古雅な歌も詠めてしまうのだから、全く恐れ入るなあ!」
「そうか、とことん俗情を排除して美に迫ればこんな感じに神聖さが出て来るのか。僕の精霊物語にも参考になるね。」
竜さんも京都の桜を見て、より深い境地が見えて来たようだ。
「どうやらこの顔ぶれは皆趣味が合いそうだから、今度は是非歌会をやろうよ!」
「それは良いね!私も歌壇から遠ざかってからは歌会が恋しかったんだよ。」
「では京都と鎌倉で春秋交互にやろう!」
会ったばかりにも関わらず、一同和歌の話でたちまち意気投合してしまった。




