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神聖鎌倉文士伝  作者: 探神院
58/79

58 侯爵家の薔薇園

四月になった茶画詩庵で久米君と川端君が話していた。

聞くと近頃前田侯爵の別荘で文芸のサロンが盛んになり、彼らも招待されているそうだ。

戦後は鎌倉市に寄贈され後に鎌倉文学館となる所で、大正から昭和初期を代表する洋館建築だ。

「侯爵家のティーパーティなんて、作法はどうすれば良いんだ?」

「………………」

川端君はまた寡黙な人に戻っている。

「皿を左手に持って溢さなければ良いだけだよ。五月ならあそこの自慢の薔薇園でガーデンティーだろうな。室内のディナーより気楽だから大丈夫だよ。」

侯爵邸では確か当時の日本ではまだ見られない大輪のイングリッシュローズをいち早く輸入して育てていたはずだ。

「朝比奈君、是非我々に予行演習を頼む!」

「わかったよ。スーツにネクタイ、それとシルクハットは必須だな。貸衣装でも揃うからそれで済ませても良い。」

「じゃあ当日はそうするとして、マナーだけ教えてくれ。明後日の午後来るから宜しく頼む。」

「ああ、浪漫亭の庭にテーブルセットを用意しておくよ。」

こう言う時に元伯爵の吉井さんが居てくれると良かったんだが今は京都だから、一応男爵の木暮さんと透音さんにでも来て貰おう。

私も英国式のティーパーティは知っているものの、この時代の華族の礼法には自信が無い。


浪漫亭の窓の外に何輪か咲き出した薔薇の傍で、久米君らのテーブルマナーの練習が始まった。

最近は子育てで遠ざかっていつものの、やはり透音さんが華族の作法については詳しかった。

度々華族の友人の家に呼ばれてティーパーティにも慣れている。

木暮さんは男爵とは言え外国で放蕩暮しだったから、お作法は苦手だと言って出て来なかった。

久米君、川端君に加えて大佛君も来て神妙な顔付きでティーカップを持っている。

「皆さん、大事なのはお作法より会話なんですから、黙りこくるのはいけません!」

おお、透音さんが厳しく指導している!

その通り、ホストは客に楽しんで貰えるように心使いをするのだから、客は心から茶会を楽しむのが一番なのだ。

しかも侯爵が文芸論を交わしたいと呼ばれる以上、いつものように語り合えば良い。

「ああ、そう思えば楽だよね。」

ようやく久米も緊張が解けたようで、笑顔を取り戻していた。


そして当日の夕方、茶会を終えた彼らが浪漫亭に帰って来た。

久しぶりの与謝野さんも一緒だった。

夫君の与謝野寛さんを亡くされてからかなり気力を落とされていたが、今はだいぶ良くなった様子だ。

「鎌倉も吉井さんが居なくなり与謝野さんもご無沙汰でしたから、短歌の方は寂しかったですよ。」

「前田侯爵夫人は以前から短歌を嗜まれていて、私も吉井さんも何度か歌会をご一緒させて頂いてたんですよ。夫人も吉井さんの事は寂しがっておられましたよ。」

「そうでしたか。吉井さんもご親族のスキャンダルさえ………いえ、失言でした。」

「それでね、侯爵夫人には鎌倉に吉井さんに代わる大歌人が現れたと、朝比奈さんの事をご紹介しておきました。」

「ええっ!私は世捨て人なんだから、社交界は………」

「ふふっ、もう遅いですね。秋薔薇の時にはきっとお召しが来ますよ!」

「はあー………」

「私も楽しみにしてますからね!」

「はっはっは!朝比奈君もお偉方は苦手だったか。でも薔薇園は見事だったよ!」

「ええ。小説の舞台にも使えそうです。」

「その様子だと皆楽しめたようで良かった。」

「うん、侯爵夫人が気を遣って砕けた雰囲気にしてくれたよ。」

まあそんな感じなら、お誘いがあれば私も一度は参加してみたい。

後の鎌倉文学館となる侯爵邸は戦前の浪漫耽美の風潮を後世に伝える貴重な洋館と庭園だ。

その薔薇園での文芸サロンのティーパーティは、きっと古き良き時代の美しき鎌倉を象徴する光景だろう。


梅雨が明け盂蘭盆も近い暑い日に、心配していた井上君が無事に帰り我が庵に顔を見せてくれた。

大陸の各地の港から五回に分けて次々と送った荷物も、ようやく全て無事に届いたので私に報告に来たのだった。

今回は彼の持ち金ほぼ全てと私の出資を使って、大量の仕入れが出来たようだ。

彼には戦時インフレの話はしてあり、今なら出来るだけ現金を物に換えておくのは正しい。

それに欧米に対する極度の円安も、まだ円が通用しているアジア地域なら問題無い。

この若者の行動力と思い切りの良さは羨ましい程だ。

良くやった!

そして遂に彼にも召集令状が届いた。

ただ幸いにも語学の特技が認められ、派遣先は朝鮮半島らしい。

この先は中国内陸部と南方の戦況は悪化するが、半島方面なら戦闘も無く大丈夫だろう。

当時まだ治療法が確立されていない肺病だけは怖いので、せめて免疫力を下げないような健康法を伝えておこう。

後日彼の店に荷物を見に行くと、倉庫に収まり切れず裏庭にまで積まれた品々には驚いた。

これまた前回の数倍、初回に比べれば十倍以上の量がある。

兵役期間もあり、五六年先まで見越して仕入れて来たそうだ。

「先ずは朝比奈さんの出資分、お好きそうな品をこちらに出しておきました。」

そこには前回文士達に人気だった硯墨水滴に加えて硯屏筆架文鎮などの文具四宝、茶画詩庵で使う花入茶器酒器の良品が積まれていた。

「そして今回一番の収穫です。」

と彼が差し出したのは宋元院体画の花鳥図の大幅だった。

「うわっ!良くこんな物があったねえ。」

古来から日本でも有名な徽宗皇帝筆の桃鳩図を始めとする宋元院体画は、その全てが神聖視される程貴重な物だ。

「これもまた半信半疑で仕入れたんですが、戦乱を嫌って台湾へ逃げる旧家から出た物です。」

「ああ、今の大陸の情勢だとそう言う名家は多いだろうからね。良い狙いだよ。」

「その家からは他にもかなりの名品が出ましたよ。」

「ざっと見た所、今回は李朝より中国物の方が収穫だったね。」

「急ぎで回ったので、少し偽物も混ざっているでしょう。」

「ああ、それでも商売人なら時は金なりだよ。特にこの御時世でその判断が出来れば大した物だ。」

「それで朝比奈さんにお願いなのですが、私の出征中雑器や小物は父でも扱えるでしょうが、良作の方は父の眼では不安があるのでたまに店を覗いてやってくれませんか?」

「その程度ならお安い御用だ。」

「有難う御座います。」

「新渡りの中国陶磁器も最近は認知されて売れているようだし、鎌倉で唐物李朝物を扱うのは君の店だけだから心配無いだろう。」

「ではよろしくお願いします!」

「ああ、くれぐれも元気で帰って来てくれよ!」

鎌倉からも段々と兵役に取られる若者が増えている。

しかし最悪の時はまだ先なのだ。


そして秋の彼岸の頃に私にも召集令状ならぬ招待状が侯爵家から届いた。

与謝野さんが言っていた前田家の文芸サロンに呼ばれたのだ。

今回は詩歌の会のようで、前回の文士達は呼ばれていない。

その代わりに虚子先生も来る。

会話は与謝野さんと虚子先生に任せておけば安心だ。

当日は私も透音さんが実家から借りて来たスーツにシルクハットで出掛けたのに、虚子先生は平気でいつもの和服姿だった。

先生の肝の太さには到底敵わない。

与謝野さんが侯爵夫人に私を紹介してくれる。

思った通り薔薇園での茶会で、少人数の優雅で落ち着いた席だった。

英国式に侯爵夫人自ら角砂糖を取り分ける。

この儀式は砂糖が貴重品だった昔から、貴族の女主人の権威の象徴なのだ。

私も砂糖とミルクたっぷりの英国風にした。


「朝比奈さんは短歌も俳句もお上手と聞きましたが、何処にも発表なさらないのだとか?」

「はあ、私は女神様のためだけに詠んでいますので。」

「まあ、それは素敵な事ですわ!」

「私など始終雑誌の締切に追われているのに、羨ましい限りですよ。」

「与謝野さんのお歌は沢山の人が期待しているんですもの、頑張って頂かないとねえ。」

「その通りですな。私も与謝野さんの歌は楽しみにしていますよ。」

「私はうちの寛が亡くなった後、明星を朝比奈さんに継いで頂ければと思ったのですがねえ………」

「ええっ!それは私などには到底無理ですよ!」

「明星でなくても浪漫主義の灯だけは絶やさないようにお願いしたいの。」

「それには私も同感ですな。朝比奈君のカフェ浪漫主義を見ると君もきっと同じ思いでしょう?」

「はい、私も常々そう思っています。ことにこの鎌倉では浪漫主義文芸を守って行きたい。」

「我が侯爵家でも援助は惜しみませんよ。是非鎌倉のために御尽力くださいね。」

「有難う御座います。微力ながら精一杯努めます。」


香り高い秋薔薇の園で、浪漫の同志達の誓いの儀式のような茶会となった。

帰り際に筆墨を借りてお二人の貴婦人へ御礼の短冊をしたためた。

[美しき旅人ひとり残秋の 気高き薔薇に(かんばせ)寄せて]

二人とも大変喜んでくれて、虚子先生まで

「ほう、旅人が与謝野さんで薔薇が侯爵夫人ですな。贈答歌までも浪漫溢れていて大したものです!」

と感心してくれた。

そしてこれが元気な与謝野さんと会えた最後の機会となった。

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