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神聖鎌倉文士伝  作者: 探神院
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57 文士の硯墨

朝鮮半島へ古美術品の仕入れに行っていた井上君が帰って来た。

聞いていた予定よりだいぶ遅れていたので心配したが、あちらでは農村地方まで足を延ばして買い集める為に予定を延長したそうだ。

味を占め前回の三倍も仕入れて来て上機嫌だった。

その一部商品を同時期に上海へ行ってきた知合いの古物商と交換し、中国古陶磁と古硯古墨も入手したので見に来て欲しいと連絡があった。

今回私は出資していないのだが、私に見て貰えれば安心して販売できるから是非下見に来て欲しいと言う。

由比ヶ浜の古道具屋の店の奥半分が品良く改装され、古美術骨董品の棚になっていた。

井上君はその棚を素通りして、私を奥の倉庫に連れて行く。


そこにはまだ梱包の藁に塗れて、前回にも増して良品揃いの李朝陶磁器の山があった。

「これは朝比奈さん好みだと思い、仕入れてきたんですよ。」

それは時代はやや下るが、井戸手の高麗茶碗だった。

この当時の茶道具は後世よりずっと高価だったが、それは伝世の箱書きが付いていないと駄目で、この品のような新渡(あらわた)りの物は将来性はあるが下手すると偽物扱いだ。

その辺はすでに井上君にも話してある。

それに私がその手の伝世物を扱うなら敗戦で大暴落した時だ。

「おお!これは景色も良い茶碗だね。買わせて貰うよ。」

「ああ、言い遅れましたが、朝比奈さんは我が師匠ですから永久に半額で!」

「あっはっは、それは有り難いよ。」

彼には前回の出資以外に我家の古美術の本を貸出したり、庵の書画で鑑定のコツなどを教えているから、まあ師匠と呼ばれても間違いでは無い。

品を見て行くと今回も小型中型の物が主力で、白磁や染付の花入酒器は人気商品となるだろう。

「うん、一般向けにはこんな感じの品の良い白磁と染付が売筋だが、酒器はもう少し侘びた趣の物を増やしても良いだろうね。」

「そうですか。参考になります!」

そしてまだ山積みになっている大きな木箱を次々に開けて行く。

「こちらの唐物はどうでしょうかね?」

「おお!清朝の紫端渓硯(したんけいけん)じゃないか。これはまた文士達で奪い合いになるよ!」

「知人の古美術商と交換したんですが、もっと古くて凝った彫刻の古硯は分けて貰えなくて。」

「いや、これで正解だよ。日本人が好きなのは簡素ながら味のある実用硯だ。高価な装飾硯より価格も手頃だしね。」

そんな硯が二十個以上に、安徽省の五十〜百年物の古墨が十数箱。

一箱八本入りだからバラ売りするなら百本以上ある。

こちらも高すぎて実用には向かない明時代の宝墨より余程文士向きの物だった。

「お約束通り優先で茶画詞庵での展示販売をしたいのですが。」

「ああ、有り難いよ。皆に告知しておくから、三日後からで良いかな?」

「はい。よろしくお願いします。」


展示会当日の茶画詩庵は、文机を何台も並べた上に古端渓と古墨に水滴と徳利盃。

床の間の下には花入れ壺類が十数個。

掛軸は前回の高麗仏画を掛けておいた。

高麗末期に多く描かれた観音図は、元によって滅ぼされ行く古王朝の優美さと悲嘆が滲み出ていて胸を打つ。

まるでその当時に似た今の日本の世情を哀しむかの表情だった。

文士向けに選んだ品々と床飾りで、結構高雅に見える展示会場となった。

早くも開店前から奪い合いを予測した文士連中や古美術好きが集まってしまい、和洋折衷様式の隣のテーブル席で待たせている。

そして時間となれば一斉に座敷に雪崩れ込んで来た。

「おお、並の展覧会より余程格調が高いよ!」

「うん。この庵で見ると全部名品に見えてくるからね。」

「うわあ!憧れの紫端渓がある!本当にこの値段で良いのかい?」

「俺はこの前に買えなかった李朝水滴だ!小林君にさんざん見せびらかされたんだ!」

室生君なんかはやや大きめの白磁提灯壺と面取花入に硯水滴を欲張って、もう懐から札束を取り出していた。

井上君がクッション用の藁を詰めた箱と大風呂敷を用意してくれたのを受取り、

「まだ持てるぞ。今日は家中の金を持って来たんだ、あっはっは!」

と高笑いだ。

川端君はこの前に幾つも買ったのに、また硯と水滴を二つづつに古墨を箱ごと買っている。

まあ彼は将来コレクターとしても有名になる人だから仕方ない。

大佛君も川端君にアドバイスを受けて使い易い物が選べたようだ。

他の文士達もそれぞれ好みの墨硯水滴など、目当ての文房を手に入れてご満悦の体だった。

「鎌倉文士たる者、最低限の文具は持っていないと肩身が狭いからねえ。」

竜さんが側に来てそう呟く。

「銀座の店の物は俺には立派過ぎる高過ぎるで飾るには良いが使えないものばかりでねえ、今日の展示即売会は丁度良かったよ!」

久米君はかなり売れっ子作家なのに、いつまでも貧乏性の抜けない好人物なのだ。


「やあ、これは出遅れましたね。」

文士達がそれぞれの戦利品を風呂敷に包んでいる時、玄関に虚子先生とホトトギスの連中が四五人やって来た。

秋桜子君と松本君もいる。

「ほう、なかなかよさそうな端渓ですな。」

虚子先生は今日の品々の中では最高値で文士達には敬遠されていた、原石の緑眼模様を宝珠に見立てた玉取獅子の見事な彫刻を施した古端渓と古墨を一箱お買い上げだ。

秋桜子君も書には堪能だから、眼を輝かせて選んでいる。

他の俳人に取っても硯墨は必需品だから、今日は誘い合って来てくれたようだ。

文士達はその必需品はすでに確保できた余裕で、今度は酒好き連中が酒器に食指を伸ばしていた。

そこに最も出遅れた小林君が来た。

「良かった………まだ残ってる。」


私は購入後に一段落し寛いでいる客達に茶菓を出す。

江戸時代以来硯は端渓、水滴は李朝、墨は安徽省が一番と讃えられて来た文具を入手出来て、一同は伝説の文人達の墨戯の話で盛り上がっていた。

虚子先生も機嫌良さそうに頷いて、最後に立ち上がって語られた。

「朝比奈君のお陰で鎌倉文士お揃いで良い硯墨を持てましたよ。近頃は活字の本を出せば一流の文人と言う風潮ですがね、古人は皆印刷物より直筆の書で勝負して来たんです。これからは皆さんと書でも競い合うのが楽しみになりますな!」

虚子庵には今日の端渓硯よりもっと古い宋時代の物があったはずだから、皆の書への気持ちを高める為にわざわざ来てくれたのかもしれない。

皆にもそれがわかったようで、盛大な拍手が起こった。

井上君は帳簿付けを急ぎながらも、高名な文士達に喜ばれて感無量の顔だった。

井上君には敗戦後に暴落する日本の古美術を救う為にも、これから一流の美術商に育って欲しい。


例によって戦利品をすぐにも家で試したい連中がそそくさと帰った後に、川端君が一人残っていた。

「支払いが後日で良ければ残った硯と水滴も欲しいんですが、どうでしょう?」

あれだけあった硯水滴があと三つ四つ残すだけで、酒器花入も六七割は売れてしまった。

「朝比奈さんのお知り合いなら構いませんよ。数々のお買い上げ有難う御座います!」

「いや、この品なら知人後輩達も欲しがるでしょうから、取っておいてやりたいので。」

私も同じ事を考えていたのだが、ここは後輩思いの川端君に譲っておこう。

「では私は残った墨を貰うよ。古墨は文士や画家以外の客には売りにくいだろうからね。」

あとは私は半額だから沢山買ってしまうと井上君の儲けが減るので最低限の物を確保するに留めていたのだが、徳利盃はまだ彼の倉庫に沢山あるから今日売れ残った物なら遠慮しなくて良いだろう。

幸いにも目を付けていた粉引の雨漏り徳利一対が残っていたのと、刷毛目の酒盃十客揃いを買わせて貰った。

そこへ秋桜子君が駆け戻って来た。

「虚子先生が、もし酒器が売れ残っていたら全部買って来いと。」

いやあ、虚子庵でも私と同じ考えだったとは………。


展示会の片付けの最中、井上君に今後の時局への対応をアドバイスした。

中国大陸はそろそろきな臭くなっているから、行くなら精々あと半年くらいだろう。

朝鮮半島では戦闘も起きていないのであと数年は大丈夫だと思う。

国内はインフレでますます困窮し物資の配給制も進むから、例え裕福層相手の商売でも覚悟しておく方が良い。

などと一般人ではまだ察知出来ない情勢をそれとなく注意しておいた。

そこでふと気付き彼の軍役を聞いた所、徴兵検査は乙種合格でまだ招集は来ていないと言う。

軍では例え街の一商店でも、一家の跡取り息子の召集は多少遅らせている。

それなら朝鮮語が話せると言っておけば、徴集時に比較的安全な朝鮮方面に派遣される。

彼もそうなれば今後の商売にも生かせるから、もっと朝鮮語を勉強すると言っていた。

そして今回の展示即売会で要領を掴んだ彼は小田原から静岡名古屋方面での展示会も開催し、鎌倉の店売りも文士らの口こみで好調であっという間に仕入れの荷を完売した。

それを律義にも我が庵に報告に来て、行けるうちにもう一度今度は中国から朝鮮半島をぐるっと廻る予定だと言う。

兵役前の最後のチャンスだから三四ヶ月かけて数年分の仕入れをしたいそうだ。

私は中国は沿岸部に限る事と、彼は必要無いと言うのを無理矢理資金を押し付け、出来る限り安全な上宿と交通手段を取る事をアドバイスしておいた。

見送る私に彼は語学研修のつもりで楽しんで来ると、笑いながら手を振り去って行った。

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