56 邪念滅却技
それから数週間経ち茶画詩庵に井上君が顔を出した。
「朝比奈さん、お陰様でもう仕入れた品のほとんどが売れました!」
「ほう、もう完売か。まあ品も良いし価格も手頃だったから当然だな!」
「それで文士の皆さんに水滴ほか幾つか残してあるので、こちらで展示販売させて頂ければと。」
「ああ、わざわざ取って置いてくれたのか。実は川端君にちょっと話したら、早く見せろとせっつかれていたんだよ。是非頼むよ!」
「ではさっそく。」
私が床の間を片付け展示用に文机を出すと、彼はそこに持って来た品を並べた。
染付の花入が二つと水滴が五つ、全部で五六十個仕入れた物がすでにそれだけしか残っていないそうだ。
そこにいち早く気配を嗅ぎつけた竜さんが来て、気に入った水滴を確保した。
続いてこれまた常連客と化している川端君が折良くやって来て、花入に加え欲張って水滴も二つ抱えた。
「僕の下手な書もこの李朝水滴で上達間違いなしだ!」
「これは分院の上手の花入ですね。銀座で買えばこの倍の値段だ。」
二人揃って上機嫌だった。
そこに今日は休日だった道雄君が加わり
「お師匠さんが使っているのを見ると、同じような物が欲しくなるんですよね。」
と、花入を買った。
並べて十五分も経たないうちに残りは僅か水滴二つだ。
私が皆にお茶を用意している間に小林君が来て、残りの水滴を二つ共に両手で確保した。
「銀座ならこの三倍はする。」
井上君も驚く売れ行きだった。
早く使ってみたいのだろう、今来た所なのに皆もう帰って行った。
お茶を出す暇も無い。
「ほら、言った通りだろ!」
「………………はい……」
井上君はまた来月朝鮮へ行くそうで、今回十分な儲けがあったから資金提供は不要だと言う。
ただ次回はこの茶画詩庵の展示販売を優先すると約束してくれた。
この年に菊池寛が文藝家協会会長に祭り上げられ、軍部から従軍ペン部隊の要請を受け久米君始め十数人が大陸の戦線を視察し、各地で慰問講演活動を行うようになった。
翌昭和十四年からは中国大陸での状況は泥沼化し、日本国内では軍部の暴走が止めようも無くなって来るのだ。
しかし一般人にそんな情報が伝わるはずも無く、世間では未来の令和において国民がオリンピックの日本代表を応援するような雰囲気だった。
年末に無事帰国した久米君に話を聞くと、大陸での状況はとてもそんな生易しい物では無いと憤慨していた。
そして年が明けその昭和十四年となった。
正月の若宮大路は八幡宮の初詣客で賑わい明るい雰囲気の中、道の端で三人の御嬢さん方が軍服姿の五六人に取り囲まれていた。
たまたま竜さんと歩いていた私がそれを見つけ、竜さんを止め彼等の様子を伺っていると
「この御時世にちゃらちゃらした西洋人の格好なぞしやがって!」
「ただ初詣に来ただけなんです。勘弁してください!」
「俺達は御国の為に命を賭けてるんだ!それをこのお嬢ちゃん達はふらふら遊んでやがる!」
「誰か助けて!」
踏み出そうとした竜さんを引き留め、私は彼らに向けて神威を発した!
一瞬棒立ちになった奴らから黒い瘴気に似た物が吹き出し、全員が地べたにへたり込んだ。
「邪念に冒されていたんだ。後は放っておけば良い。」
「神威にそんな使い方があったのか。僕にも出来るかね?」
「出来るさ。後で教えるよ。」
もう御嬢さん方は走って八幡宮の方に逃げていた。
今年あたりからは鎌倉にもあんな連中が増えて来るだろう。
この街だけは我々の力の及ぶ限り、邪念なんぞに支配させるものか!
傍らでは竜さんも決意に満ちた表情を見せていた。
庵に帰ると子供達が凧上げで遊んでいるのを、透音さんと文さんが並んで見守っている。
女神の庭は水仙が咲き、寒晴の空は未来の日本では見られないほど澄み渡っていた。
久米君が暗い世情を吹き飛ばそうと言い出し、今年は一月の寒中に恒例の文士句会を招集した。
やって来たのは久米君、大佛君、日夏君、寒い軽井沢の山荘から温暖な鎌倉に逃げて来た室生君、それに竜さんと私、見物だけと言って川端君と菊池君に日夏君の友人の西條八十がいた。
西條八十は名作詩集『砂金』に始まり童謡歌謡に少女小説に健筆を振るった巨人だ。
日夏君や芥川君とは学生時代からの同志だった。
床の間には以前虚子先生から頂いた句軸が掛かっている。
[初富士や草庵を出て十歩ほど]
我が茶画詩庵からだと源氏山に隠れて富士は見えないが、由比ヶ浜の方に出れば何処からも良く見える。
このどうと言う事も無い句が、いかにも明るく呑気でお目出度い。
そんな普通の呑気な正月が如何に掛け替え無い物か、今日集まった連中は良くわかっている。
句軸の下には口が欠けた室町時代の古瀬戸の瓶に紅白の玉椿を活けた。
近年は皆句会にもだいぶ慣れて来て、普通に上手い句には敢えて点を入れなくなっている。
いわゆる捻くりを覚えたのだ。
まあ私ならその逆手も突けるがね。
一人三句づつの投句だったが、結果は高点句だけ記しておこう。
川端君と菊池君も選句だけ参加している。
[手袋を握りしめたる湿りかな] 久米君
[街寒く黒衣を好む者ばかり] 竜さん
[そのなかに芽の吹く榾のまじりけり] 室生君
[木がらしや不学者論に負けずけり] 日夏君
[大仏の裏に溜りし枯葉かな] 大佛君
[詩書抱きて風を眺める懐手] 朝比奈
と、そこへ座敷の入口から声がした。
「やあ皆さん、やってますな。」
「虚子先生!!!」
「ああ、私の句を掛けて頂いて有難う。我が虚子庵にも朝比奈君の短冊を飾っていますよ。」
以前に何かのお礼で先生に送った短冊だろう。
[暁闇に凍富士の根の深くあり]
虚子先生が大変褒めてくれた句だ。
「ホトトギスの連中が見て大変強い句だと唸っていましたよ。良い刺激になりました。」
「いえ、恐縮です。どうぞこちらの席へ。」
私は厨から茶菓を運んで来て皆に出した。
「実は竜さんからちょっと聞きましたが、気で人の邪念を打ち祓えるとか。」
「はい、神気を感じ取れる者なら出来ます。多少の修練は要りますが。」
「私にも出来ますかねえ?近頃は私の周りにも邪念に凝り固まった輩が増えましてね。」
「ああ、先生ならすぐに習得出来ると思います。」
「それをご伝授頂きたくて参った次第なんですよ。」
「では丁度良い機会だから、他の皆にも一緒に試して貰いましょう。」
「おお、良いね!やろうやろう!!!」
「俺にも出来るかねえ?」
ここに居る皆は最初の感応は問題なく出来るから、私はその次の段階の止観をやって見せた。
と言っても観るのを止めるだけだ。
しかし視覚だけで無く周囲のあらゆる現象や己れの思念を断ち切るのは少し難しい。
竜さん、大佛君、虚子先生は流石に難なく出来た。
次は観想だ。
物事の本然、つまり本来あるべき理想の姿を思い描く。
おお!虚子先生と竜さんはここまで出来ているよ!
「そしてその本然の姿を神気に乗せて、邪念に囚われている相手にぶつけるんです。」
今ここにはぶつける相手がいないから、今日はここまでで終了だ。
「おお、何となく掴めましたよ。有難う!」
「うん、僕ももう少しで出来そうだ。」
「私も何とかなりそうですね。」
「うーん………」
竜さん、大佛君以外の人にはまだ難しいだろうが、神気に感応出来るなら後は訓練次第だ。
邪気邪念を祓うのなら、奥義の観自在までは必要ない。
神気を纏って相手の悪意さえ見抜ければ大丈夫だ。




