52 昭和大恐慌
透音さんは極すんなりと我家に馴染んだ。
元々週に一度くらいは来ていた場所だから、それも当然だろう。
結婚式までは慌ただしかったがその年の暮正月は二人でのんびり過ごせた。
彼女がいつも幸せそうに微笑んでくれるので、この恐慌を耐え忍ぶ期間も明るく過ごせる。
二階の部屋は透音さん好みに手を入れて貰い、これまでよりは随分華やかになった。
茶画詩庵は全く変わらずに細々と静かにやっているが、透音さんと竜さんの奥さんの文さんが手伝ってくれるので私と道雄君は返って暇が出来て、文芸の勉強が進むようになった。
ちょっと慌てたのは飛鳥井家がそこそこの株証券を持っていた事で、急いで透音さんに説得して貰い現金に変え何とか損害は免れた。
カフェの方は正月までは相変わらず賑わっていて、この一年分の儲けを当てれば恐慌の間に多少赤字を出しても持ち堪えられる。
その後の私は物価が下落している間に先々使える店舗の備品などを買い込み、透音さんには必要な家財道具類を買い揃えて貰った。
あとはひたすら静かに恐慌の過ぎ去るまで身を縮めていれば良いだけだ。
そして昭和五年三月から目立って国内の倒産件数が増え出し、夏を迎える頃には株価が軒並み大暴落。
秋には街に失業者が溢れていた。
ただ鎌倉に限れば元々大きな企業は少なかったのと余裕のある家が多かった事で、街は案外落ち着いていた。
農産物価格の下落で地元の農業も苦境に立ったが、政府の農業補助と近年の鎌倉の土地価格の上昇で潤った所は何とか生き残れそうだ。
知合いの文士連中はそもそも株などに興味を持つ者は少なかったので、物価が下がった分楽に暮らせているくらいだった。
そんな訳で私の店も細々と続いており、利益も無いが赤字も無い程度で済んでいる。
この年の良い方の話題は私と竜さん道雄君で資金を出し合い、メソヂスト教会経由で頼んでいた英国浪漫派と神話伝説妖精譚などの古書が大量に届いた事だ。
恐慌後の日本政府は輸出産業の振興のために極端な円安政策を取るので、そうなる前に海外書籍は出来るだけ揃えておきたかったのだ。
と言っても所詮は本だからそんな大した金額ではないが、鎌倉文士達にとっては宝の山が届いたように喜ばれた。
もう一つの慶事は透音さんが懐妊した事だ。
新之助としては当然子孫を残さないといけなかったから、これは心底有難く透音さんには感謝感謝だった。
さらにはこの翌年の生まれなら、後の世界大戦の徴兵には引っからないのも安心だった。
女神の庭は世間がどんな状況だろうが変わらず四季の美しい花を咲かせ、植達さんなどは他の仕事が暇になった事を幸いにこの楽園の手入れに一層力を入れていた。
文士達は以前と変わらずここを訪れてはゆっくり文芸論などを交わしていたし、与謝野さんもまた歌人仲間と来て歌の短冊を置いていってくれた。
この頼もしい人達がいれば、恐慌だろうが戦中だろうが日本文化はきっと大丈夫だ。
この時点でも政府の打つ手は全て機を逸するか裏目に出て、翌昭和六年には内閣が二度も変わった。
そして小さい瘴気が市街地にたびたび出現するようになって来た。
放って置いてもやがて消えてしまう程度の物だが、今までの例とは性質が違い世情不安に巣食う瘴気のように思える。
人々の心が清浄であれば如何なる時でも瘴気に侵される事など無いのだが、宗教も哲学も廃れ大衆を啓蒙すべきジャーナリズムが返って低俗化しているようでは先が暗い。
やがて来る軍国主義の時代にはこのタイプの瘴気が増えるのだろう。
その秋には満州事変が起こり軍事費拡張と赤字国債発行でインフレ政策に転換し、金本位制からの脱退による円安のおかげで翌昭和七年からの輸出産業は持ち直して行く。
未来を知っている私は朝比奈家の没落さえ防げれば良くこの恐慌を利用して儲ける気は無かったのだが、養うべき妻子が出来て気が変わりここでひと勝負打つ事にした。
店の赤字に備えて蓄えていた資金がほとんど手付かずで残ったのを、底値となった株に注ぎ込んだのだ。
この恐慌を乗り切ってもすぐに軍国主義の時代が来て、経済も国家の統制下となって行く。
今度はそれに備えなければならない。
他にはやはり底値で投げ売られていた古書画類と、竹久夢二始め大正浪漫の画家達の作品を買い集めておいた。
こうして私がこの時代に移転して以来の大きな課題だった、昭和大恐慌を何とか無事に乗り越えたのだった。
昭和七年の正月からは茶画詩庵に力強い味方が加わった。
恐慌で失職していた和菓子職人の源蔵さんだ。
彼の取柄は若い頃から浅草の老舗で仕込んだ腕は勿論、茶道華道と書画骨董のかなりの目利きだである事だ。
彼の方でも茶画詩庵の佇まいや床飾りが気に入って、二つ返事で来てくれた。
これでまた新作和菓子にも取り組める。
鎌倉での猫八幡の人気はすでに揺るぎ無い地位を築いているものの、茶屋としてはやはり技術の推を凝らした新作に挑戦して行きたい。
カフェ浪漫主義の木暮さんも恐慌の間に研究していた新作料理をようやく売り出せると張り切っていた。
私もこの春からは攻勢に出るつもりだった。
国産のハムソーセージの価格が安定し、また待ちに待ったツナ缶も出回って来て昼の軽食にハムサンドもツナサンドも出せる。
大失業時代だった事もあり従業員もかなり優秀な若者達を四人確保できた。
男女とも将来は独立して店を開業できるような人材ばかりだった。
また二階の部屋にも大正浪漫の絵画と鎌倉文士達の句歌の短冊を並べて、一段と文雅の雰囲気は高まっている。
開店時から準備してあった卓と椅子を全て使い、席数は五十六席となった。
静岡の蒲原先生も元気だそうで、鎌倉の知人や文士たちは皆息災で店にも良く来てくれていた。
この正月には道雄君の訳詩集『ワーズワース抒情詩集』の出版記念パーティーが、私と堀口君と久米君の声掛けで盛大に開かれた。
菅原道雄の名で出た訳詩集としては『イエーツ詩集』『キーツ詩集』に次ぐ三冊目で、今回は前二冊の売れ行きに自信を持った出版社が、蒲原有明と堀口大学の序文付き恩地孝四郎装丁の天金絹張りの豪華本に仕立てた。
会場は当然カフェ浪漫主義で、鎌倉文士に加えて詩歌人は錚々たるメンバーが揃った。
また地元茶画詩庵の常連も皆顔を出してくれ、拡張したカフェの席も満員になっている。
発起人の堀口君が祝賀の辞を述べる。
「近年は我々の取組んでいる西洋詩に興味を持つ人も増え翻訳書の出版も盛んになりましたが、英語詩方面にはあまり良い訳詩家が出なかった。そこにこの菅原道雄君が流麗なる文語韻律を持って登場してくれました。今後はこの鎌倉を中心に私はフランス詩を菅原君は英語詩を、そして御来場の皆さんは日本の文芸を、粉骨砕身盛り上げて行きましょう!」
「良いぞ、大学!!!」
いやあ、あの放蕩児の堀口大学がこんな立派な挨拶が出来るとは思わなかった!
続いて蒲原先生の祝電が披露された。
「道雄君、私の好きなワーズワースのリリカルバラッドが、見事な日本語の詩になっているよ。よくやった!」
蒲原先生、私の事はこんなに素直に褒めてくれた事は無かったぞ!
先生も孫弟子には甘いのだな。
そして道雄君が挨拶に立った。
「堀口さん、蒲原先生、過分のお言葉を頂き恐縮しております。そして私には何よりも茶画詩庵のお師匠さんがいてくださって…………震災孤児だった私をここまで育てて………有難う御座います!!!」
「良いんだよ、本来は蒲原先生の詩も訳詩も私が継ぐべき所を君が引き受けてくれて、私は瘴気祓いと句歌方面で精一杯だから助かっているんだ。こちらこそ有難う!」
会場の皆の温かいの拍手が続いていた。
このあと更に驚いたのは鎌倉メソヂスト教会経由で、ブリティッシュ・カウンシルから正式な感謝状が届いた事だ。
彼が英国文化を日本に広めた功績に対しての英国人達からの感謝だった。
司教さんとシスタークリスタベルから立派な感謝状を受け取った道雄君の手は、感動で少し震えていた。
「あっはっは!だから詩は定形韻律が大事だと言ってるんだ。ワーズワースのこれまで出た口語訳には目もくれなかった本場のブリティッシュカウンシルが認めたぞ!!」
竜さんが萩原君達の自由律派を煽り出した。
「そんな事は我々にだってわかっている。だが現代人の為の新しい詩も必要なんだよ!」
室生君がすかさずそれに応じる。
「蒲原先生の韻律は本当に良いよね!」
口語自由詩の萩原君は何時でも何処でも定形韻律詩の蒲原有明のファンだった。
堀口君や他の詩人達もその議論に加わり、鎌倉には久々の明るい熱気が戻って来た。
虚子先生と与謝野さん吉井さんは余裕の表情で若者達の詩論を眺めている。
一方ホールの片隅で久米君と大佛君に流行小説家達が愚痴を言い慰め合っていた。
「良いよね、詩歌の人達は皆芸術をやってられて………」
「…僕ももっと俳句が上手ければね………」
「次から次へと原稿の締切に追われる暮しだから………」
「本当に書きたい物は書かせて貰えないもんね………」
これが今をときめく文壇のスター達の真の姿だった。




