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神聖鎌倉文士伝  作者: 探神院
29/79

29 春支度

数日経って日陰に残っていた雪もすっかり消えた頃、久米君と芥川君がやって来た。

貫禄のある何かの親分のような顔付きの男が一緒だった。

「彼は『文芸春秋』って雑誌を創刊した菊池寛だよ。」

ああ、そう言われればこの顔も21世紀にどこかで見た気がする。

文芸春秋社の創立社長で、作家の菊池寛だ。

作品は覚えているが顔はうろ覚えだった。

「朝比奈です。雑誌創刊おめでとう御座います。」

「わっはっは、心配するな!金ならあるぞ!!」

そうそう、こんな感じの人物だったはずだ。

「僕の雑文も載っているから、是非読んでくれ。」

確か創刊号の巻頭が芥川君の[侏儒の言葉]で、雑誌も結構売れたんだった。

「鎌倉の書店も仮店舗だが雑誌類は売っているから、出たら読んでみよう。」

「よろしい。わしの書いた物は読んどるか?」

「ああ、[神の如く弱し]には感銘を受けたよ。」

と、私は久米君を見ながら言った。

菊池寛の小説[神の如く弱]しは友人の久米君の失恋を題材にしていて、久米君のお人好し加減が存分に描かれたペーソス溢れる佳作だ。

「朝比奈君、あんな物読むなよ!」

「あんな物とは何だ!」

菊池寛は俗物と言ってしまえばそれまでだが、こんな見た目でも面倒見の良い好漢ではある。

芥川君を入れた三人は、共に一高時代からの親友だった。

同級生だが歳は菊池が三つ四つ上で、その恰幅と相まって相応の貫禄に見える。

彼らは茶菓で一休みした後、雑誌の出資者に挨拶回りだと元気に出て行った。


そう言えばあの久米君が菊池寛に女神像を教えなかったが、久米君も彼の俗人振りを良く理解して敢えてやぐらに連れて行かなかったのだろう。

芥川君は最近また療養のために、この近くの旅館に長期滞在しているそうだ。

鎌倉は避寒避暑の地だから、体調を崩し易い彼は落ち着いて鎌倉に住みつくのが一番だと思うのだが………

玉依姫のやぐらの前には水仙が数株咲いて鎌倉に春を呼んでいた。


文芸誌は明治時代からある[文藝倶楽部]や[新小説]を先頭に、大正に入って数多くの雑誌が創刊された。

大正時代は商業誌だけでなく同人誌結社誌を含め文芸雑誌の黄金期だった。

だがその反面で各誌の販売競争が激しくなり、作家達はより大衆受けする作品を求められるようになる。

この少し前に出た菊池寛の『真珠夫人』は、そういった大衆向け小説の決定版だ。

やがて菊池寛の文芸春秋社はこの競争を勝ち抜き、戦後の大出版社となって行く。


友人達が雑誌で張り切っているのを見て、私も張り切って立春からの茶画詩庵の新作を考えなければと思った。

そろそろ庭の梅の蕾が膨らんで来たので、立春の日には確実に咲いている事だろう。

店を午前中から営業するとなると昼食用に最低限の軽食は用意すべきだ。

頭の中には21世紀のレシピが沢山あるので、材料と設備さえ整えば食堂並みの料理も出来そうだが、私が目指すのはそちらでは無い。

やはり茶屋なら串団子だろうと思うが、普通のみたらし団子ではちょっとね。

………そうだ、21世紀のスーパーでよく見た三色団子なら春にふさわしい色合いで行けそうだ。

色順を変えた串二本を一皿に並べれば綺麗だろう。

よし、軽食はこれで良い。


問題は新作和菓子だが、春先は果物が乏しいのでフルーツ大福は出来ない。

白大福か練り菓子を梅花の形にするのも悪くは無いが、それなら従来からある鶯餅に一工夫する方がまだ春らしい色で良さそうだ。

うーん、鶯餅を鳥の形にしてせめて餡に何か加えるくらいかな。

ただ鳥形は鎌倉の老舗豊島屋の鳩サブレがもうあるからなあ………

洋菓子ならチョコレートを柑橘類と合わせた物が私の好みだが、チョコレートは日本でもすでに販売されているもののまだかなり高価なのだ。

後世では春の果物の女王となる苺も、この時代にはまだ一般には出回っていない。

洋菓子も含めて試行錯誤を繰り返すしか無い。

来年からなら今年梅ジャム杏ジャムほか各種の素材を作っておけば色々な茶菓子が出来るのだが、今日はなかなか考えが纏まらない。

今度また横浜に買い出しに行って素材をあれこれ見て来よう。


数日後に鎌倉の本屋の仮店舗でも[文藝春秋]が出たので買って来た。

先行する雑誌類と比較すると可哀想になるほど薄っぺらだが、価格は他の十分の一ほどだった。

実はこれが菊池寛の戦略で、この価格なら他の雑誌の読者も試しに見てみよう、来たついでに買ってみようと思うだろう。

そうしてまず販売実績を作り、より多くの出資を集め一二年で他に負けない頁数と体裁を整え、この薄い雑誌を一流誌にまで育てるのだ。

菊池寛は経営者としては一流だった。


これに闘志をかきたてられた私も次の休日に横浜に食材を探しに行った。

横浜は当時の日本最大の貿易港なので珍しい海外の食品や道具類も手に入る。

いろいろと良い食材はあったが、我が茶画詩庵の価格設定で使える素材となると難しい。

さらに日本の春の季節感に合う物は無かった。

食品市場の一画は中華の食材売場となっている。

中華菓子も覗いて行こうとぶらついていると、陳皮の砂糖漬けなる菓子があった。

漢方薬に使う蜜柑の皮を乾燥させた物に砂糖をまぶしてある。

蜜柑を使う事は林檎と共に試したのだが、オレンジの味を知っている私には不合格だったし、オレンジ自体は入手可能だがやはり高価だった。

この頃にはフルーツポンチなども出ていて人気も高かったが、私は茶画詩庵を千疋屋のような高級フルーツパーラーにする気は無い。

だが陳皮ならまた別の考えが浮かぶ。

鎌倉の市場にもまだ蜜柑は箱で売っている。

私はその陳皮の砂糖漬けの大袋を背負籠に入るだけ買い、他の店でも柚子を箱で買ってまた大荷物を担いで帰った。

荷物を一旦庵に置き疲れも厭わず鎌倉の市場へ行って、まだ売れ残っていた蜜柑を五箱届けてくれるように頼んだ。

砂糖は機会ある毎に買い溜めしているので余裕がある。

砂糖が不足し統制が始まるのは昭和の日中戦争頃からで、当分は心配する必要はない。


日曜は買い込んだ材料でさっそく試作にかかった。

道雄君にも半日分を休日返上して貰い、蜜柑の皮剥きと天日干しを頼んだ。

実の方は果汁を搾り加熱濃縮して瓶に保存しておこう。

まず確実に成功が見込める林檎のスコーンに代わる陳皮のスコーン作りだ。

陳皮を適度な大きさに刻み、少し果汁を含ませ柔らかく戻してからスコーンに混ぜて焼く。

ひと齧りするとまずまずの出来だった。

これに柚子皮を少し混ぜて香りが増せばアップルスコーン以上の評判になるだろう。

鶯餅の方は風味付けだけで良いので、柚子皮を擂り下ろし少量を餡に混ぜた。

皮は黄緑色の餅に腹の辺りだけ薄い黄色を使い、嘴と目を黒くする。

試作品は全部手で形を整えたが、木型を用意すれば量産も出来そうだ。

道雄君と二人で試食してみた。

まあ彼からすれば菓子は全て美味しいとしか言いようが無いのだろうが、笑顔が幸福感に満ちていた。

自分では幾つか改良の余地はあるものの珈琲や他の飲み物との相性も良く、特に鳥形の鶯餅は自信が持てた。

色も風味も鳩サブレとは全く別物になったので問題無いだろう。

これでこの先の午前からの営業の目処も立った。

収益が上がるようなら先々は専門の菓子職人を雇う事を考えても良い。

何より私が店で忙殺されるのでは意味が無いのだ。

私が志しているのは閑寂を旨とする文人の庵主なのだから。


春の新作の試食会には八幡宮の仕事が終わる夕方の時間に巫女さん達を招いた。

招待は透音さんに任せておいたら、当日何と八人も来てくれた。

揃って玉依姫にお参りしてから玄関に入って来る。

皆巫女装束から着替えて私服の大正袴姿だった。

「お招き有難う御座います!」

「楽しみにしていました!」

笑顔で元気良くご到着だ。

「こちらこそ、いつも玉依姫にお参り有難う。さあ、こちらにどうぞ。」

とテーブル席の部屋に案内する。

大正袴の娘さんこそ和洋折衷様式が似つかわしい。

「私こちらのお部屋は初めてよ。透音さんには聞いていたけれどハイカラで素敵ね!」

「ランプのテーブルも浪漫の雰囲気ね!」

今宵は抹茶と鶯餅、次に珈琲とオレンジスコーンの二本立てにしたので、飲み物一杯分はやや少な目だ。

まず朱塗りの根来皿に乗せた鶯餅と抹茶を運ぶ。

菓子の銘は結局鶯餅より良い名が思い付かないので、そのまま鶯餅だ。

「まあ、お腹の黄色が可愛い!」

「ちょっと開けた口と小さな目が生きてるみたい!」

「可愛い過ぎて、どこから食べれば良いのか!!」

いつの世もお嬢さん方に甘くて可愛い物が受けない訳がない。

「ほんのりとした柚子の香りで、普通の鶯餅より全然品が良いわ!」

「ほんとね。私鶯餅大好きだったのに、この味を知ってしまうと後が怖いわ。」

鎌倉の良家の子女の味覚はかなり肥えているから、これなら味も合格だろう。

しばらくは彼女達だけでお喋りを楽しんで貰い、私は次の用意だ。


オレンジスコーンは最後の一押しにブランデーを数滴垂らし、焼き立てを食べて貰うのだ。

下作りはしてあるから後は焼くだけ、数分で出来上がる。

珈琲は道雄君に淹れて貰った。

彼も飲み物の淹れ方には慣れて、もう珈琲は任せても大丈夫だ。

賑やかにお喋りが弾んでいたのに、新作スコーンを目の前にして会話がぴたりと止んだ。

「はぁー、良い香り!」

「まあ!焼き立てがこんなに香ばしいなんて!」

「ちょっとした苦味が珈琲にとても合ってるわ。」

ああ良かった。

洋菓子は余り自信が無かったのだ。

和室で袴姿の娘さん達が、英国製テーブルのランプ明りで洋菓子と珈琲を楽しむ。

これこそ私の理想通りの大正浪漫、和洋折衷様式の美の極致だった。


巫女さん達が皆満足顔で帰った後、三色団子の方はまだ試作もしていない事に気が付いた。

まああちらは普通の団子に色を付けるだけだから、明日我々だけで試食すれば良いだろう。

私の昼食は毎日ずっと握り飯か茶漬けばかりだったから、今後は団子も選べて結構嬉しいかもしれない。

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