28 楽園の冬
翌日翌々日と初日ほどでは無いが大入りが続き、どうにかその目まぐるしい週が終わった。
私は熨斗袋に五円ほど入れて道雄君に渡した。
「今週は慣れない仕事を良くやってくれた。これは毎月の給金とは別に、身支度金だと思って取ってくれ。」
「わあ!有難う御座います。」
喜びが彼の顔一杯に出ている。
多分生まれて初めて自分で稼いだ金だろう。
素直に喜んでくれれば私も嬉しい。
「土曜日曜は休みだから、それで私服でも買うなり好きに過ごすと良い。」
「はい、では本をお借りしたいんですが。」
「どんなのが良いの?」
「古典は大体読んだので、最近の本が良いです。」
「じゃあ小説と詩歌を何冊か出しておくよ。」
「よろしくお願いします。」
「あとは運動がてら一日一度は外を歩く事を薦めるよ。」
「はい、わかりました。」
まあ以前の新之助のような引き籠りにならないようにね。
私は本と一緒に納屋から小箪笥を持って来てやった。
彼の部屋は押入れ付きだが細々した物もこれからは増えるだろう。
我が庵にやって来た時の彼の持ち物は、避難所で支給されたらしい替えの下着一組と手拭い、
あとは瓦礫から掘り出したのか父親の遺品らしい汚れた帳面が一つ、それだけだった。
土曜日の道雄君は朝方ちょっと元いた寿福寺と駅前方面を歩いて来たと言ったが、その他は昼食時以外は本を持って自室に閉じ籠っていた。
この時代の娯楽と言えば演劇映画はある物の、今の鎌倉では見られない。
庶民の娯楽の筆頭は何と言っても読書だった。
明治以来の教育が行き渡り読書人口も飛躍的に増え、日本で初めて出版物も大衆向けから高踏派まで、児童向けから海外文学の翻訳物まで出揃った時だった。
若者が読書に熱中するのも無理は無い。
夕方に植達さんが庭と場所を移した茶室の様子を見に来た。
二人で敷地の西のまだ荒れたままの山際に来て辺りを眺める。
枯れ果てたままの芒の明るい金色と岩肌の暗褐色の対比が美しい。
「この岩壁と荒れた草叢の豪壮さが京都の雅には無い鎌倉の良さだと思うんだ。」
「手入れの行き過ぎた綺麗さより、荒びに近い自然さと言う事ですか。」
「その通り。君も瑞泉寺の夢窓国師の庭園を見ているだろう?あの自然の草が這う岩壁の中の幽玄なやぐらと細々と刻まれた石段、荒々しい岩盤の中の静かな小池と僅かな土に生えた水仙。そしてその手前に広がる夢幻の花園。そんな庭を我が姫神達が歩くんだ。」
「難しそうですが、何か掴めて来ました。やり甲斐がありますね。」
「うん。時間は掛かっても良いからじっくり取り組んでくれ。」
あとは茶室の跡地に池を造り両岸に春の牡丹と秋の芙蓉を植える事と、移した茶室の周りの草花の配置を相談して帰った。
良さそうな桃の木が手に入ったのでまた植えに来るとも言っていた。
植達さんはよその仕事の合間にもちょうくちょく植えた木の様子などを見に来てくれる。
私は店が営業中でも庭仕事には支障無いので、都合の良い時にやってくれと頼んだ。
日曜日は冷え込んで朝から小雪がはらはらと舞っていた。
座敷の炬燵に炭を入れ、道雄君に読書なら炬燵に入ってするように言った。
今日は私も書斎から句歌帳を持って来て、仕上がっていない俳句短歌を炬燵でひねくり回す事にした。
昼食の時以外は互いに会話も無く集中していたようで、気付けば夕暮れが近い。
やけに静かだと思ったら庭に雪がうっすら積もっていた。
姫神のやぐらに雪が吹き込んでいたら掃かなければと思い見に行くと、深閑と静まった空気の中で玉依姫はいつも通りの微かな笑みを湛えている。
雪はやぐらの中にまでは積もっていないが、像の腕の上にひとひら舞い落ちて来た。
私はそっと姫神の雪片を払い屋内に戻ろうと振り返ると、薄雪に白化粧の庭が見えた。
積もる雪は茶室跡の間の抜けた更地も小径も枯草も庭中も包み、鎌倉中を包み震災の傷跡を包み地上の物は全て白く美しく潔められていた。
[降る雪は瓦礫の跡をこの町を 白く冷たく包みて許す] 新之助
これは後でもう少し手を入れるべきだろうが、取り敢えず今日は置いておこう。
再び振り返れば降る雪の向こう側で、玉依姫は静かに微笑みながら佇むばかりだった。
明くる朝には雪は二寸弱くらい積もって止んでいた。
空は眩いほど青く明るく、地上では雪の一粒一粒が十字の光芒を放ち煌いている。
玉ノ井は細いながらも凍りもせず清冽に流れ、玉依姫も雪に濡れる事は無かった。
庭の寒椿は雪を被り、殊に紅玉の蕾の鮮やかさが引き立っている。
雪が俗世の音を全て吸い取ったかのような静かな朝だった。
冬陽溢れる女神の楽園は天と地とが輝き合う中、無音の中に溶け込んでいた。
私は門前の路地と門から玄関への通路だけ雪掻きをして、開店の準備に入った。
この積雪で訪れる客は少ないだろうが、その少ない客はきっと皆風雅の士だ。
花入に紅玉椿を活け、炭火を熾して炬燵と火鉢を温めておく。
鎌倉に積もる程雪が降るのは精々年に二三回で、積もっても一日か二日で解けてしまう。
だから雪月花をこよなく愛でる人々は、鎌倉で最も雪景色が美しい場所はどこか普段から知っていて雪が積もる日を待ち構えているのだ。
茶画詩庵は新しい店だからここの良さを知っている人は少ないが、門から見た庭母屋裏山まで雪化粧した姿は一幅の名画だった。
まだ未完成で見るべき物も無い庭も、雪に隠れてしまえば返ってすっきりした雪野に見える。
私はこの裏山までの雪景色の全てが見渡せる門脇のビューポイントに、緋色の番傘を立て緋毛氈を敷いた縁台を据えて客がしばし寛げるよう手炙りも用意しておいた。
座敷側から見ても白一色の世界の中の緋色の傘と縁台は、それを囲んで庭のあちこちに見え隠れする紅玉椿と共に、厳寒の大地の中に灯された火種のように見えた。
いつもは午後からの店を今日は朝から開けてみようと思う。
普段も門だけはは朝から開けてあり、知人達が顔を見たり先日の八幡宮の巫女さん達が玉依姫にお参りに出入りしていたのだ。
真っ先に訪れたのは通勤途中に寄ってくれた透音さんとその巫女仲間達だった。
「はぁー!」
巫女達はあどけなさの残る頬と耳に紅を兆して、門からの眺めに深く溜息をついていた。
その息の尾が白く凍りながら天に昇って行く。
彼女達が玉依姫にお参りしている間に縁台に熱いお茶を出したのだが、一口だけ飲んで八幡宮のお勤めに向かって行った。
少し後からカメラを持った常連さん等がぽつぽつ入り、緋毛氈の縁台のお茶が好評だった。
やや日も高くなった頃に大佛夫妻がやって来た。
鎌倉はどの道も雪掻きが済んでいて、ご婦人が歩くにも支障無かったそうだ。
しばらく門脇の縁台に腰掛け景色を眺めてから座敷に入って来た。
酉子さんはしきりに道雄君に話しかけ、いろいろ聞いている。
「彼もかなり本好きでね、この前の休日も一日中本を離さなかったよ。」
「じゃあ今度出る僕の雑誌を持って来てあげよう。」
「ああ、私も読みたいから頼むよ。」
大佛夫妻には今は子供がいないので、酉子さんは彼の境遇に母性を揺さぶられたのかも知れない。
ふと思い付いて私は酉子さんにお願いした。
「これから買物をして帰るなら、ついでに道雄君を古着屋に連れて行って彼の普段着を見繕って貰えると有り難いんだが。どうも自分で服を買った事が無いらしくてね。」
「あら、そうなの。お安いご用意よ!」
酉子さんは目をきらきらさせながら承知してくれた。
「私も最近の若者の服には不調法なんで助かるよ。じゃあこれでよろしく頼む。」
と、五円ほど渡しておく。
大佛夫妻は道雄君を連れて楽しそうに出て行った。
茶画詩庵は元々食事を出していないので、昼餉時は客足が絶える。
私は道雄君が帰って来るのを待たずに昼食を済ませた。
昼を回って木々の小枝に積もっていた雪は解け、寒椿に乗っていた雪も落ち出した。
そして大風呂敷を抱えて道雄君が帰って来た。
荷を解いて見せて貰うと、スタンドカラーの上等な白シャツが二枚、灰色のウールのズボンが一本、毛糸の帽子と手袋、厚手の黒足袋、絹のマフラーまであった。
いくら古着屋でもこれでは渡した金額では足りなかったろうに………。
まあ、さすがに上着までは買っていないから、ここは彼女の好意に甘えておこう。
私も押入れから亡父の物だった毛織物のコートを引っ張り出してそれらに加えた。
彼にはまだ少し大き過ぎるだろうが、袖を折れば着られる。
道雄君は戸惑いながらも嬉しそうに礼を言い、服を自室へ抱えて行った。




