24 歌人吉井勇
吉井さんはこの先の放浪中に江戸俳諧の研究にのめり込み、あの晩年の閑寂な歌境に達する。
そこで私は書庫から芭蕉の元禄版猿蓑を持ち出し彼の前に置いた。
「おお、『猿蓑』の初版か!この手に取って読めるとは。」
「昔からの家伝の物らしく、書庫で埃を被っていました。」
「幕府の祐筆だったとは聞いたが、さすが直参旗本の家だな。」
「いいえ、伯爵家には敵いませんよ。」
「うちは御維新の勲功で新規の華族にはなったが、昔の薩摩と京や江戸では文化度の差は如何ともし難い。」
私は再び書庫へ行き他にも彼の好きそうな和書漢籍を持って来た。
「当初の木版本だと今の活字で読むのとは全く違うね。こんな庵でこんな書を前に座っていると、まるで自分が江戸時代の文人になった気分だよ!」
「貸し出しは出来ませんが、ここでの書見ならいつでも歓迎しますよ。」
「そりゃ有難い!鎌倉の図書館もまだ閉鎖中だし、代わりにここに通わせてもらおう。」
彼は後の洛北隠棲時代にこれと同じ猿蓑を手に入れ、それを随筆中で大いに自慢する事になる。
この人もまた本の虫だった。
そしてその数日後にも午前中から吉井さんが来て、離れの部屋を貸してくれと言う。
文机と先日の和書数冊を出して、私は店の支度があるから後はご自由にと放っておいた。
昼食に握り飯と茶を持って行くと、古書は傍らに積んだまま何やら自分の原稿を書いている。
ご自由にと言った以上別に文句がある訳では無いが、………離れの茶室はすっかり彼の書斎として乗っ取られた。
次の日吉井さんは更に朝早くやって来て離れに籠った時、透音さんが何やら慌てた様子で駆け込んで来た。
「朝比奈さん、今八幡宮の弁天島に瘴気が出て!」
と息も荒く告げた。
「強い瘴気なのか?」
「いえ強くはないのですが、いつもとは少し違う感じがするので………」
「よし、すぐ行く!」
私が装備を掴んで走り出そうとした所に、離れから吉井さんが顔を覗かせた。
「聞こえたぞ!僕も連れて行け!」
まあ仕方ない。
「ご自由に。ただ、危ないかも知れないのであまり近づかないように。」
「わかった!」
我々に遅れて吉井さんも走って付いて来た。
弁財天は八幡宮の源平池の中島にある。
ここの社も被災し弁天島への小橋も壊れてまだ渡れず、橋の手前に賽銭箱だけが置いてあった。
その賽銭箱が壊され一部の破片が池に浮かんでいる。
さらには向こうの弁天島に薄い瘴気が漂っていた。
「………ああ、これは明らかに人間の仕業だね。瘴気はその人の邪悪な心に反応して湧いたようだ。」
「ただの賽銭泥棒でしたか。では瘴気祓いはいつも通りで?」
「それで良い。今回は君だけで大丈夫だろう。」
私も一応小振りの源氏丸を持って来たが、朝から人目のある中で剣を振り回すのも気が引ける。
「はい、お任せください!」
透音さんが壊れた小橋の袂に立ち、神鈴を掲げた。
生花は飾っていないが例の冠を付けている。
たちまち膨大な神気が集まって来る。
シャンシャンシャン
シャンシャンシャン
「水浄く〜!」
「天津乙女の奏でたる〜!」
シャンシャン
………いや、もうここで瘴気は消えてるからね………
シャンシャン
「妙なる音にぞ島祝ぎ奉る!!!」
………………
シャンシャンシャン
あー……決めの舞まで?
「“越天楽”!」
シャンシャンシャン
………
後方では数人の野次馬に混じり吉井さんがあんぐりと大口開けて見ていた。
きっと野次馬達には瘴気も神気も見えてはいないと思うが、吉井さんには見えたのだろう。
すぐに歩み寄って来て、
「はぁー、これが瘴気と神気の戦いか!」
「吉井さんにも見えるんですね?」
「おう、はっきり見えた!飛鳥井君も後光が差す程美しかった!」
「もう吉井先生、お世辞がお上手で!」
………ああそれで透音さん、先生に良い所を見せようと張り切って………
三人で庵に戻り珈琲で一服した。
そこで吉井さんにせがまれて透音さんが大百足退治の話をした。
「まさか今の世に古の俵藤太のような事が蘇るとはなあ。だが今朝この目で見た以上信じるしか無い。」
「きっといつの時代でも、ごく少数の人達には瘴気も物の怪も見えていたのでしょう。今の世も同じですよ。」
「吉井先生も神気瘴気がお見えになるなら、きっと瘴気祓いもお出来になりますわ。」
透音さん、あまり焚き付けない方が………。
「おお、そうかね!私にも出来そうか!!」
「先生なら祝詞はお手のものですし、言霊の強さはいつものお歌にも漲っていますもの!」
「よし、やってみよう!朝比奈君、是非稽古を付けてくれんかね!」
「朝比奈さん、私からもお願いします!蒲原先生が去られた代わりに吉井先生に仲間になって頂ければ心強いです!」
うーん、吉井さんの資質は十分だと思うが、何か一つくらいは神気の拠り所となる装備でもないと………
あっ、もしかしたらあれが使えるかも!
「ではちょっと試したい物があるので、少しお待ちください。」
私は納屋から古い硯箱を持って来て、二人の前で開けた。
納屋には他に強力な神気の籠った装備が幾つもあったので、これはあまり印象に残っていなかったのだ。
箱の中にある硯はただ古いだけの物だが、穂先が虫に喰われぼろぼろになった筆には確かな神気が残っている。
中国明時代の雀頭筆だ。
更に言えば神気は元々穂先ではなく、緻密な神仙境の彫刻の施された筆幹に籠っていた。
たぶん御先祖さまがお上からでも拝領した物だろう。
穂先を別の筆から外した綺麗な物に替えて膠で止め、汲んで来た玉の井の浄水で清める。
「吉井さん、試しにこれを持って神気を籠めてみてください。」
「神気を籠めるとは?」
「先生、言霊です。お得意の短歌で良いんです!」
「そうか、では………」
吉井さんは立ち上がって大上段に筆を構えた。
「か〜に〜か〜く〜に〜!」
………ぼぁーっ!!!
驚いた!
これ程とはね、さすが大歌人の言霊だ。
一瞬吉井さんの持った筆から強力な神気が迸ったのだ!
「わあ!先生凄いです!」
透音さんも立ち上がって拍手している。
「はぁー、自分でも驚いたよ!」
歌の上五を吟じただけでこれなら、邪鬼はともかく通常の瘴気なら一瞬で祓える。
意外に筆の神器と言うのも歌人には似合っていた。
「神筆でしたね。どうぞそれをお使いください。」
「良いのかい、こんな凄い物を?」
「その神筆は吉井さんにしか使いこなせませんよ。蒲原先生は神器は各々に合った物を使えと仰せでした。」
「では遠慮なく使わせて貰うよ。有難う!飛鳥井君も有難う!」
「また今度お稽古もご一緒しましょう!」
欲を言えば防御力のある装束も欲しいが、またどこかで探してみよう。
透音さんは昼前に八幡宮のお勤めに戻り、吉井さんも雑誌の原稿を忘れていたと離れに向かった。
やがて昼時となり私は離れに握り飯を差し入れ自分も厨で昼食を済ませ、午後は店番をしながら今朝の事を考えた。
人の世に小さな悪は限りなくある。
今朝の瘴気はコソ泥と言えど弁財天の神域が侵された事で湧いて来た。
これがもっと大勢の邪悪な心や支配階級の巨悪ともなれば国中に大変な瘴気が湧き、より強力な邪鬼の出現に繋がりかねない。
この大震災を乗り越えてもその先の昭和恐慌、そして国民ぐるみ軍国主義に走った挙句の敗戰、
更に戦後の伝統文化と聖性喪失の時代。
今後の日本は次々と災厄を招いてしまうのだ。
私は絶望的な未来を知っているが故に己れの無力感に苛まれるが、幸いな事にまた一人神気を感じ聖なる物を護る心を持った仲間が増えた。
鎌倉の人々や文士の多くが破邪の力を持ってくれれば、例え日本と言う国は駄目になろうとも、ここ鎌倉だけは美しき聖域を保って行けるだろう。
やがて閉店時間となり吉井さんも神筆の礼を言いながら帰って行った。
江ノ電はすでに九月中に復旧しているので、片瀬までならすぐ着く。
見上げれば日の暮れた師走の空から、この冬初めての雪がちらほら舞い降りて来た。




